第四十五話 牧場主やってると金銭感覚おかしくなりそう
「いやあ、去年も良い馬はいたが、今年も良さそうなのがいるねぇ」
目の前にいるのは、時折来てくれる馬主さんだ。
去年も、一歳牝馬を一頭買っていってくれた。
隣で弥生ちゃんがお茶を出してくれている。
もうすっかりこの手の来客対応にも慣れたものだ。
頼もしすぎて、最近色んな面で頭が上がらないことがある。
「そう言ってもらえると本当に嬉しいです」
これは本音。
でも、この続きが既に読めて困るのも本音。
「特に、あの鹿毛の一歳馬。カスタードの子なんだってね。--------円でどうだい?」
横で弥生ちゃんが、湯呑みを置く手を一瞬だけ止めた。
そりゃそうだろうな。
でも。
「すみません」
俺は頭を下げた。
「あの子は、売るつもりないんです」
◇
そんな感じで、結局別の子を買ってくれた馬主さんをお見送りした俺は、頭を抱えていた。
「……怖い」
金の話が。
「大丈夫ですか?」
弥生ちゃんが、苦笑しながら麦茶を差し出してくれる。
「ありがとう……いや、普通にビビるな」
「わかります」
「わかる?」
「だって、--------円って……」
「うん……」
二人でちょっとだけ遠い目になる。
そう、一歳になったルドルフはどうやらプロの目から見て、イイらしい。
骨格がいい。
歩様もいい。
走る姿も、なんか妙に堂々としてる。
素人の俺ですら、「あ、なんか違うな」と思う。
ましてや、プロが見ればそりゃもう色々と思うんだろう。
結果。
「この馬、もし出すなら早めに声を」
「今のうちに押さえておきたいですね」
「かなり面白いと思いますよ」
「馬主名義はもう決まってるんですか?」
となっている。
全部笑顔でかわしてはいるが、精神状態には良くない。
そりゃそうだろ、もー。
その時、ブロロロロロロ、と、明らかに“いい車です”という音がして、俺は思わず額を押さえた。
「……来た気がする」
「誰です?」
弥生ちゃんが聞いてくる。
「一番高値付けそうなやつ」
外に出てみると、予想どおりだった。
「やあやあ、小さい牧場主君!元気にしているかね!」
「やっぱり来たか」
金持である。
「ふん、君のところに“大物の匂いがする一歳牡馬がいる”と聞いてね」
「噂回るの早すぎるだろ」
「狭い世界だからね!」
それを得意げに言うな。
金持は、俺を押しのける勢いで放牧地の柵までずんずん歩いていき、そしてルドルフを見た。
ぴたりと止まる。
数秒。
「……ほう」
お。
これは本気の顔だ。
「どうだ」
俺が聞くと、金持は視線を外さないまま答えた。
「あれがカスタードの子だね?」
「わかるのか」
「当たり前だろ」
なるほど。
金持はしばらく無言でルドルフを見ていたが、やがて振り返って俺に言った。
「売ってくれたまえ」
「嫌だ」
「値段は相談に乗る。かなり本気で出す」
「売らない」
「即答かね!?」
「即答だよ」
金持は本気で悔しそうな顔をした。
「僕のところなら、環境も設備も最高だ。育成面では、君の牧場よりずっと上だ」
「そうかもな」
「認めるのかね!?」
「認めるけど、嫌だ」
俺だってわかる。
設備も、人も、情報も、全部向こうの方が上だ。
でも、それとこれとは話が別だ。
「あいつは、うちの馬だから」
それだけ言うと、金持は少しだけ黙った。
それから、困ったように頭をかいた。
「……そういう顔をされると、少しやりにくいね」
「知るかよ」
「いいだろう、今回は引いてやる」
「助かる」
こういうところ誠実だよなぁと思って、ふとルドルフを見ると……あ?
なんで、あいつ柵に向かって走って、あ。
とんだ。
あ!?
