第三十一話 天高く馬肥ゆる秋
十月の北海道は、だいぶ寒い。
タイヤは冬タイヤに交換済みだし、山の方では雪も降る。
季節の移り変わりってのは早い。
特に、毎日やることが決まっていて、そして決して少なくない牧場では、なおさらだ。
そして、牧場には秋の風物詩というものがある。
親離れである。
「やよいちゃーん、かけっこしよー!」
「さくー、うんこでたー!」
「にんじーん!ぱせりー!」
「ねぇねぇねぇ!見て!くらうんにーちゃんの真似!『ふっ!』」
「ふっ!」
「ふっ!」
……。
さみしくねぇのか?
いや、母親を呼んでるやつはたまにいる。
いるけど、全体としてはだいぶ元気だ。
むしろ元気すぎる。
親離れした直後って、もっとこう、しんみりしたりするんじゃないのか。
いや、馬によるのか?
それとも、うちの当歳たちが特別うるさいだけなのか?
まあ、その賑やかさを背中で聞きながら、厩舎の中で書類とにらめっこしていた。
馬房の片隅で、小さいテレビをつけっぱなしにしながら、書類を広げている。
テレビでは競馬中継。
書類は、今年の一歳馬のセリや庭先取引の売上やら餌代やら、今後の予定やら。
つまるところ、現実が全部ここに集まっている。
「……うーん」
数字が多い。
文字も多い。
牧場主って、もっとこう、馬を撫でて「よーしよしよし」してれば成立する職業じゃなかったのか。
いや、違うな。
それで成立するなら、世の中の牧場はもっと平和だ。
「朔さん」
声がして顔を上げると、弥生ちゃんが厩舎の入り口から顔を出した。
額に少しだけ汗を浮かべている。
「放牧終わりました」
「ありがとう、本当に助かる」
俺が素直に言うと、弥生ちゃんは少しだけ照れくさそうに笑った。
「いえ」
この子に来てもらうようになって、なんだかんだでもう二か月近く経っていた。
毎日は来ていないけど、当歳には特に懐かれている。
非常にありがたい。
それはともかく。
弥生ちゃんが、放牧地の方をちらっと見た。
「親離れしたばっかりだと、やっぱりさみしいんですかね」
まあ、そう考えるのが自然だけど、聞こえる声を鑑みると……
「……たぶん、そんなに寂しがってない」
俺が言うと、弥生はぽかんとした顔をした。
「そうなんですか?」
「うん、もちろん性格の差はあると思うけどね」
「へえ……」
弥生ちゃんは素直に頷いて、俺を見る。
「……本当に聞こえてるんですね」
まあ、気持ちはわかる。
「気のせいかもしれないけどね」
「いや、そこ曖昧にするんですか」
「曖昧にしとかないと、自分でもちょっと怖いから」
「それは、まあ……たしかに……」
弥生が真面目な顔で頷いた。
この子、変なところで素直なんだよな。
俺は書類を一度膝の上で揃えてから、ポケットから小さな封筒を取り出した。
「そういえば、はい、バイト代。ありがとね」
「ありがとうございます」
弥生が両手で丁寧に受け取る。
こういうとこ、ほんと真面目だ。
「……あんまり出せなくてごめんね」
言いながら、少しだけ申し訳なくなる。
バイトを頼む時にも思ったけど、うちはそんなに潤沢に人件費を出せる牧場じゃない。
弥生はすぐに首を振った。
「いえ、良い経験です」
「そう言ってもらえると助かる」
「学校経由でもありますし、それに……」
弥生ちゃんが封筒を見ながら、ちょっとだけ笑う。
「最初に思ってたよりはちゃんといただいてます」
「最初どれくらい想定してたの」
「にんじん一本とか」
「そんなわけあるか」
いや、馬相手ならあるかもしれないが、人間相手にそれをやったら普通に怒られる。
すると、ちょうどそのタイミングで、テレビの実況の声が少し大きくなった。
『さあ直線!!先頭ゴールデンギガント!外からミスタークラウン!!ミスタークラウン来る!!しかし前も止まらない!一着はゴールデンギガント!二着にミスタークラウン!!』
「おっ」
思わず俺の声が出た。
ダートのオープンクラス。
重賞とかではない。
でも、ちゃんと元気で走っている。
「よし! クラウン、今日もえらいぞ!!」
画面の中では、ゴール後、少しむすっとした顔で引き揚げていくクラウンが映っている。
たぶん今ごろ、「くそぉぉぉぉ!!二着かよ!!」とか言っているに違いない。
弥生ちゃんが、テレビと俺を交互に見ながら言った。
「二着ですか。中々勝ちきれませんね」
「わかる」
俺は素直に頷いた。
「俺も正直、最初はそう思ってた」
「ちがうんですか?」
「違うっていうか……」
俺は少しだけ考えた。
どう言うのが一番わかりやすいかな、と思って。
弥生ちゃんは競馬がわからないわけじゃない。
だから、なるべくわかりやすく言うなら。
「そのバイト代、一番稼いでるのクラウン」
弥生が、ぱちっと瞬きをした。
「……あ」
「そう」
わかりやすく言うとそういうことだ。
「正直うちみたいな小さい牧場にとっては、すごいありがたいくらい稼いでくれてるんだよね」
「たしかに……」
「よく考えたら、普通にすごいんだよな。オープンまで行ってるし」
これはマジでそうなのだ。
クラウンは自分を“未来のGⅠ馬”扱いしてるから感覚がバグるが、オープンまで行くってかなりすごい。
しかもケガせず、ちゃんと走って、ちゃんと賞金を稼いでくる。
それはもう十分すぎるくらい偉い。
「ケガもしないように頑張ってるみたいだしね」
俺がそう言うと、弥生ちゃんは封筒を見て、それからテレビを見て、ちょっとだけ考え込んだ。
「……じゃあ私」
「ん?」
「クラウン先輩に、お礼言った方がいいですか?」
「先輩!?」
そこに先輩後輩の概念入るんだ。
「だって、バイト代の一部を稼いでるなら……」
そんな会話をしていると、ぬっとストーンが顔を出す。
「あのガキは、褒めすぎると調子に乗るからほどほどにね」
「はは、たしかにな」
俺が笑ってストーンに答えると、弥生ちゃんが羨ましそうに聞いてくる。
「ストーンブレイクは何て言ってるんですか?」
「ん?『クラウンを褒めすぎると調子に乗るからほどほどに』ってさ」
「なるほど、気を付けます」
弥生ちゃんは少し笑ってから、考えるような顔になる。
「なんか……」
「ん?」
「思ってたより、競馬って、夢だけじゃないですね」
「うん」
「でも、だからこそ、夢があるのかも」
「それはそうかもしれない」
夢だけじゃない。
でも、夢がなくなるわけでもない。
たぶん、この仕事ってそういうもんだ
俺は画面の中のクラウンを見ながら、小さく笑った。
たぶん今ごろ向こうで、
「くそぉぉぉぉ!!今日こそ勝ったと思ったのにぃぃぃ!!」
「俺の伝説の歩幅がちょっと足りなかったぁぁぁ!!」
とか言ってるんだろう。
でも、お前、かなりえらいぞ。
「あ、弥生ちゃん」
「はい?」
「冷蔵庫に、この前天山さんが持ってきた高そうなゼリーがある」
「えっ」
「たぶん一個数百円する」
「食べていいんですか?」
「帰る前に食べてって」
「すごいですね、この牧場」
「一個だけだよ」
それ以上食べられたら俺が泣く。




