第二十九話 牧場主、一人でやると普通に無理っぽい
「さく、げんきないねー?」
「さく、ねむいのー?」
「いっしょにおひるねしよー?」
当歳たちに心配されるようでは、俺はダメかもしれない。
今朝の俺は、すでに一ラウンド終えたボクサーみたいな顔をしていた。
理由は簡単だ。
爺さんがいない。
ちょっと体調を崩して、苫小牧の病院に数日だけ検査入院することになったのだ。
数日だけ。
たった数日。
たかが数日。
そう思っていたのは、主に三日くらい前までの俺である。
今の俺は知っている。
数日だけでも、めちゃくちゃしんどい。
爺さんがいなくても、馬たちはいつもの馬たちだ。
いつもと同じように腹を減らし、同じように文句を言い、同じように無責任である。
「坊主ー」
一番手前の繁殖牝馬が眠そうな声で言う。
「さっきからその干し草、三回同じ場所に置こうとしてるよ」
「マジで?」
「マジ」
「やっぱり、もうダメかもしれん」
餌をやって、水を替えて、馬房を掃除して、放牧に出して、当歳を見て、繁殖牝馬の様子を見て――とにかく朝からやることが減らない。
牧場ってこんなに「今これ終わったから次これ」って無限に出てくるの?
ゲームだと一日ボタン一つで終わるのに。
いや現実にそのボタンあったら逆に怖いけど。
いなくなって初めてわかったけど、爺さんは、仕事が速かったんだなぁ。
「……今さらだけど、爺さん、すごかったんだな」
ぽつりと呟くと、隣の馬房からストーンが鼻を鳴らした。
「今さら何言ってんだい」
「いや、ほんとそうだなって」
「あの爺さんが何十年ここでやってんだと思ってんのさ」
「まあ、そうなんだけど」
そうなんだけど、こういうのは実際いなくなってみないとわからない。
……いや、別にいなくなったわけじゃないけど。
数日検査入院してるだけだからな。
実際、爺さん本人はかなり元気だった。
『見舞いに来る暇あるなら牧場の仕事を一人でちゃんとしろ』
電話でそう言われた時の声に、弱った気配は一ミリもなかった。
むしろ怒鳴る元気があった。
しかも看護師さんから電話も来た。
『桜井さん、すごく元気なので大丈夫ですよ』
「元気なんですか?」
『はい。今も「俺は帰る」って言ってます』
「帰さないでください」
『頑張ります』
病院の人、なんかすみません。
◇
午後。
ひととおり馬を落ち着かせて、冷めたうどんをすすっていた時、固定電話が鳴った。
ジリリリリ。
「はい、桜井牧場です」
『こないだのダービーは見たかね!?』
「うわっ」
いきなり元気だな。
金持だった。
「見たよ。ゴールデンウイング三着だろ。惜しかったな」
受話器の向こうで、金持がふっとため息をついた。
『皐月賞の勢いで行けるかと思っていたのだが、競馬は本当に難しいね……』
「それはそう」
ダービーはゴールデンウイングでも、テンザンサクラでもない馬が勝った。
朝日杯馬のテンザンサクラ。
皐月賞馬のゴールデンウイング。
ならダービーもどっちかかな、という気持ちは俺ですらちょっとあった。
『ダービーというのは特別なんだ!あれは勝ってほしいんだ!わかるかね!?』
「まあ、わかる」
わかるけど。
「で、切ってもいいか?ちょっと忙しいんだけど」
『そう、それだよ!!』
「どれだよ」
いきなり声のトーンを上げるな。
『お爺さんが入院したんだろ?』
「なんで知ってるんだよ」
『狭い業界だからね』
さらっと怖いことを言うな。
いや、まあ、たしかにこの辺の業界は狭い。
誰がどこで何をしているか、怖いくらいみんな知っている。
『だからまあ、その……』
そこで金持が少しだけ咳払いをした。
『必要なら、だ。必要ならだぞ?人手を探すくらいなら手伝ってやってもいい』
「……」
人手。
そっかぁ、そういう選択肢もあるのかぁ。
