第四十七話 クロエ騎手は面白い馬がお好き
トレセンという場所は、朝が早い。
いや、競馬に関わる場所はだいたい朝が早いのだけど、ここはその“早い”の質がちょっと違う。
朝から全員、「今日も競走馬を仕上げます」って顔で動いている。
朝一番から坂路へ向かう馬、まだ眠そうな厩務員、あったかいお茶を片手にやたら真面目な顔をしている騎手、新聞をくしゃっと握ったまま「今日は動くな」とか言ってる調教助手。
トレセンという場所は、みんな真剣なくせに、ちょっとだけ滑稽だ。
そして僕は、こういう場所が大好きだ。
「HELLO!岡部さーん」
そう呼びかけると、奥から、聞き慣れた穏やかな声が返ってくる。
「やあ、クロエさん」
岡部さんは今日も岡部さんだった。
この人、普段は“いい人そう”で誤魔化されがちだけど、かなり怖いタイプの一流なんだよね。
今日は久しぶりに、岡部さんから『ちょっと見てほしいデビュー前の馬がいてね』と連絡が来たので厩舎に寄ってみた。
調教師の「ちょっと見てほしい」は、だいたい二種類ある。
一つは、本当に“ちょっとだけ意見を聞きたい”時。
もう一つは、“面白いものを見つけたから、見た方がいいよ”の時だ。
今回は、たぶん後者だった。
「面白い馬がいるってことでいいのかな?」
わくわくしながら、聞いてみる。
「うん。かなり面白いと思うよ」
この人の「面白い」は信用できる。
なぜなら、この人は無駄に大げさなことは言わない。
そのかわり、本当に面白い時だけ、ちょっとだけ嬉しそうな顔をする。
今がそれだった。
「へえ」
僕は、厩舎の奥に視線を流した。
馬房が並ぶ。
鼻を鳴らす馬がいっぱい。
でも、いる。
「……あの子だね?」
僕が指で示すと、岡部さんが少しうなずく。
「わかるかい?」
「もちろーん」
わかる。
というか、わからないと困る。
この仕事、わからないと普通に死ぬ。
近づいた馬房の中にいたのは、鹿毛の二歳馬だった。
ボクは馬房の前まで歩いていった。
中の馬は、ぴんと耳を立ててこちらを見ている。
うん、いい目。
岡部さんが隣で肩をすくめる。
「この子は桜井牧場が馬主でね。ストーンブレイクとカスタードの子なんだよね」
「おお、両方僕が乗ったことある馬だね」
カスタードは僕が主戦を務めた子だ。
あの子も強かったなー。
癖も、競馬も。
「ストーンブレイクも覚えてるのかい?」
岡部さんが意外そうに返してくる。
「そりゃ覚えてるよ。面白い馬だったし」
あの時のことは、結構覚えている。
十二月の中山。
大逃げさせた最後で「まだ来るの!?」って脚使った面白い馬。
僕はそこで、少しだけ笑って付け足した。
「面白い馬と、馬主ボーイだったからね」
岡部さんが、ははは、と声を立てて笑う。
「まだ“馬主ボーイ”なんだ」
「彼はずっと馬主ボーイだよ。歳をとっても、たぶん」
「それはちょっとわかるなぁ」
わかるんかい。
馬の『振り落とされるなよ』を、本当に通訳してきた面白いボーイ
ただ普通に、「この馬がそう言ってます」と言ってきた。
あれ、かなり面白かったんだよね。
ああいうの、たまにいる。
競馬の神様にちょっとだけ気に入られてるタイプ。
そして、その馬主ボーイが馬主らしいこの二歳馬。
「で、この子の名前は?」
僕が聞くと、岡部さんは少しだけ間を置いてから答えた。
「サクライルドルフだよ」
「WAO!すごい名前つけられてるね!!」
いや、本当にすごい。
名前というのは、人間の期待や祈りやエゴや、だいたいそういうものが詰まっている。
そして時々、ちょっとやりすぎる。
「ははは。そうなんだよねえ」
サクライルドルフ。
いやあ、いい名前だ。強い名前だ。強すぎる名前だ。
競馬ファンが聞いたら十人中九人くらいは「お、おう……」って言うタイプの名前である。
「いやー、これは……期待と願望とロマンが全部乗ってる名前だね」
「だよねえ」
こういうの好きだな。
大きな名前をつけるのは、ある意味で責任だ。
でも、競馬なんて、責任とロマンを両方抱えてやるものだ。
だったら、でかく夢を見るのは悪くない。
