楽しいダンスレッスン
仕事なんて放り投げた。いや、正確には明日やりますんで、という感じで旦那様に合わせて私も一日お休みということにして、午前中からダンスの練習をすることにした。
ちょっと張り切り過ぎている自分に引きそうにもなったが、騎士団で鍛錬を重ねてきた旦那様にとっては特におかしなことでもないらしく、当たり前のように了承して付き合ってくれると言う。
そして今、さあ練習を始めようかとレッスン用の部屋の真ん中で向き合っているのだが。
「…どうした?」
「いっ…イエ、ナンデモアリマセンワ」
「何でもないようには見えないが…」
差し出されている手に自分の手を重ねようと近付いたところで、ぷるぷると手が震え体が震え、顔は青くなり赤くなりと忙しい。
ダンスを踊るためには組み合わなければならない。片手は互いに手を取り合い、もう片方の手は肩を、相手の手は腰に添えられる。要するに、かなり近い。密着と言っても言い。
アジルとのダンスでは何とも思わなかった。ダンスとはそんなものだと思っていたし、事実汗だくになるまで踊っていたのだから、できないわけがない。
できないわけがないのにできないのは、圧倒的なテレのせい。恥ずかしいというか恐れ多いというか。しかしこのままではレッスンをやめると言い出されかねない。
一つ、大きく深呼吸をして。差し出されたままになっていた手を、勢いに任せて両手で掴むように握った。
私よりも大きな手。筋張っていて、掌はマメができていて硬いけど、指はしなやかにすらりと長くて、指先の爪は短く揃えられている。それから手首、腕、肩と視線を上らせていくと、輝く金色の髪が目に入って、美しく整った顔貌の中のアメジストに目が留まる。
ちょっと驚いているみたい。当然か。ゆっくりと落ち着きを取り戻して、まずは手を解放してから、改めて手を重ねる。にこりと微笑んで見せると、自然な形でお互いに手を添え合う。
しっかりと型を取ったところで、音楽が流れ始める。ダンスの先生でもある執事長はやっぱり優秀だなぁと思いながらも、まずは一歩目、と足を運ぶ。
「踊れなかったというのは嘘なのか?とても初心者とは思えないな」
「旦那様のリードが巧みだからです。半月前まではステップが踏めないどころかよろけてばかりで、あのままでは夜会で恥をかくどころではありませんでした」
最初の緊張はどこへやら、軽やかにステップを踏みながら、会話をする余裕まで出てきた。あくまで練習だということは忘れていないが、楽しく感じて自然と笑顔もキープできている。
「旦那様はダンスがお上手ですね。練習なんて必要なかったのでは?」
「ん…いや、習ってはいたから技術としては習得していたが、そもそもダンスを踊る機会がほとんどなくてな…」
視線を逸らして、何となく歯切れの悪い答えが返って来た。そういえば、ご令嬢が嫌いな人だった。特定のパートナーがいなかったならダンスを踊る義務があるわけでもないし、地位を考えると誘われても大抵は断ってしまえばそれまで。唯一断れないとしたら王女様くらいだろうか。
「それより…、ドレスの準備はできたのか?」
「あ…、はい、デザインなんかは丸投げなのですけど、間に合いそうですわ」
「注文先はオートクチュールだったか?」
「ええ。エトワール商会のお得意様でもあるのですけど、マダム・アンシェールのお店です」
「そうか…いや、楽しみだな」
「えっ…」
今更、私がみっともない格好をするかもだとか、そんな心配をされることがないのは分かっている分、わざわざドレスの確認だなんてどうしたのだろうかと思いながらも答えていたが、何か他に言いかけた言葉を飲み込んだ後に出てきた言葉に、思わず狼狽えた。
楽しみって言った?楽しみ…ドレスが?それとも…。
急に顔が熱くなって、その熱が全身にまわっていって。見上げた先のアメジストの瞳に真っ赤な顔をした自分が映っていて、それが伝播していくみたいに彼の頬もうっすら朱に染まったように見えて。
その後は曲が終わるまで、お互いの顔が見られないまま踊っていた。
一度仕切り直しをして、昼食を挟んで、ティータイムの時間まで。旦那様はずっとレッスンに付き合ってくれて、今までのスポ魂練習よりもずっと上達が早かったんじゃないかと思う。
ティータイムの後はゆっくり休憩するように言われてしまったので、ロイヤルローズの庭園の側の四阿で、隙間時間にちまちま進めていた刺繍を再開することにした。
久しぶりに落ち着いてできたからか、日が暮れるからとテリアに呼び戻される頃にちょうど完成させることができた。
夜会まで、あと一週間。