「……まあ、とりあえず大丈夫だよ。ありがとう」
『ふん。そうかい』
「でも助かった。覚えとく」
『覚えておけ。そして今度うちのゴールデンウイングをもっと褒めるといい』
「皐月賞はすごかったな」
『そうだろぉ!!』
また元気になった。
「じゃあ切るぞ」
『待て待て待て!僕との通話をそんなに雑に扱うな!』
「すまん、今はマジで忙しい」
『た、倒れるんじゃないよ!?』
チン。
受話器を置いて、少しだけ天井を見上げる。
幸い、お金はないわけじゃない。
でも、あるならあるで悩む。
牧場って、使おうと思えばいくらでも使い道があるからだ。
餌代、設備、馬の医療費、種付け料、修繕費、その他もろもろ。
「……ケチってるわけじゃないんだよなあ」
誰に言い訳してるんだ、俺は。
◇
うどんを急いで食べた後、俺はまた厩舎へ戻った。
考え事をしながらでも働かないと回らないのだ。
「でも、たしかに爺さんの体調も鑑みると、人手が欲しいな……」
俺がぼやくと、クラウンが横で草をもしゃもしゃしながら言った。
「そんなに金ねぇの?」
こいつは今、いったん放牧で帰ってきている。
少し前にオープン戦を走って三着だった。
勝ったら重賞に行ってみようか、という話もあったが、勝てなかったので保留である。
でも、オープンで三着って普通にすごい。
かなりすごい。自慢していいレベルだ。
本人はあまり納得してなさそうだけど。
「なくはないけど、使い道って悩むよねって話だ」
「ふーん」
クラウンは、咀嚼のテンポを変えずにしばらく考えていた。
そして、ぽつりと。
「でも朔と爺さんが忙しくて倒れる方が困るぞ?」
予想よりまともな返しが来て、少しだけ驚いた。
「……それもそうなんだよなぁ」
そういう、当たり前だけど見落としがちなことを、こいつに言われてしまうと妙に説得力があるのは何故なんだ。
クラウンは、妙に満足したように鼻を鳴らした。
「だろ?」
「クラウン、意外と賢いじゃないか」
クラウンは得意げに胸を張った。
「当然だ。俺は桜井牧場の看板馬だからな」
「その自称、だいぶ板についてきたな」
「自称じゃない。事実だ」
まあ、事実なんだけど調子に乗るから言わない。
「俺に任せとけ!!」
突然、クラウンが前脚をひとつ高く上げた。
「ダートの重賞バンバン勝ってきてやる!」
「期待してる」
「足りん!もっとこう、『おおクラウン、お前だけが希望だ!』みたいな反応をしろ!」
「いや、そこまで言うと逆にプレッシャーだろ」
「俺は圧で育つタイプだ!」
「聞いたことねぇよ」
すると、横の馬房からストーンが半眼でこっちを見た。
「ガキんちょ」
「なんだよ姉ちゃん」
「まずオープン戦ちゃんと勝ってから言いな」
「うっ」
図星を突かれたクラウンが、露骨に詰まる。
相変わらずストーンには頭の上がらないクラウンである。
俺は思わず笑ってしまった。
「ははは」
「笑うな朔!」
「いや、でもさ」
「でもさじゃない!俺は今、理想の未来を語ってるんだよ!」
クラウンがぶんぶん首を振る。
「見てろよ!次は勝つ!その次も勝つ!その次はたぶんなんか偉いレースだ!」
「たぶん、で偉いレース目指すな」
「えらいれーすってなーに?」
「どばいはえらいってテレビでやってたー」
「きっとおいしいものだよー!」
「ぼくもえらいれーすたべたーい!」
当歳たちも一緒にきゃっきゃしてる。
でも、なんだろうな。
こいつがこうやって、無駄にでかい口を叩いてくれると、ちょっとだけ気が楽になる。
クラウンは強い。
最強じゃないかもしれない。
でも、今の桜井牧場の“顔”ではある。
だから、こいつが元気に騒いでるだけで、牧場全体がなんとなく「まあ、大丈夫か」みたいな空気になる。
そういうやつなのだ。




