第二十七話 砂の帝王様(暫定)
ゲートの中ってのは、何回入っても気分のいい場所じゃない。
「さあこれからお前の能力を測りますよ」みたいな空気が気に入らない。
そんなこと、もっと優しく聞けよ。
今日の俺は、ダート1800m。
2勝クラス、十頭立て。
前までの俺なら、ここで「ふっ……この程度の相手なら」とか言ってたと思う。
いや、たぶん今でもちょっと思ってる。
でも、前みたいに頭の中がぐちゃぐちゃじゃない。
テンザンサクラが言ってた。
――お前はお前の場所で勝てばいい。
ゴールデンウイングは言ってた。
――落ち込んでも、お腹すくだけだよー。
あいつら、適当なこと言ってるようで、なんか妙に引っかかるんだよな。
そういえば、弥生賞と皐月賞は、ゴールデンウイングが勝ったらしい。
あの昼下がりの縁側みてぇなやつが、クラシックの主役をやってる。
世の中ほんと、見た目じゃわからん。
だが、俺も今日は、ちょっと気分がいい。
いや、気分がいいというか。
すっきりしてる。
俺は俺でやるしかねぇ、って腹が決まってる感じだ。
俺は桜井牧場の馬だ。
桜井牧場で育って、朔と爺さんにうるさくされて、ストーンの姉ちゃんに雑に扱われて、当歳どもに尊敬されたりされなかったりしながら、ここまで来た。
今は少しわかる。
レースってのは、俺一頭だけでやるもんじゃない。
騎手がいて、
厩務員がいて、
岡部さんがいて、
朔がいて、
爺さんがいて、
ストーンの姉ちゃんがいて、
あと牧場のうるさいのがいっぱいいて、
そういうの全部背中に乗せて走るんだ。
……まあ、当歳どもはたぶん「さくー! ごはーん!」くらいしか考えてないけど。
だったら、ここでやることは一つだ。
勝つ。
できれば派手に。
いや、派手じゃなくてもいい。
とにかく先頭でゴール板を通り過ぎる。
シンプルだ。
たぶん、それが一番かっこいい。
「クラウン、今日は落ち着いてるなー」
右隣の馬が、妙に感心した声で言った。
ちょっと気取った感じの鹿毛だ。
「まあな」
俺は短く答える。
「へえ。もっと騒ぐタイプかと思ってた」
「騒ぐ時もある」
「今日は?」
「勝つ日に無駄口叩くほど、余裕ない」
「……へえ」
鹿毛が、少しだけ口をつぐんだ。
今日は勝ちに来てる。
勝ちに来てないレースなんてないけど、今日は特にそうだ。
なんせ、朔と爺さんが見てるんだからな。
見てる……よな?
でも見てるだろ。
たぶん。
たぶん見てる。
見てなかったら、後で文句言ってやる。
背中の騎手が、首筋を軽く叩く。
「よし、大丈夫。今日、行けるぞ」
その声は落ち着いていた。
いい声だと思う。
この人、わりと好きだ。
無駄に煽らないし、かと言って弱気でもない。
今日の人間は、俺のことをわかってる。
たぶん、わりと。
今日は妙に頼もしく感じる。
ファンファーレ。
観客席がざわつく。
何度やっても、この瞬間だけはちょっと好きだ。
全員が前を向く。
隣のやつも、さっきまで「砂深くね?」とか言ってたくせに、もう前しか見ていない。
いい。
こういう空気は嫌いじゃない。
背中から、手綱の気配。
騎手が小さく言う。
「行こう」
おう。
ガシャンッ!!
世界が開いた。
砂が飛ぶ。
音が一気に増える。
十頭が一斉に前へ出る。
今日は、ちゃんと出た。
出遅れない。
行きすぎもしない。
いいぞ。
前に二頭、横に一頭。
俺はその外のちょうどいい位置につける。
騎手の体重が、余計なことをしない。
無理に抑えないし、行けとも言いすぎない。
ただ「今はここ」って場所を示してくる。
わかる。
今日はその方がいい。
コーナーへ入る。
ダートの砂が、顔にぱしぱし当たる。
正直うざい。
芝の方が見た目は華やかだし、足元も好きだ。
でも、砂は砂で悪くない。
走れば走るほど、脚の奥の方が落ち着く感じがある。
ぐっと踏んだ分だけ、ちゃんと返ってくる。
うん。
やっぱり俺、砂の方が向いてるのかもしれない。
芝の王者はキラキラしてる。
それは今でも思う。
でも、砂の帝王だってカッコいい。
帝王だぞ、帝王。
王者より、なんか強そうじゃないか。
向こう正面。
隊列が落ち着く。
先頭の気配が少しずつ苦しくなるのがわかる。
「いいぞ」
その声が、背中からまっすぐ入ってくる。
おう。
それだけで、ちょっと嬉しい。
単純かもしれんが、そういうもんだ。
三コーナー。
待て。
待つ。
昔の俺ならここで「ああもう!!」って飛び出してた。
そして直線で「あれ、脚がない……」ってなってた。
今日は待つ。
四コーナー。
背中から、声が落ちる。
「いいぞ、クラウン。いい形だ」
おう。
わかる。
これは、いい。
直線。
ここだ。
騎手の合図が変わる。
抑える手じゃない。
行けるか?じゃない。
行くぞ、だ。
こっちも短く返してやる。
ブヒン!
