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就職先が倒産したので牧場を継いだら、俺だけ馬の声が聞こえるようになりました  作者: 萩原詩荻
第三章 ???

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第四十七話 クロエ騎手は面白い馬がお好き

 トレセンという場所は、朝が早い。


 いや、競馬に関わる場所はだいたい朝が早いのだけど、ここはその“早い”の質がちょっと違う。


 朝から全員、「今日も競走馬を仕上げます」って顔で動いている。


 朝一番から坂路へ向かう馬、まだ眠そうな厩務員、あったかいお茶を片手にやたら真面目な顔をしている騎手、新聞をくしゃっと握ったまま「今日は動くな」とか言ってる調教助手。


 トレセンという場所は、みんな真剣なくせに、ちょっとだけ滑稽だ。


 そして僕は、こういう場所が大好きだ。


「HELLO!岡部さーん」


 そう呼びかけると、奥から、聞き慣れた穏やかな声が返ってくる。


「やあ、クロエさん」


 岡部さんは今日も岡部さんだった。


 この人、普段は“いい人そう”で誤魔化されがちだけど、かなり怖いタイプの一流なんだよね。


 今日は久しぶりに、岡部さんから『ちょっと見てほしいデビュー前の馬がいてね』と連絡が来たので厩舎に寄ってみた。


 調教師の「ちょっと見てほしい」は、だいたい二種類ある。


 一つは、本当に“ちょっとだけ意見を聞きたい”時。


 もう一つは、“面白いものを見つけたから、見た方がいいよ”の時だ。


 今回は、たぶん後者だった。


「面白い馬がいるってことでいいのかな?」


 わくわくしながら、聞いてみる。


「うん。かなり面白いと思うよ」


 この人の「面白い」は信用できる。


 なぜなら、この人は無駄に大げさなことは言わない。


 そのかわり、本当に面白い時だけ、ちょっとだけ嬉しそうな顔をする。


 今がそれだった。


「へえ」


 僕は、厩舎の奥に視線を流した。


 馬房が並ぶ。


 鼻を鳴らす馬がいっぱい。


 でも、いる。


「……あの子だね?」


 僕が指で示すと、岡部さんが少しうなずく。


「わかるかい?」


「もちろーん」


 わかる。


 というか、わからないと困る。


 この仕事、わからないと普通に死ぬ。


 近づいた馬房の中にいたのは、鹿毛の二歳馬だった。


 ボクは馬房の前まで歩いていった。


 中の馬は、ぴんと耳を立ててこちらを見ている。


 うん、いい目。


 岡部さんが隣で肩をすくめる。


「この子は桜井牧場が馬主でね。ストーンブレイクとカスタードの子なんだよね」


「おお、両方僕が乗ったことある馬だね」


 カスタードは僕が主戦を務めた子だ。


 あの子も強かったなー。

 癖も、競馬も。


「ストーンブレイクも覚えてるのかい?」


 岡部さんが意外そうに返してくる。


「そりゃ覚えてるよ。面白い馬だったし」


 あの時のことは、結構覚えている。


 十二月の中山。

 大逃げさせた最後で「まだ来るの!?」って脚使った面白い馬。


 僕はそこで、少しだけ笑って付け足した。


「面白い馬と、馬主ボーイだったからね」


 岡部さんが、ははは、と声を立てて笑う。


「まだ“馬主ボーイ”なんだ」


「彼はずっと馬主ボーイだよ。歳をとっても、たぶん」


「それはちょっとわかるなぁ」


 わかるんかい。


 馬の『振り落とされるなよ』を、本当に通訳してきた面白いボーイ


 ただ普通に、「この馬がそう言ってます」と言ってきた。

 あれ、かなり面白かったんだよね。


 ああいうの、たまにいる。

 競馬の神様にちょっとだけ気に入られてるタイプ。


 そして、その馬主ボーイが馬主らしいこの二歳馬。


「で、この子の名前は?」


 僕が聞くと、岡部さんは少しだけ間を置いてから答えた。


「サクライルドルフだよ」


「WAO!すごい名前つけられてるね!!」


 いや、本当にすごい。


 名前というのは、人間の期待や祈りやエゴや、だいたいそういうものが詰まっている。

 そして時々、ちょっとやりすぎる。


「ははは。そうなんだよねえ」


 サクライルドルフ。


 いやあ、いい名前だ。強い名前だ。強すぎる名前だ。


 競馬ファンが聞いたら十人中九人くらいは「お、おう……」って言うタイプの名前である。


「いやー、これは……期待と願望とロマンが全部乗ってる名前だね」


「だよねえ」


 こういうの好きだな。


 大きな名前をつけるのは、ある意味で責任だ。