ルドルフが柵を飛び越えた。
「ルドルフーーーーーーーーー!!!!」
弥生ちゃんが、めちゃくちゃ怒って走って行ってる。
ルドルフが、明らかにビクッとした顔で慌てて助走を取り直して……あ、バカ。
もう一回飛んで、牧場の内側に戻った。
……弥生ちゃんがあんなに怒るなんて珍しいから、逃げようとしたんだろうな。
でも、もう一回飛んだから倍怒られるぞ、あいつ。
「……今の跳躍見たかね?」
「見てない」
「見てただろ!?」
「見てない」
俺は精神衛生上悪いものは見ない。
金持は、わざとらしくため息をついてから言った。
「たしかに、あの馬は君の牧場で走らせた方が面白いことになりそうだ」
「面白いって理由でいいのか」
「いいに決まってるだろう、競馬だぞ?」
金持がニヤッと笑う。
たしかに。
それはそうかもしれない。
◇
ルドルフを怒るのは弥生ちゃんに任せて、仕事をしていると、
「やあ」
天山さんが現れた。
「どうも……」
みんな、アポイントメントって概念ないの?
天山さんは、面白そうに目を細めた。
「見せてもらっても?」
「……どうぞ」
もうどうにでもなれ。
天山さんは、放牧地の外からしばらくルドルフを見ていた。
「ふむ」
その一言だけで、なんか値段が五倍くらい上がりそうで嫌だな。
「売る気は?」
「ありません」
「即答だね」
「はい」
「なるほど」
天山さんは頷いた。
「では、なぜ残すのか聞いても?」
「……他の人と馬には秘密にしてもらってもいいですか?」
「もちろん。君と私だけの秘密にすると約束しよう」
「見たいからです」
「何を?」
「こいつが、うちでどこまで行くか」
天山さんは少しだけ笑った。
「気持ちはわかる」
本当にわかってる顔で言うのが怖いんだよな、この人。
「金を積まれたら揺れますけど」
「正直だ」
だってそうだろ。
揺れはするよ。
でも、それで売るかは別だ。
天山さんは、しばらく考えてから言った。
「いいと思うよ」
「え?」
「君がそう決めたなら、それでいい」
意外だった。
もっとこう、「うちで見てやろう」とか、「私のところなら」みたいな話になるかと思ったのに。
でも天山さんは、少しだけ笑っていた。
それから、ぽつりと言った。
「その仔がどこまで行くかはわからない」
「はい」
「だが、“売らない”と決めるべき馬は、たしかにいる」
その一言だけ残して、天山さんは去っていった。
なんだ今の。
すごく格好いいこと言って帰ったな。
◇
全部終わった夕方。
俺は厩舎の前に座り込み、深く息を吐いていた。
「疲れた……」
精神的に。
その時、問題児がのこのこ近づいてきた。
「朔、弥生にめっちゃ怒られた。すっごい怖かった」
ルドルフだ。当たり前だ。
「お前、なんで柵飛び越えたんだよ」
「売られるかと思ったから逃走ルート確保しようと思って」
「売らないよ」
「ほんと?」
「ほんと」
ルドルフは、それを聞いて、妙に満足そうに頷いた。
「じゃあいい」
そして、そのまま当然みたいな顔で俺の肩に鼻先を押しつけてきた。
甘え方が雑。
弥生ちゃんが、横で少しだけ笑う。
「ほんと、わがままですね」
「な」
「でも、ちゃんとわかってるんでしょうね」
「『弥生ちゃん怖かった』って言ってる」
「当たり前です!」
弥生ちゃんが「ふんす!」としているが、
ルドルフは、俺たちの会話など気にせず、むにむにと俺の肩を押している。
「朔」
「何」
「りんご」
「今日はやらない」
「けち」
「けちで結構」
柵を飛び越えたことは、まあ俺は怒らないでおいてやろう。
もっかいやったら怒るけど。




