第31話
『あたみたん』
駆け寄って来る笑顔を思い出す。抱き上げるとしがみ付いて来た小さな手が愛おしい。暖かく柔らかな身体。まだミルクの匂いがする息。
『おにわに、かさがあるよ。うえきばちに、あおいかさ』
鉢植えの朝顔が青い蕾を付けていた。細長いその形は確かに、閉じた傘のように見えた。
『あめがふったら、ひらくの?』
朝になったら開くのよ。早起きして、一緒に見ようか。
『うん』
あどけない寝顔を見ていると起こせなかった。咲いてしまった朝顔を見て、真咲は「お花になっちゃったの?」と不思議そうに言った。
『あさみさん、僕が百点取ったら嬉しい?』
勿論よ。そう答えると、ジャーンという効果音と共に見せてくれた。三桁の点数と花丸。少し、はにかんだ笑顔。
体育はちょっと苦手だった。逆上がりが出来なくて悔しそうに唇を噛んでいた。日が暮れるまで練習して、晴れやかな顔で帰って来た。両手にたくさん肉刺を作って。
薬を塗る時になって、気が抜けたのか、痛いと少しだけ泣いた。
『ねえ、なんで僕だけ行っちゃ駄目なの?』
『スキーなんて駄目だ。聞き分けのない事を言うんじゃない』
『代わりに水族館へ連れて行ってあげるわ。ジンベイザメ、見たいって言ってたでしょう』
子供会のバスツアー。真咲を雪国へやるのを、邦彦は恐れた。麻美も邦彦に異を唱えることはしなかった。真咲はそれ以上何も言わず、黙って頷いた。
もしかしたら真咲も気付いていたのかも知れない。今の平穏がとても脆いものであることに。何も聞かないこと、知ろうとしないことで、無意識にそれを守ろうとしていたのかも知れない。
『麻美さん』
優しい子に育ってくれた。声変わりして、それだけは少し男っぽくなったけれど、雪絵にそっくりな顔立ち。素直で生真面目で、繊細な。
『樋口はモテるのに、クラスの女の子には全然興味がないんだ。まるで誰か心に決めた人がいるみたい。麻美さん、知ってる?』
丞玖に、そう尋ねられた。心に決めた人。それが誰なのかを、麻美は知っている。真咲の記憶の奥に棲み付いた美しい女。けれど、それは思い出してはいけないものだ。封印しておかなければならない。
いつ、どこから這い出て来たのか。
祭りになど行かさなければよかった。麻美は己の浅慮を悔いた。しかし真咲は、もう小さな子供ではないのだ。閉じ込めておけるものではない。
──どうか、何も起きないで。
祈るような日々が過ぎた。
そんな麻美を嘲笑うように、呪いはゆっくりと鎌首をもたげた。
繰り返す眩暈に加えて、真咲は何かを思いつめるようになった。時折り魂が抜け落ちたようにぼんやりしていることがあり、日を追うごとにその頻度は増した。よく眠れないようで食欲もなくなり、元々血色がいいとは言えなかった顔色はますます青白くなった。パジャマの首元から見える鎖骨の窪みが痛々しい。
邦彦に連絡しても、まだ日本には戻れないという。
どうすればいい。どうすれば。
危険だと思った。もう時間は幾らも残されていないのかもしれない。