 でも、競馬なんて、責任とロマンを両方抱えてやるものだ。


 だったら、でかく夢を見るのは悪くない。


「大丈夫?この名前で新馬戦負けたら、ちょっと恥ずかしくない?」


「そこなんだよねえ」


 岡部さんが笑いながら頭をかく。


 たぶん、同じことを思ったことんだろうな。


 そんな名前を背負わされた目の前の子は、その会話が自分のことだとわかっているらしく、こっちをじっと見ていた。


 礼儀よく見せようとしてるけど、内側に「俺はすごい」が溢れてる。


 僕は馬房の柵に肘を置いた。


「やあ、ルドルフ」


 鹿毛が短く鳴いた。


「ヒヒン!」


 いい返事だ。


 いや、意味はわからないけど。


 ボクは馬主ボーイじゃないからね。


 でも雰囲気はわかる。


 これは、たぶん『初めまして。私はたいへん礼儀正しい馬です』みたいな返事だ。


 耳と目と首の角度と、立ち方と、呼吸の置き方でだいたいわかる。


「礼儀正しいフリをしている暴君って感じだね」


「ブヒン!?」


 今の反応、絶対『何を言ってる!?』ってやつだ。


 いいね、君。


 すごくいい。


「その顔、すごくいいよ」


「ブルルル」


「うんうん、わかる。『私はそんなことありませんが?』って言いたいんでしょ?」


「ヒヒン!」


「でも内心では『頂点は私です』って思ってるでしょ?」


「ブヒン!!」


 だんだん反応が大きくなってきた。


 岡部さんが横で笑っている。


「どうだい?」


「いいね、君」


 僕が素直にそう言うと、ルドルフはちょっとだけ鼻を鳴らした。


 さっきより、ほんの少しだけ得意げな顔になった気がする。


 なにこれ、かわいいな。


「こういう子は乗り甲斐あるよ」


「だろう?」


 岡部さんの声が、少しだけ誇らしげになる。


 調教師っていうのは、自分の預かってる馬を褒められると、だいたいちょっと嬉しそうになる。

 それがいい。


「で?」


 僕は、ルドルフの鼻先を見ながら聞いた。


 岡部さんは、少しだけ肩をすくめた。


「良かったら、主戦騎手に、って」


「おお」


 まあ、そういう話だろうとは思ってた。

 思ってたけど、やっぱり改めて言われると少しだけ重みがある。


「デビュー戦は?」


「朔くん……いや、馬主と相談してからだけど、来月の新潟の予定」


「新潟かあ」


 悪くない。


 まだ何者でもない馬たちが、急に何者かになる場所だ。


「とりあえず、それ乗ってから決めようか?」


 岡部さんが、やさしく頷く。


「そうだね」


「『主戦やります』って言って、乗ったら『あ、思ったより普通』ってなると、ルドルフくんに悪いし」


「そういうところ、ちゃんとしてるよねえ」


「超一流だからね」


「自分で言うんだ」


「言うよー」


 するとルドルフが、その会話に割り込むみたいに低く鼻を鳴らした。


「ブルルルル」


 うん?

 今のは何だろう。


 たぶん、『乗ってから決めるとは何事ですか。私を見ればわかるでしょう』みたいな声だろう。


 僕は思わず笑ってしまった。


「ほら、もう文句言ってる感じする」


「そうだろう?」

「うん」

「でも、たぶんそこがいいんだよね」

「わかる」


 馬って、こっちに期待してくるくらいがちょうどいい。


 うん、面白い。


 もちろん、こういう空気をまとっていて普通に未勝利で終わることもある。


 競馬はそういうスポーツだ。


 でも、“面白い”かどうかで言えば、面白い。


 かなり。


 面白い馬に乗れるのは、騎手の特権だ。


「夢があるね」


 僕は思わずつぶやいた


 岡部さんは、それを聞いてまた笑った。


「夢、かあ」


「競馬なんてだいたいそうでしょ?」


「それはそうなんだけどね」


 岡部さんも苦笑する。


 夢がないと、こんなにお金も時間も胃も削らない。


 いや、削るだけなら他の仕事でもできるけど、競馬にはロマンと夢がある。


 大人しい馬が怪物になることもある。

 荒っぽい馬が繊細な名馬になることもある。

 誰にでも好かれる優等生が伸び悩むこともあるし、

 誰から見ても面倒くさい暴君が、とんでもないところまで行くこともある。


 このルドルフくんは、どっちだろう。


 まだわからない。


 でも、わからないから面白い。


 誰に言うでもなく、僕は呟いた。


「また変なのに会っちゃった」


 そして、たぶん。

 僕はこういう馬に、かなり弱い。


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