最初の水が戻る日
朝日が果樹園の土を照らすと、昨夜まで灰色だった水路に、細い銀色の筋が残っていた。
水はまだ少ない。すべての木を救えるほどではなく、根の深い古木の何本かは、枝先を力なく垂らしている。それでも、マルタの畑では梨の木が水を吸い上げ、縮れていた葉の縁に小さな光が戻っていた。
「見てください」
若い農夫が、濡れた土を指で示した。
「ここまで来ています。昨夜より、ずっと先まで」
住民たちは水路の両側に集まり、誰もが声を低くしていた。歓声を上げれば流れが驚いて逃げるとでも思っているようだった。だが、顔には隠しきれない喜びが浮かんでいる。
リゼットは杖を水路の底へ当てた。
地下を走る振動は、昨夜より安定していた。粘土で塞いだ排水口から漏れる音はかすかで、果樹園へ向かう水の響きがはっきり聞こえる。
「仮設流路は保っています。今日の昼までなら、同じ配水を続けられるでしょう」
「昼まで、か」
マルタは安心したように息を吐いたあと、すぐに表情を引き締めた。
「夜にはまた水を送れる?」
「上流の水門が開けば。ただし、誰かがまた板を抜けば流れは変わります」
エアンが記録帳を開いた。
「昨夜の開始時刻、板を差し込んだ時刻、各畑に届いた時刻はすべて記しました。水量も、リゼットの測定に合わせて私が書き込んであります」
彼は泥の乾いた指で、数字の並んだ頁を押さえた。そこには何人もの住民が立ち会った印として、名前と簡単な印が連なっている。
そのとき、道の向こうから黒い外套の男たちが歩いてきた。交易組合の監督役、ヴァルドだった。彼の後ろには役所の水利係が二人いる。昨日まで姿を見せなかった者たちだ。
「勝手に水路を改造したそうだな」
ヴァルドは濡れた流路を見下ろし、眉をひそめた。
「契約にない配水は違反だ。今すぐ板を外せ」
「契約にないのは、組合が夜間に水門を閉じることです」
エアンが帳面を閉じた。
「古い契約では、果樹園への配水は夜明け前の一時間と定められています。昨夜の流れは、その時間に合わせただけです」
「旅人が町の契約を語るな」
「監査人として語っています」
ヴァルドの目が細くなった。
「その肩書きも、どこまで本物か分からん。そもそも、彼女の測定が正しいという証拠はあるのか」
彼はリゼットの杖と測定器を指した。
「そんな粗末な道具で地下の水量が分かるはずがない。偽物を使って住民を煽っているだけだ」
ざわめきが広がった。リゼットは測定器を胸の前で抱えた。金属の枠には、長年の使用で細かな傷がある。かつて師から譲られ、何百もの水路を測ってきた道具だった。
「偽物なら、なぜ昨夜の流れの変化を予測できたのでしょう」
「偶然だ」
「では、こちらを見てください」
エアンが帳面を開き、昨夜の記録を住民たちへ向けた。
「流れが排水口へ逃げた時刻、板を二寸動かした時刻、果樹園へ水が届いた時刻。三人の農家が別々に記録しています。数字は一致している」
「測定器そのものが偽物だと言っている」
ヴァルドは鼻で笑った。
「組合の検査に通っていない道具など、記録には使えん」
その言葉に、役所の水利係の一人が小さく身じろぎした。
リゼットは見逃さなかった。
「検査に通っていない? では、私の道具にある刻印を確認してください」
彼女は測定器の裏側を見せた。小さな菱形の中に、三本の線が刻まれている。町の水利役所が発行した検査印だった。
「それも偽造だ」
ヴァルドは即座に言った。
「私がこの道具を受け取ったのは六年前です。検査をしたのは、当時の水利係です。記録が残っているはずです」
リゼットがそう言うと、役所の男が目を伏せた。
エアンは静かに尋ねた。
「検査記録を確認させてもらえますか」
「文書庫の許可が必要だ」
「監査の権限で求めます」
役所の男は返事をしなかった。
その沈黙を破ったのは、マルタだった。
「この道具が偽物なら、昨夜、水が戻ったのも偽物なのかい」
住民の間から笑いが起こった。小さな笑いだったが、次第に広がっていく。水路に戻った水は、誰もが自分の目で見ている。数字を信じられなくても、濡れた土は隠せない。
ヴァルドは顔を赤くした。
「勝手な工事を続ければ、全員を訴えるぞ」
「訴えるなら、昨夜の立会人全員の名前を記録に添えましょう」
エアンは淡々と答えた。
男たちは捨て台詞を残し、道を戻っていった。
彼らの姿が見えなくなると、リゼットは測定器を見つめた。金属の縁に刻まれた菱形の印。そこには、見慣れたはずの三本線があった。
マルタがそっと肩に触れた。
「大丈夫かい」
「ええ。ただ、あの刻印を偽物だと言い切るには、何か理由があります」
エアンは黙って役所の方向を見た。
「検査印の記録を調べましょう。あなたの道具だけでなく、役所の文書にも同じ印があるかもしれない」
二人はその日の午後、文書庫へ向かった。許可を求めると、担当の書記は困った顔をしながら古い検査記録を運んできた。
帳簿の頁には、水門部品、流量計、測定杖などの検査日と担当者の名が並んでいる。いくつかの欄には、同じ菱形の刻印が押されていた。
エアンが指先で印をなぞった。
「これはリゼットの測定器と同じです」
「だから偽物だと言われたのです」
書記が小声で答えた。
「先月、印章が変更されたと通知がありました。古い印は無効だと」
「通知書を見せてください」
書記は棚の奥から一枚の文書を取り出した。
紙の下端には、役所の印が押されている。だが、その印もまた、測定器と同じ三本線の刻印だった。
リゼットは息を止めた。
「同じ……」
エアンは文書を裏返し、発行日と署名を確認した。
「偽物の刻印が、測定器だけでなく、役所の文書にも使われている」
書記の顔から血の気が引いた。
「そんなはずはありません。これは正式な通知です」
「正式なら、誰がこの印を作ったのか調べられます」
窓の外では、果樹園へ向かう水の音が続いていた。
最初の水が戻った日、リゼットは初めて気づいた。奪われていたのは水だけではない。人が正しいものを見分けるための印まで、どこかで同じ手によって塗り替えられていたのだ。




