第二十六話 同じ釜の飯を食った仲
「あー、クラウンくんだー」
「ん?」
気の抜けた声がした。
俺は耳を動かしながら、声のした方を見る。
通路を挟んだ向こうの馬房。
その暗がりの中から、ひょこっと顔が覗いていた。
「久しぶりー、元気してたー?」
「……お前」
その声。
その、緊張感のない顔。
その、いつでも昼下がりの縁側みたいな空気。
ゴールデンウイングだった。
函館の新馬戦で俺をぬるっと差し切っていった、あの腹立つくらい強い馬。
しかも、その隣の馬房から、今度は妙にハキハキした声が飛んできた。
「んんん?お、久しぶりだな」
芦毛。
その勢いと、ちょっと賢そうでな雰囲気の声で、誰だかわかった。
テンザンサクラだった。
前に会ったの、セリの前だから……一年半弱ぶりか?
「お前ら!? どうしてここに!?」
いや、そりゃ競馬場だから馬はいる。
いるけどさ。
よりによって、なんで今このタイミングで、こいつらなんだよ。
テンザンサクラは、いかにも「そんなこともわからんのか」みたいな顔で答えた。
「明日、弥生賞だから」
「またサクラくんと走るんだよー」
ゴールデンウイングが隣でへらっと言う。
あー。
あー、そうか。
弥生賞。
皐月賞の前哨戦。
「…………そっか」
俺は、それしか言えなかった。
そっか。
そりゃそうか。
朝日杯で一着と二着だった二頭だもんな。
俺はダート二勝クラスで三着。
あいつらは弥生賞。
……うん。
わかってたけどさ。
わかってたけど、こうして真正面から並べられると、ちょっとな。
なんかもう、走ってる地面そのものが違う感じがしてきた。
いや、片方芝で片方ダートだから、ある意味本当に違うんだけど。
テンザンサクラは、そんな俺の顔を見て何か察したらしく、妙に落ち着いた声で言った。
「牧場の様子はどうだ? 朔も爺さんも元気か?」
ゴールデンウイングも、ふわっとした声で重ねる。
「あー、そうそうー、おにーさん元気ー?」
その問いには、俺は答えることができた。
「こないだ帰ったときは元気だったぞ」
テンザンサクラは小さく鼻を鳴らした。
「……そっか」
ゴールデンウイングは、俺をじーっと見てから首を傾げた。
「クラウンくん、なんか元気ないねー? お腹空いたのー?」
違う。
いや、腹は空いてる。
走ったし。
でもそういう問題じゃない。
「……」
俺が黙ると、テンザンサクラが「はぁ……」と、やたら人間くさいため息をついた。
「あのな、クラウン」
「なんだよ」
「同じ釜の飯を食った仲として言うがな」
「ぼく食べてなーい」
ゴールデンウイングが、すぐ横からのんびり割り込む。
「うるさい、お前は牧場違うだろ」
「でも一緒にデビューしたよー」
「そうだな」
「じゃあ似たようなもんじゃなーい?」
「似てねぇよ」
テンザンサクラが珍しくちょっと苛立った声を出したので、俺は少しだけ面白くなった。
G1馬でも、ゴールデンウイング相手だとたまに雑になるんだな。
「で、何だよ」
俺が催促すると、テンザンサクラは一度鼻を鳴らした。
「お前、今、自分だけ置いていかれてるような顔をしてるぞ」
「してねぇよ」
「してる」
「してるねー」
俺は顔をそむけた。
だってしょうがないだろ。
明日、弥生賞なんだぞ。
皐月賞に向かうやつらのレースだぞ。
俺、さっきまでダート二勝クラスで三着だったんだけど。
テンザンサクラは、俺の返事なんか気にせず続けた。
「勘違いすんなよ。俺は自慢したいわけじゃない」
「いや、してもいい立場だろ、お前は」
「そりゃしたいけど」
「したいのかよ!」
「でも今は違う」
テンザンサクラが、ため息みたいに鼻を鳴らした。
「いいか、クラウン」
「なんだよ」
「俺は別に、お前が俺たちと同じところを走らなくてもいいと思ってる」
「……は?」
その言葉は、ちょっと予想外だった。
もっとこう、「お前も早く上がってこい」とか、「同じ舞台で待ってる」みたいな主人公っぽいことを言うのかと思ってた。
でもテンザンサクラは、淡々と続けた。
「同じところ走れたら、それはそれで面白い。けど、そうならなくても別に終わりじゃないだろ」
「お前、朝日杯勝っといてそういうこと言うのかよ」
「勝ったからこそ言えるんだよ」
なんだその嫌な説得力。
「お前にはお前の仕事がある」
「仕事?」
「そうだ。桜井牧場で生まれて、桜井牧場で育って、桜井牧場の看板背負って走る。それが仕事だろ」
俺は少しだけ黙った。
看板。
そんな大層なもん、俺に背負えるのかよって気持ちと、でもたしかに朔やストーンの姉ちゃんがそういう感じで俺を見てることは知ってる、って気持ちが同時に来る。
テンザンサクラは、ちょっとだけ口調を柔らかくした。
