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水音を読む測量士は、旅の監査人と町の未来をつなぐ  作者: 銀細工ナギ


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6/20

最初の水が戻る日

 朝日が果樹園の土を照らすと、昨夜まで灰色だった水路に、細い銀色の筋が残っていた。


 水はまだ少ない。すべての木を救えるほどではなく、根の深い古木の何本かは、枝先を力なく垂らしている。それでも、マルタの畑では梨の木が水を吸い上げ、縮れていた葉の縁に小さな光が戻っていた。


「見てください」


 若い農夫が、濡れた土を指で示した。


「ここまで来ています。昨夜より、ずっと先まで」


 住民たちは水路の両側に集まり、誰もが声を低くしていた。歓声を上げれば流れが驚いて逃げるとでも思っているようだった。だが、顔には隠しきれない喜びが浮かんでいる。


 リゼットは杖を水路の底へ当てた。


 地下を走る振動は、昨夜より安定していた。粘土で塞いだ排水口から漏れる音はかすかで、果樹園へ向かう水の響きがはっきり聞こえる。


「仮設流路は保っています。今日の昼までなら、同じ配水を続けられるでしょう」


「昼まで、か」


 マルタは安心したように息を吐いたあと、すぐに表情を引き締めた。


「夜にはまた水を送れる?」


「上流の水門が開けば。ただし、誰かがまた板を抜けば流れは変わります」


 エアンが記録帳を開いた。


「昨夜の開始時刻、板を差し込んだ時刻、各畑に届いた時刻はすべて記しました。水量も、リゼットの測定に合わせて私が書き込んであります」


 彼は泥の乾いた指で、数字の並んだ頁を押さえた。そこには何人もの住民が立ち会った印として、名前と簡単な印が連なっている。


 そのとき、道の向こうから黒い外套の男たちが歩いてきた。交易組合の監督役、ヴァルドだった。彼の後ろには役所の水利係が二人いる。昨日まで姿を見せなかった者たちだ。


「勝手に水路を改造したそうだな」


 ヴァルドは濡れた流路を見下ろし、眉をひそめた。


「契約にない配水は違反だ。今すぐ板を外せ」


「契約にないのは、組合が夜間に水門を閉じることです」


 エアンが帳面を閉じた。


「古い契約では、果樹園への配水は夜明け前の一時間と定められています。昨夜の流れは、その時間に合わせただけです」


「旅人が町の契約を語るな」


「監査人として語っています」


 ヴァルドの目が細くなった。


「その肩書きも、どこまで本物か分からん。そもそも、彼女の測定が正しいという証拠はあるのか」


 彼はリゼットの杖と測定器を指した。


「そんな粗末な道具で地下の水量が分かるはずがない。偽物を使って住民を煽っているだけだ」


 ざわめきが広がった。リゼットは測定器を胸の前で抱えた。金属の枠には、長年の使用で細かな傷がある。かつて師から譲られ、何百もの水路を測ってきた道具だった。


「偽物なら、なぜ昨夜の流れの変化を予測できたのでしょう」


「偶然だ」


「では、こちらを見てください」


 エアンが帳面を開き、昨夜の記録を住民たちへ向けた。


「流れが排水口へ逃げた時刻、板を二寸動かした時刻、果樹園へ水が届いた時刻。三人の農家が別々に記録しています。数字は一致している」


「測定器そのものが偽物だと言っている」


 ヴァルドは鼻で笑った。


「組合の検査に通っていない道具など、記録には使えん」


 その言葉に、役所の水利係の一人が小さく身じろぎした。


 リゼットは見逃さなかった。


「検査に通っていない? では、私の道具にある刻印を確認してください」


 彼女は測定器の裏側を見せた。小さな菱形の中に、三本の線が刻まれている。町の水利役所が発行した検査印だった。


「それも偽造だ」


 ヴァルドは即座に言った。


「私がこの道具を受け取ったのは六年前です。検査をしたのは、当時の水利係です。記録が残っているはずです」


 リゼットがそう言うと、役所の男が目を伏せた。


 エアンは静かに尋ねた。


「検査記録を確認させてもらえますか」


「文書庫の許可が必要だ」


「監査の権限で求めます」


 役所の男は返事をしなかった。


 その沈黙を破ったのは、マルタだった。


「この道具が偽物なら、昨夜、水が戻ったのも偽物なのかい」


 住民の間から笑いが起こった。小さな笑いだったが、次第に広がっていく。水路に戻った水は、誰もが自分の目で見ている。数字を信じられなくても、濡れた土は隠せない。


 ヴァルドは顔を赤くした。


「勝手な工事を続ければ、全員を訴えるぞ」


「訴えるなら、昨夜の立会人全員の名前を記録に添えましょう」


 エアンは淡々と答えた。


 男たちは捨て台詞を残し、道を戻っていった。


 彼らの姿が見えなくなると、リゼットは測定器を見つめた。金属の縁に刻まれた菱形の印。そこには、見慣れたはずの三本線があった。


 マルタがそっと肩に触れた。


「大丈夫かい」


「ええ。ただ、あの刻印を偽物だと言い切るには、何か理由があります」


 エアンは黙って役所の方向を見た。


「検査印の記録を調べましょう。あなたの道具だけでなく、役所の文書にも同じ印があるかもしれない」


 二人はその日の午後、文書庫へ向かった。許可を求めると、担当の書記は困った顔をしながら古い検査記録を運んできた。


 帳簿の頁には、水門部品、流量計、測定杖などの検査日と担当者の名が並んでいる。いくつかの欄には、同じ菱形の刻印が押されていた。


 エアンが指先で印をなぞった。


「これはリゼットの測定器と同じです」


「だから偽物だと言われたのです」


 書記が小声で答えた。


「先月、印章が変更されたと通知がありました。古い印は無効だと」


「通知書を見せてください」


 書記は棚の奥から一枚の文書を取り出した。


 紙の下端には、役所の印が押されている。だが、その印もまた、測定器と同じ三本線の刻印だった。


 リゼットは息を止めた。


「同じ……」


 エアンは文書を裏返し、発行日と署名を確認した。


「偽物の刻印が、測定器だけでなく、役所の文書にも使われている」


 書記の顔から血の気が引いた。


「そんなはずはありません。これは正式な通知です」


「正式なら、誰がこの印を作ったのか調べられます」


 窓の外では、果樹園へ向かう水の音が続いていた。


 最初の水が戻った日、リゼットは初めて気づいた。奪われていたのは水だけではない。人が正しいものを見分けるための印まで、どこかで同じ手によって塗り替えられていたのだ。

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