人間どもにはただの鳴き声にしか聞こえないだろう。
でも俺の中では、完全に
「任せろ!!」
だった。
俺は地面をひっかくみたいに一歩目を踏む。
前へ出る。
反応は悪くない。
むしろ、いい。
おお。
今日の俺、ちょっといいぞ。
砂の向こうにゴール板が見える。
遠い。
でも、今までよりちょっとだけ近く見える。
前に二頭。
そのうち一頭はもう止まりかけてる。
もう一頭は粘る。
よし。
抜ける。
「クラウン、いいぞ!」
騎手の声が、はっきり背中に響く。
その声が、なんか嬉しい。
俺はさらに首を前へ出した。
抜く。
一頭抜いた。
もう一頭に並ぶ。
「来た!」
「ミスタークラウンだ!」
その呼び方、いいな。
もっと言え。
そういうのだ。
そういう主人公向けの台詞がほしいんだよ。
残り二百。
直線の真ん中で、自分が先頭にいる景色って、なんか変な感じだな。
いや、今までだってあった。
あったけど、今日のこれはちょっと違う。
ちゃんと、脚が残ってる。
まだ行ける。
後ろの気配も、そこまで嫌じゃない。
砂が跳ねる。
音が大きくなる。
観客席がざわつく。
よっしゃ。
よっしゃあ。
これだ。
これだよ、俺が欲しかったのは。
残り百。
まだ前。
まだ先頭。
いや、先頭なんだけど、ここで油断したら絶対差される。
俺は知ってる。
だから最後まで行く。
首を低く。
脚を前へ。
肩を出せ。
騎手がまた言う。
「そのまま!」
鞭。
痛いというより、火がつく。
うるせぇな。
言われなくても行くよ。
でも、嫌いじゃない。
その一発に、ちゃんと勝つための気合いが入ってるからだ。
脚はもう楽じゃない。
でも止まらない。
止めない。
ダート二勝クラス。
GⅠじゃない。
でも、だから何だ。
俺は俺の場所で勝つんだろ。
テンザンサクラ。
見てるか。
ゴールデンウイング。
お前の「食べたらだいたい平気」理論、ちょっとだけ効いたぞ。
朔。
見てろ。
これが――
残り五十。
後ろから一頭、ちょっと来てる。
でも、今日は嫌な感じがしない。
たぶん残せる。
いや、残す。
残り二十。
ゴール板が近い。
近い。
あれを抜けたら終わる。
俺が先だ。
「これがあああああああああ!!!」
ゴール。
抜けた。
先頭で。
ちゃんと、先頭で。
一瞬、世界がわからなくなる。
脚はまだ勝手に動いてる。
止まれない。
でも、わかる。
勝った。
俺が勝った。
ダート二勝クラスとか、そんなの今はどうでもいい。
勝ったものは勝ったんだ。
それだけでいい。
「よっしゃああああああああああああ!!!」
俺は思わず声を張り上げた。
もちろん人間にはただのヒヒーンとかブヒヒンとかにしか聞こえてないだろう。
でも知るか。
見てるか!! 朔!!
テンザンサクラ!!
ゴールデンウイング!!
これが砂の帝王様の力だあああああああああ!!!
騎手が、笑い混じりに首筋を叩いてくる。
「やったな!!よくやった!!」
おう!!
もっと褒めろ!!
今日は褒められて当然の日だ!!
砂の上で一着だ!!
もう今日は砂の王でいいだろ!!
いや帝王だ!!
砂の帝王様だ!!!
うわっはっはっは!!!
◇
「よし、よくやったクラウン!」
馬房のテレビの前で、思わず声が出た。
小さい画面に向かって拳を握る。
クラウンが勝った。
ちゃんと勝った。
ダートの二勝クラス。
たぶん世間的には大騒ぎするような勝利じゃない。
この間、皐月賞の時は、金持はわざわざ電話してきて「見たか!うちのゴールデンウイングを!」と30分くらい喋ってたが、そんな凄いレースというわけではない。
でも、うちの牧場にとっては十分うれしい。
俺は、すごくうれしい。
「何か『これが砂の帝王の力だ!』とか叫んでそうだけど、流石にカメラが遠くてわからんな」
馬房の中で草を食っていたストーンが、もしゃ、と一拍遅れてこっちを見た。
「ん? クラウン勝ったのかい?」
「ああ! 頑張ったぞ!!」
「そうかい」
ストーンは、相変わらず少し偉そうに鼻を鳴らした。
でも、ちょっとだけ嬉しそうだった。
その時、足元の方から、妙に高くて元気な声がした。
「さくー! おかあさんどこー!?」
ストーンから生まれた当歳が、きょろきょろしながら叫ぶ。
「後ろ振り向け」
「あー! いたー!」
くるっと回った当歳が、嬉しそうにストーンの腹の辺りへ頭を押しつけた。
「まったく……」
ストーンが呆れたように鼻を鳴らす。
その当歳は、まだ母親が背後にいるだけで「いない!!」と騒ぐ。
元気なのはいいことだが、だいぶうるさい。
朔はテレビの中のクラウンを見ながら、ふと思い出したように言った。
「産まれたってことは、また近いうちに種付けだからな、ストーン」
その一言に、ストーンが少しだけ嫌そうな顔をした。
「……まともな牡馬だといいねぇ」
「……それはそう」
いや、去年の馬は割とまともだったと俺は思ってるけど。
テレビの向こうでは、クラウンはたぶん、まだうるさい。
「さて」
俺はテレビを見ながら、少しだけ笑った。
「帰ってきたらたっぷり自慢させてやるか」
その言葉に、ストーンが半眼で言う。
「甘やかすなよ」
「勝ったときくらいいいだろ」
「そうやってすぐ調子に乗るんだよ、あのガキんちょは」
「でもまあ、今日くらいはな」
雪の季節はもう過ぎた。
春と初夏の間みたいな空気が、厩舎の隙間から入ってくる。
牧場の仕事は相変わらず忙しい。
でもその忙しさの中に、ちゃんと一つ、嬉しい話が増えていた。