「大丈夫?この名前で新馬戦負けたら、ちょっと恥ずかしくない?」
「そこなんだよねえ」
岡部さんが笑いながら頭をかく。
たぶん、同じことを思ったことんだろうな。
そんな名前を背負わされた目の前の子は、その会話が自分のことだとわかっているらしく、こっちをじっと見ていた。
礼儀よく見せようとしてるけど、内側に「俺はすごい」が溢れてる。
僕は馬房の柵に肘を置いた。
「やあ、ルドルフ」
鹿毛が短く鳴いた。
「ヒヒン!」
いい返事だ。
いや、意味はわからないけど。
ボクは馬主ボーイじゃないからね。
でも雰囲気はわかる。
これは、たぶん『初めまして。私はたいへん礼儀正しい馬です』みたいな返事だ。
耳と目と首の角度と、立ち方と、呼吸の置き方でだいたいわかる。
「礼儀正しいフリをしている暴君って感じだね」
「ブヒン!?」
今の反応、絶対『何を言ってる!?』ってやつだ。
いいね、君。
すごくいい。
「その顔、すごくいいよ」
「ブルルル」
「うんうん、わかる。『私はそんなことありませんが?』って言いたいんでしょ?」
「ヒヒン!」
「でも内心では『頂点は私です』って思ってるでしょ?」
「ブヒン!!」
だんだん反応が大きくなってきた。
岡部さんが横で笑っている。
「どうだい?」
「いいね、君」
僕が素直にそう言うと、ルドルフはちょっとだけ鼻を鳴らした。
さっきより、ほんの少しだけ得意げな顔になった気がする。
なにこれ、かわいいな。
「こういう子は乗り甲斐あるよ」
「だろう?」
岡部さんの声が、少しだけ誇らしげになる。
調教師っていうのは、自分の預かってる馬を褒められると、だいたいちょっと嬉しそうになる。
それがいい。
「で?」
僕は、ルドルフの鼻先を見ながら聞いた。
岡部さんは、少しだけ肩をすくめた。
「良かったら、主戦騎手に、って」
「おお」
まあ、そういう話だろうとは思ってた。
思ってたけど、やっぱり改めて言われると少しだけ重みがある。
「デビュー戦は?」
「朔くん……いや、馬主と相談してからだけど、来月の新潟の予定」
「新潟かあ」
悪くない。
まだ何者でもない馬たちが、急に何者かになる場所だ。
「とりあえず、それ乗ってから決めようか?」
岡部さんが、やさしく頷く。
「そうだね」
「『主戦やります』って言って、乗ったら『あ、思ったより普通』ってなると、ルドルフくんに悪いし」
「そういうところ、ちゃんとしてるよねえ」
「超一流だからね」
「自分で言うんだ」
「言うよー」
するとルドルフが、その会話に割り込むみたいに低く鼻を鳴らした。
「ブルルルル」
うん?
今のは何だろう。
たぶん、『乗ってから決めるとは何事ですか。私を見ればわかるでしょう』みたいな声だろう。
僕は思わず笑ってしまった。
「ほら、もう文句言ってる感じする」
「そうだろう?」
「うん」
「でも、たぶんそこがいいんだよね」
「わかる」
馬って、こっちに期待してくるくらいがちょうどいい。
うん、面白い。
もちろん、こういう空気をまとっていて普通に未勝利で終わることもある。
競馬はそういうスポーツだ。
でも、“面白い”かどうかで言えば、面白い。
かなり。
面白い馬に乗れるのは、騎手の特権だ。
「夢があるね」
僕は思わずつぶやいた
岡部さんは、それを聞いてまた笑った。
「夢、かあ」
「競馬なんてだいたいそうでしょ?」
「それはそうなんだけどね」
岡部さんも苦笑する。
夢がないと、こんなにお金も時間も胃も削らない。
いや、削るだけなら他の仕事でもできるけど、競馬にはロマンと夢がある。
大人しい馬が怪物になることもある。
荒っぽい馬が繊細な名馬になることもある。
誰にでも好かれる優等生が伸び悩むこともあるし、
誰から見ても面倒くさい暴君が、とんでもないところまで行くこともある。
このルドルフくんは、どっちだろう。
まだわからない。
でも、わからないから面白い。
誰に言うでもなく、僕は呟いた。
「また変なのに会っちゃった」
そして、たぶん。
僕はこういう馬に、かなり弱い。




