こんなに怖いのは初めてだ
断罪という茶番劇が終わった後のことは、記憶がない。王太子殿下が現れて場を収めてくれたことは何となく覚えているが、細かい部分がわからない。気が付いたら馬車の中にいて、王宮に向かう時には正面に座っていた旦那様が、今回は隣に座って肩を抱いて支えてくれていた。
「…えっ、あれ、だ、旦那様?!」
「いい、無理をするな。…大丈夫か?」
完全に寄りかかる体勢だったことに気付き、慌てて身を起こそうとするが力が入らず、逆に手まで取られてしまった。
「あ、あの…、申し訳ありません、私、何だか記憶が…」
「心配しなくていい。あの騒動以外で問題は何もなかった」
私がデボラに引導を渡した後、王太子殿下が場を収めてパーティーは再開されることになったが、私の様子がおかしいと気付いた旦那様は誰とも接触させないよう、すぐ休憩室へ連れて行ってくれたのだそう。そこで改めて様子を見ようとしたところ、私が気を失ってしまったのでそのまま帰宅することにし、今に至るという。
デボラ達は衛兵達に連れて行かれ、取巻きの令嬢達は家名を検めた後、数日のうちに全員家へ帰されるが、デボラとアデラは王宮の牢に拘留され尋問を受けることになるそうだ。二人が貴族ではないということが事実であればこの国では大罪になるので、既に身内で処理できる状態ではなくなってしまったので仕方がない。
父、ハロルドに関しては罪を犯しているわけではないので、王家からの干渉はおそらくないだろうと旦那様が仰ってくださった。そのことにひどく安堵して、深く息を吐いた。
「間もなく邸に着くだろう、それまで休んでいたほうがいい」
「いいえ、大丈夫ですわ。…でも、もう少しだけ、このままでいても良いですか?」
「ああ」
心配してもらえていることをいいことに旦那様の肩に頭をもたれさせて、予想通りに短い了承を貰い、目を閉じる。髪が乱れないように配慮された手つきで頭を撫でられて、幸福感で満たされるのを感じた。
大きな問題が一つ片付いて。漸く心が自由になった。これでやっと、伝えることができる。
程なくして馬車は邸へ着いてしまい、名残惜しく思いながらも体を起こし、エスコートされるままに馬車を降りた。そのまま屋敷の玄関まで向かうとアジルと数名の使用人達が出迎えに出ていたが、彼らの前で足を止め、旦那様の袖を引いた。
「どうした?」
「一つ、我が儘をお許し頂けるなら。今から少し、庭を歩きませんか?お話ししたいこともありますし」
「ああ、勿論構わない。今夜は月も出ているし、歩道から外れなければ問題ないだろう」
旦那様はあっさり二つ返事で了承し、庭へ向かうにもまた自然とエスコートをしてくれる。何となく気がついてはいたけれど、近頃の旦那様は私に激甘だと思う。
ローゼンベルク公爵家の庭を歩くのは、実は初めてじゃない。これまでにも何度か一人で歩いて見て回り、いつか機会があれば手入れや整備をしようと考えていた。でも、旦那様と一緒に歩くのは初めてだ。
満月でなくても雲のない夜空、月明かりに照らされた庭は昼に見るより幻想的で美しく、ニール・テルミナが夜の庭園を描いていないことが残念でならないと思ってしまうほど。そして月明かりの中でも旦那様は美しい。朝陽の中ではカルミロの天使のような大天使の様相だったけど、月光の下ではオリバー・フェルルの描いた、妖しくも麗しい美しさで人々を惑わす夜魔のよう。私に芸術の才能があれば是非とも旦那様の美しさを絵画に残しただろうに、口惜しい。前世の世界にはその瞬間を『写真』として残せる『カメラ』があったが、この世界にはまだない。開発のために投資するのも良いが、オーバーテクノロジーと言わざるを得ないし、仕組みについて詳しいわけでもないからやはり無理か。因みに『オーバーテクノロジー』という言葉も存在していない。
「了承してから言うことではないが、庭園とは言え夜道を歩いたりして、体調はもう良いのか?」
「…今夜の旦那様は随分とお優しいのですね?いつもより饒舌でいらっしゃいますし…」
少し迷走気味に思考に耽っていたのをどう捉えたのか、旦那様は気遣わしげにこちらを覗き込むようにして声をかけてきた。微かな表情の変化も読み取れるようになって、何だかくすぐったいような気持ちが湧いて、少し意地悪をしたくなった。
「…手厳しいな。だが、その通りだ。今でこそ当たり前のように話せているが、そもそもが君のお陰だ。いつでもきっかけは君がくれた。だからこそ、今度は自分から改めようと思った。口下手だとかそんな言い訳をしている場合ではない、と。…君に愛想を尽かされてしまったら後悔してもしきれないからな」
月明かりを浴びているからか、そもそも持ち合わせた天性のものなのか。今まで見た微笑の中でも一番、艶やかで色気のある微笑だった。告げられた言葉も合わせて、破壊力が凄まじい。首から上に熱が集まるのと同時に真っ赤に染まっていくのが分かった。旦那様はズルいと思う。無意識に国宝級の美貌をフル活用しているのだから。
夜魔の如く麗しい相手を前にして、緊張もあってか口の中が渇いていく。コクリと小さく喉を鳴らして、改めて視線を合わせる。私の緊張が伝わったのか、旦那様はいつも私の話を聞いてくれる時の真摯な表情に変わっていて、たまに吹く風に音を立てる木々の音といつもより随分早く大きな鼓動音だけが聞こえる。
「…あの。本当は、お礼やお詫びなど、色々とお伝えしたいことがたくさんあるのですが。まずは、今一番お伝えしたいことを、言わせてください」
旦那様は何も言わずに小さく頷いて、急かすようなこともなく静かに待っていてくれる。ただそれだけのことで、じわりとした熱が胸に拡がっていく。その熱に背中を押されるように感じながら、続く言葉を紡ぐ。
「私…、貴方のことが、好きです。…愛しています」
ひゅっと息を飲む音が聞こえ、アメジストの双眸がゆっくりと見開かれた。さわさわと撫でていくような風が吹いて、一房落ちてきた髪を玩んでいく。
伝えたい言葉はもう言った。だから、あとは言い訳じみた言葉を繋いでいくだけだ。決意を固めてから悩みに悩んで考えたことなのに、いざとなると声にならない。本当に伝えるだけのつもりだった。答えを聞くつもりはなかった。政略結婚ではないけれど、恋愛結婚ではないのだから、心まで望むなんて欲張りだと思ったから。
愛して欲しいなんて言わないから、愛することは許して欲しいと乞うつもりだった。
でも本当は、拒絶されるのが怖い。
愛せないと言われるのが怖い。
今ある幸せが壊れるのが怖い。
優しさが得られなくなるのが怖い。
気安く接することができなくなるのが怖い。
こんなに怖いのは初めてだ。




