干上がる果樹園
翌朝、谷町の東に広がる果樹園では、葉の擦れる音さえ乾いていた。
春の終わりだというのに、梨の木は枝先から茶色く縮れ、若い実は指先ほどの大きさで落ちている。畑の間を走る細い水路には、泥の筋が残るだけだった。
「このままでは、あと五日もたない」
農家の女主人マルタが、干からびた土を靴先で崩した。
「井戸も同じです。朝に汲めるのは、家族が飲む分だけ。果樹に回せば、子どもが水を飲めない」
集まった農家たちは、それぞれの桶を抱えたまま沈黙していた。組合の倉庫から大量の水が流れ出ていることを知っても、そこから水を取り返す方法はまだなかった。役所は調査中と言うばかりで、昼の配水は以前と変わらない。いや、町の共同水槽に届く量は、昨日よりさらに減っていた。
リゼットは果樹園を横切る水路の縁に膝をつき、杖を泥へ差し込んだ。
地下から、かすかな振動が返ってくる。流れは北から来ているが、果樹園の手前で細くなり、その先で三つに割れていた。ひとつは畑へ向かう本来の水路。ひとつは古い排水路。そしてもうひとつは、地中深くへ落ちている。
「今夜、二度だけ水を通せます」
リゼットが言うと、農家たちの顔が上がった。
「組合の水を奪い返すのか」
「奪い返すのではありません。契約で定められた分を、本来の流路へ戻します。ただし、全員が決めた時刻に一斉に動かなければ、水は途中で失われます」
エアンが持ってきた古い契約書を広げた。紙の端は擦り切れていたが、分配の時刻と各農地の順番は読めた。
「夜明け前の一時間が、果樹園への配水時間です」
彼は数字を指で追った。
「しかし現在の水門は、日没後に閉じられています。組合が独自に時刻を変えているのでしょう」
「それなら、夜に開ければいい」
若い農夫が立ち上がった。
「水門の鍵は組合が持っている」
「鍵がなくても、水を分ける方法はあります」
リゼットは水路沿いの石を拾い上げた。表面には古い刻み目がある。石をどかすと、その下から細い溝が現れた。使われなくなった仮設の流路だった。
「ここから先を掘り直し、上流に木板を差し込めば、水圧を変えられます。大きな流れは作れませんが、果樹園を一列ずつ潤すには足ります」
「失敗したら?」
マルタが尋ねた。
「流れが地中へ逃げます。だから、私が音を聞きながら板を調整します」
リゼットは答えたものの、胸の奥には不安があった。自分の判断ひとつで、わずかな水をさらに失うかもしれない。以前なら、測量士として正しい記録を作ることだけを考えればよかった。だが今は、数字の向こうに、枯れかけた木と、桶を抱えた人々の暮らしがある。
エアンは彼女の横に立った。
「作業の分担を決めましょう。掘削は農家の皆さん。木板と杭は大工に頼みます。私は配水表を写し、各家に時刻を伝えます」
「現場仕事は苦手では?」
リゼットが言うと、エアンは少し困った顔をした。
「帳簿なら何冊でも読めますが、鍬は一度も褒められたことがありません」
「では、鍬を持つ人の邪魔をしない仕事をしてください」
「それなら得意です」
マルタが初めて笑った。
日が沈むまでに、果樹園の端には人の列ができた。大工は古い水路の幅に合わせて板を削り、子どもたちは石を運んだ。エアンは農家の名と畑の位置を書き込み、一軒ずつ配水時刻を伝えて回った。最初は旅人に過ぎなかった彼も、何度も泥に足を取られ、袖を濡らすうちに、住民から質問を受けるようになった。
「うちは何番目ですか」
「夜中に起きられない者はどうすればいい」
「水が足りなかったら、隣の畑と分けられるか」
エアンは一つひとつ答え、決められないことは勝手に決めなかった。住民の意見を聞き、配水表を書き直した。
夜半、風が止んだ。
リゼットは上流の仮設流路に立ち、杖を石へ当てた。遠くで水門が開く音がする。重い金具が擦れ、眠っていた流れが地下を押し進んできた。
「今です」
農夫たちが木板を差し込んだ。水は一度せり上がり、細い流路へ流れ込んだ。だが数歩先で、音が濁った。
「左へ二寸。杭を一本抜いて」
指示に従って板が動く。水音が変わり、土の下を走る振動が強くなった。
「止めてください。逃げています」
リゼットは耳を澄ました。地中深く、空洞へ落ちる流れがある。彼女は周囲を見回し、果樹の根元に埋もれた平たい石を見つけた。
「そこを掘ってください」
土を除くと、古い排水口が現れた。組合へ向かう分岐の一部だった。完全には塞げないが、石と粘土を詰めれば、今夜の流れを弱められる。
マルタが黙って粘土を運び、若い農夫が石を押し込んだ。リゼットが杖を当てる。地下の音が少しずつ変わっていく。奪われた水の太い響きが遠のき、果樹園へ向かう細い音が近づいた。
やがて、枯れた水路の底に最初の水が走った。
誰も声を上げなかった。歓声を出せば、夢のような流れが消えてしまいそうだった。水は一列目の木々の根元を濡らし、乾いた土に黒い線を描いた。
エアンが隣で息を吐いた。
「戻りましたね」
「一部だけです。明日の夜も同じようにできるとは限りません」
「それでも、今日の水は今日の木を救います」
彼の手には泥がこびりついていた。リゼットはそれを見て、胸の奥にあった固いものが少しほどけるのを感じた。
「エアン」
「はい」
「私は、これまで自分の記録を守ることばかり考えていました。正しいと証明できれば、仕事も信用も戻ると思っていた」
水音を聞きながら、彼女は続けた。
「でも、記録は人の暮らしに届かなければ意味がない。測るだけでは足りない。私はこの町のために、私の技術を使います」
エアンはすぐには答えず、濡れた水路を見つめた。
「その決意を、私は記録します」
「改ざんしないでください」
「もちろん。あなた自身の言葉として」
夜明け前、二列目の木々にも水が届いた。すべてを救うには足りなかったが、農家たちは次の夜の作業を申し出た。誰かの畑だけを守るのではなく、順番を守って全員で水を分けるために。
東の空が白み始めた頃、リゼットは果樹園の端に立っていた。葉の間から落ちた一滴が、乾いた土に小さな円を作る。
遠く、交易組合の倉庫の方で水門が閉じた。だが今度は、その音に怯えなかった。奪われた水の行方を聞き分ける耳も、流れを戻す手も、もう彼女一人のものではない。
リゼットは杖を握り、住民たちとともに次の夜の配水表を開いた。




