第三十九話 不受胎だったら泣いてたかもしれん
① 受胎確認
「うん、大丈夫そうだね」
獣医さんが、ふっと息を吐いた。
「ありがとうございます」
良かった、マジで一安心だ。
目の前にはストーン。
今日の空気は、普段よりちょっとだけ真面目だった。
ストーンの腹の中に、ちゃんと次がいるのかどうかが無事確認されたのだ。
ゴールドファームでのあのドタバタを思い出すと、ここで「やっぱダメでしたー」になったら色々な意味でしんどい。
財布も、精神も。
ストーンが大きく息を吐いた。
「よかったよ、もう一回ってなったらカスタードを蹴ってたかもしれない」
恐ろしいこと言うんじゃねぇよ。
「というか、もう一回は払えねぇよ」
ストーンの「ブヒヒ」という妙に疲れた声に、俺も正直な感想を返す。
獣医さんは苦笑しながら道具を片付けていた。
「順調だから、あとは普通にしてればいいよ」
「普通が一番難しいんですよね」
「まあね」
そう言って帰っていく獣医さんを見送りながら、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
こういう時は、専属獣医がいるゴールドファームみたいな牧場が羨ましくなるな。
ひとまず、第一関門クリアである。
弥生ちゃんが、少しだけ真面目な顔で頷いた。
「でも、無事でよかった。ストーン。一年間頑張りましょうね」
ストーンは、その言い方がちょっと気に入ったのか、ふんと鼻を鳴らした。
「三回目だから、慣れたもんさ」
「ほんとか?」
「ほんとだよ」
「去年も『二回目だから、慣れたもんさ』って言って、急に全力疾走して爺さんに怒られてただろ」
「あれは気分転換だよ」
「お前らの気分転換、命がけなんだよ」
ストーンはふふんと鼻を鳴らし、それから少しだけ真顔になった。
「まあ、でも」
「ん?」
「ちゃんと入っててよかったよ」
その声は、ほんの少しだけ静かだった。
俺も頷く。
「そうだな」
どんな名牝でも、全部うまくいくわけじゃない。
牧場って、だいたいそういう現実の塊だ。
だからこそ、こういう「大丈夫そうだね」は、うれしい。
その空気を、当然のように当歳たちがぶち壊した。
「さくー! よかったのー!?」
「よかったならおやつー!?」
「おいわいー!?」
「しゅくじつー!?」
「なんで祝日なんだよ」
「おいしいことあるひってしゅくじつー?」
「それはそうかもしれない?」
その日の夕方は、気分的にちょっとだけいい草が追加された。
人間もちょっと良いケーキを食べた。
② 久しぶり
ジリリリリリ。
この家の固定電話は、毎回ちょっとしたイベント感がある。
「はい、桜井牧場です」
『ああ、朔くんかね』
「あ、天山さん」
低くて落ち着いた声。
でも、相変わらずちょっと圧がある。
『急にすまないね』
「いえ、大丈夫です」
『よければ、一度△△牧場にテンザンサクラの様子を見に来ないかね?』
「あ、お邪魔していいんですか?」
『ああ、種付けシーズンも落ち着いたし、他の牧場を見るのも経験だ』
テンザンサクラ。
うちで生まれて、セリで売れて、朝日杯を勝って、引退したあの芦毛。
ゴールドファームみたいな巨大牧場は別としても、引退した名馬が次の仕事をしている場所を見るのは、かなり勉強になる気がした。
「ありがとうございます。ぜひ」
『うむ。では日を改めて案内させよう』
「よろしくお願いします」
チン。
受話器を置いて、少しだけ考える。
テンザンサクラに直接会うのは……うちを出てってからは初めてか。
ちょっと楽しみだな。
◇
というわけで、やってきました△△牧場。
天山さんが関わっている牧場だけあって、やっぱりちゃんとしている。
施設も綺麗だし、働いてる人たちの動きにも無駄がない。
うちの牧場が「生活感ある実家」だとしたら、ここは「成功した親戚の家」みたいな感じである。
案内されて厩舎の方へ向かうと、奥の方からテレビでも見た芦毛が顔を出した。
「おー」
「久しぶり、テンザンサクラ、って呼んでいいか?」
俺がそう言うと、テンザンサクラは少しだけ変な顔をした。
「朔に名前で呼ばれると変な感じするな」
「わかる」
一人と一頭で、なんとなくちょっと笑った。
なんだこれ。
「元気そうだな」
「そっちもな」
「GⅠ取るなんてすごいじゃないか」
俺が素直に言うと、テンザンサクラは得意げに首を上げた。
「やっぱ才能かな」
「おい」
「『アイツも朔も俺がなぎ倒してやる』って言ったろ?」
「まあ、実際そうなったな」
セリで高値がついてびっくりした、あの日のことを少し思い出す。
「よくがんばったな、ありがとう」
そう言うと、テンザンサクラは一瞬だけ黙って、それから少し視線を逸らした。
「……別に」
あ、照れてるなこれ。
でも、テンザンサクラが思っている以上に、うちはコイツに助けられた。
うちの牧場で生まれた馬がGⅠを勝ったってことが、どれだけ大きいか。
テンザンサクラは視線をそらしてから、聞いてきた。
「クラウンはどうしてる?」
「ん?」
「種牡馬は無理だろ?」
お前、容赦ないな。
でも、まあ、そこは事実だ。
「ああ、町の乗馬施設で働いてるよ」
「……うるさそうだな」
「うるさかったぞ」
「子ども相手に得意げな顔してそう」
「してた」
「だろうな」
また一人と一頭で少し笑う。
あ、そういえば。
「ゴールデンウイングが、今度みんなで遊ぼうって言ってたぞ」
テンザンサクラが露骨に嫌そうな顔をした。
「違う牧場の俺たちがどうやって集まるんだよ」
「たしかに」
「相変わらず強いのに、ぼんやりしてるな、アイツ」
テンザンサクラがブツブツ言うが、
言い出しっぺのゴールデンウイングは、たぶんそのへん何も考えてない。
……あれ、俺がどうにかするの、これ?
少しだけ考えてから、聞いてみた。
「……遊びたいか?」
テンザンサクラは、即答しなかった。
耳をちょっと動かして、視線をそらして、いかにも考えてないふりみたいな間を置いてから、ようやく小さく言った。
「……まあ、ちょっとだけ」
おお。
素直じゃない。
でも、そう言ってくれるだけでもなんか嬉しいな。
「じゃあ、いつか考えとく」
「本気で考えるなよ。実現したらそれはそれで面倒そうだろ」
「そうだな」
テンザンサクラは呆れたみたいに鼻を鳴らした。
でも、ちょっと嬉しそうだった。




