第二十八話 いつの間にか俺も三年目らしい
六月の北海道は、梅雨もないし、気持ちがいい。
……と、観光パンフレットにはたぶん書いてある。
たしかに空は高いし、風は涼しいし、草は伸びるし、日も長い。牧場の景色としてはかなりいい季節だと思う。
ストーンの二回目の種付けも無事――無事?
いや、まあ、無事に終わった。たぶん。
今年の二歳馬、つまり「客観的」が口癖の芦毛も岡部さんのところへ入っていった。
出ていく日の朝に、
「僕はたぶん、冷静に状況を判断して、堅実に結果を出すタイプだから」
とか言っていたが、その三分後に馬運車のスロープの前で「思ったより角度あるね?」とびびって固まっていたので、客観性って何だろうなとは思った。
でもまあ、無事入厩した。
今のところ大きな問題は聞いていない。
うちの馬たちは、なんだかんだ言いながら、ちゃんと出ていく。
偉い。
去年と同じなら、ここで少し「やれやれ」と一息つける時期である。
なのに。
「…………忙しすぎる」
放牧地の柵にもたれながら、遠い目で呟いてしまうほど忙しかった。
「さくー! なんか飛んでるー!」
「トンボだよ」
「とんぼー! たべられるー!?」
「たぶん美味しくない」
「おかあさーん! あいつが僕の影踏んだー!」
「影は踏まれても減らないから気にすんな」
普通にうるさい。
可愛いけど、うるさい。
まあ、これは去年もそうだった。
けど、今年は、爺さんが俺の仕事量を「もう三年目だろう」と露骨に増やし始めたのと……
ブロロロロロロ。
牧場の入口の方から車の音がしている。
「今日も誰か来たのか……」
お客さん対応が多くて、忙しい。
◇
「ここが桜井牧場さんですか?」
「先日、天山さんからこちらの牧場の話を聞きまして」
「やあ、一昨年にパーティで会ったね」
「一歳を少し見せてもらえませんか」
庭先取引というやつだ。
簡単に言うと、セリの前に牧場へ直接来て、「この子、うちでどう?」とか「もしセリに出すなら声かけて」とか、そういう話をしに来るやつだ。
うちみたいな小さい牧場からすると、結構“すごいこと”である。
去年もちょっとは来てくれていたが、今年は明らかに多い。
理由は単純。
テンザンサクラである。
一昨年、うちから売れていったあいつが、GⅠを勝った。
その結果、急に「桜井牧場の馬をちょっと見てみるか」みたいな人が増えたのだ。
……少しだけ、クラウンの名前も知られているらしいこともわかった。
そして、色んな人が見に来ると、仔馬たちは妙にテンションが上がる。
「朔ー! この髭のおじさん、さっきから俺の脚ばっか見てる!」
「仕事だからだよ」
「僕、今日なんか高く売れそうな顔してる?」
「知らんがな」
牝馬の一頭なんて、見学に来たスーツ姿の男を見上げて、
「この人、たぶん私のこと好き」
とか言い出した。
お前、その自信どっから来るんだ。
でも実際、その人はその牝馬をかなり気に入っていたらしく、歩様を見て、肩の角度を見て、何やら難しい顔で頷いていた。
「気性はどうですか」
気性……生意気と答えるわけにもいかないし。
「まだちょっとやんちゃですけど、まあ、元気です」
よし、こんな感じで無難だろう。
すると横で当の牝馬が、
「この人、かなりお腹出てるからちゃんと運動するように言ってよ、朔」
とか言っている。
聞こえてなくて本当に良かったな。
◇
天山さんも来た。
相変わらず、いいスーツだった。
牧場の土の道に全然似合わないのに、似合ってしまうからすごい。
「やあ、朔くん」
「どうも、お久しぶりです」
「忙しそうだね」
「はい、まあ……ありがたいことに」
「ふふふ。それはよかった」
この人、やっぱりちょっと怖い。
声は穏やかなんだけど、なんか全体的に“見てる”感じがすごい。
天山さんはしばらく馬たちを見たあと、ぽつりと言った。
「テンザンサクラが走ったことで、いろいろ来るだろう」
「そうですね」
「小さい牧場には小さい牧場の武器がある。人の目が届くこと、気質が見えることだ」
「はあ」
「期待してるよ」
たぶんかなりの高評価なんだろうなと思った。
◇
その日の夕方、ようやく天山さんを見送って、俺は厩舎の壁に背中を預けた。
少し疲れた。
「……牧場主って、馬の世話だけしてればいいわけじゃないんだな」
ひと息つきながら呟く。
そこへ、ストーンが向こうの馬房から、半眼でこちらを見ていた。
「坊主」
「ん?」
「忙しいのはいいことだろ」
「そうなんだけどな」
「暇で誰も来ないよりは、よっぽどマシだ」
「それもそう」
「それで、誰か“この子をぜひ”みたいに言われたのはいたのかい」
「いた」
「ほう」
「来た人全員、気に入った馬が違った」
ストーンが、ぷっと鼻を鳴らした。
「そりゃそうだ。馬を見る目ってのは、だいたいみんな勝手だからね」
「そういうもん?」
「そういうもん。だから面白いのさ」
たしかに、そうなのかもしれない。
その時、当歳の一頭が全速力で走ってきて、俺の長靴に前脚をかけた。
危ないからやめなさい。
「さくー! おきゃくさんまだー!?」
「今日はもう来ない」
「やったー!」
「何がやったーなんだ」
「さくもあそぼー!」
その一言に、なんかちょっと力が抜けた。
まあ、そうか。
こいつらにとっては、庭先取引がどうとか、そんなの関係ない。
遊べるかとお腹空いた、お母さんどこくらいが世界の全部だ。
そう思うと、少しだけ笑えてくる。
「いいよ」
「やったー!」
当歳は満足したらしく、そのまま踵を返して別のやつに体当たりしに行った。
「さくあそんでくれるってー!!」
「やったなー!」
「わー!」
今日も平和だ。
平和で、うるさくて、忙しい。