「俺は天山さんのとこに行った。ゴールデンはゴールドファームだ。お前は桜井牧場にいる」
「だから何だよ」
「だから、それぞれやることが違うって話だ。俺は俺の場所で勝つ。お前はお前の場所で勝てばいい」
ゴールデンウイングも、うんうんと頷いている。
「そうそうー。みんながんばろーねーってことだよー」
「お前は何でもその一言で済ませようとするな」
「だってだいたいそうだもん」
「雑!」
でも、不思議と腹は立たなかった。
腹立つこと言ってるのに、立たない。
たぶん、こいつらが変に同情してないからだ。
テンザンサクラは、じっと俺を見た。
「それに、俺はお前が桜井牧場に残ってよかったと思ってる」
「……なんで」
「なんでって」
テンザンサクラは少しだけ考えて、それからあっさり言った。
「お前、あそこ似合ってるだろ」
「どこがだよ」
「全部」
「ざっくりしすぎだろ」
「お前、ずっとあそこでうるさくしてろ。たぶんその方が、朔も爺さんも喜ぶ」
その言い方が、なんか妙に腹の奥に引っかかった。
嬉しい、ともちょっと違う。
でも、悪くない。たぶんかなり悪くない。
そこで、ずっと黙って聞いていたゴールデンウイングが、ぽやーっとした声で口を挟んだ。
「ぼくもねー、なんとなくわかるよー」
「お前が?」
「うん。落ち込んでも、お腹すくだけだよー」
「全然わかってねぇじゃねぇか」
「えー? でも本当だよー」
ゴールデンウイングは、まったく悪びれずに続けた。
「負けた日ってさー、なんかこう、世界の終わりっぽい気持ちになるじゃん」
「……」
「でも、夜になると普通にお腹すくしー、朝になると普通にご飯出るしー、次の日にはまた走る馬いるしー」
「うん」
「だから、落ち込んでも、まあ、食べたらだいたい平気ー」
「雑すぎるだろ」
「でも、わりとそうじゃない?」
そう言われると、ちょっと困る。
だって、さっき俺、草が味薄いとか思ってたけど、結局もう半分以上食ってるし。
ゴールデンウイングは、ちょっとだけ嬉しそうに耳を動かした。
「じゃあさー、今度また一緒に走ろーよ」
「……あ?」
「ぼく、クラウンくんと走るの嫌いじゃないよー。なんかいっぱい喋ってくれるしー」
「喋ってくれるってなんだよ。俺はちゃんと競ってるんだよ」
「うんうん、そういうとこだよー」
「何が!?」
「にぎやかで楽しいー」
楽しい、だと。
こっちはお前に負けてんだぞ。
でもまあ、こいつはそういうやつだ。
腹は立つけど、悪くない。
テンザンサクラが、少し呆れた顔で言う。
「お前、たまに本質だけ拾うよな」
「えへへー」
「褒めてねぇ」
俺は、しばらく黙った。
なんとなく、胸のあたりがむずむずする。
さっきまで、なんか、こう、ひとりで勝手に下を向いてた気がする。
ダート二勝クラス三着、弥生賞じゃない、皐月賞じゃない、朝日杯馬じゃない、って。
でも。
別に、それで全部終わりなわけじゃない。
ちょっとだけ、ほんのちょっとだけだが、さっきより息はしやすかった。
「よし」
俺は、飼い桶の残り草をひと口でまとめて噛んだ。
「じゃあ決めた」
「何を?」
テンザンサクラが聞く。
俺は、堂々と胸を張った。
「お前らがクラシックでバチバチやってる間に、俺はダートで世界を取る!!」
「わー、すごーい」
「まず普通に勝て」
「いいだろ別に!俺は俺の場所で伝説を作る!」
ゴールデンウイングが、感心したように言う。
「おー、なんか主人公っぽーい」
テンザンサクラが、やれやれって顔で鼻を鳴らした。
「まあ、元気出たならいいよ」
「最初から元気だっつってんだろ」
「そういうことにしといてやる」
なんだその上から目線。
G1馬だからって調子乗りやがって。
……いや、G1馬ならちょっと調子乗ってもいいのか?
その時だった。
通路の向こうから、人間の足音が近づいてきた。
厩務員だ。
「おーい、お前ら。いい加減静かにしろよ」
三頭そろって、ぴたっと口を閉じる。
厩務員の人間には、さっきまでの会話は全部
「ヒヒン」
「ブヒヒヒン」
「ブルルル」
くらいにしか聞こえてないんだろう。
人間たちは苦笑しながら、俺たちを見回した。
「なんか仲良さそうだな、お前ら」
違う。
いや、違わないけど、そうでもない。
でも、まあ。
「……明日、お前ら負けたら笑うからな」
俺が言うと、ゴールデンウイングが嬉しそうに耳を動かした。
「じゃあ勝つー」
「俺が勝つ」
テンザンサクラも、当たり前みたいに返した。
くそ。
かっこいいじゃねぇか、こいつら。
そんなことを考えていたら、だんだん眠くなってきた。
悔しくても腹は減るし、疲れたら眠い。
ほんと、そのへんはどうしようもない。
でもまあ、それでいいのかもしれない。




