消えた分岐図
文書庫は役所の裏手、古い石壁に囲まれた建物だった。朝の鐘が三度鳴る頃、リゼットとエアンは重い扉の前に立っていた。
鍵を開けたのは、灰色の髪をした管理役の女だった。彼女はエアンの監査証を一目見て眉をひそめ、それからリゼットを見た。
「測量記録の件で、また何か見つかったのですか」
「古い水利契約の原本と、添付された分岐図を確認したいのです」
エアンが答えると、女は口元を固くした。
「保管簿に記載されているものしか、お見せできません」
「その保管簿に、図面が添付されていたという記録があります」
「記録は記録です。現物がなければ、ないものとして扱います」
彼女は扉を開けた。湿った紙と埃の匂いが流れ出してくる。棚には年代ごとに帳面が並び、壁際には丸められた地図が革紐で束ねられていた。
リゼットは足を踏み入れた途端、床下から伝わるかすかな震えを感じた。文書庫の地下にも水が通っている。古い石管だろう。流れは弱いが、一定していた。
「こちらです」
管理役は水利契約の棚へ案内した。エアンが保管簿を開き、該当する番号を探す。リゼットは棚の上段に並ぶ箱を見上げた。箱の蓋には、契約番号と保管日が墨で書かれている。
「第百七十二号。契約書、添付図一枚」
エアンが読み上げた。
「しかし箱の中には契約書しかありません」
管理役は肩をすくめた。
「図面が入っていたことを示す記載があるだけです」
「最後に確認されたのはいつですか」
「保管簿によれば、八年前の整理の時です」
エアンは保管簿のページを指で押さえた。
「整理を担当した者の名前は?」
「当時の記録係です。もう退職しています」
リゼットは箱の底を調べた。紙の粉が細く残っている。契約書の紙とは違う、厚手の紙を抜き取った跡だった。箱の内側に、革紐が擦れた新しい傷もある。
「これは、最初から図が入っていなかった傷ではありません」
彼女が言うと、管理役の顔色が変わった。
「あなたは紙の専門家ではないでしょう」
「水路の箱も文書の箱も、扱われれば跡が残ります」
「それで、私が抜いたとでも?」
声を荒らげた女の背後で、棚の陰から誰かが動いた。リゼットが振り向くと、若い男が立っていた。かつて同じ測量班で働いていたデルクだった。
「もう帰ったと思っていた」
「俺は文書庫の整理を手伝っている」
デルクはリゼットを睨んだ。
「図面が消えたのも、お前が持ち出したんじゃないのか」
胸の奥が冷たくなった。あの記録を書き換えられた時と同じ目だった。疑いを向けることで、自分の不安から逃れようとする目。
「私が持ち出したなら、なぜここへ探しに来るのです」
「隠し場所を変えただけかもしれない」
「デルク」
エアンが低く呼んだ。
「根拠のない accusationは記録に残す価値がない」
「横文字で煙に巻くな。お前が来てから、町の水はもっと混乱している」
「混乱しているのは、図面が消えたからです。それとも、消えたままの方が都合がいいのですか」
デルクは口を閉ざした。指先が落ち着かず、腰の革袋を何度も触っている。
リゼットはその動きを見ていた。革袋の縁に、青い蝋の欠片が付着している。交易組合が使う封蝋と同じ色だった。
「その袋を見せてください」
「何の権利がある」
「ありません。だから、あなたが自分で話してくれるのを待ちます」
デルクは目を逸らした。しばらくして、かすれた声で言った。
「図面は、俺が抜いたんじゃない」
「誰が?」
「組合の使いが来た。保管簿の照合だと言って、箱を持っていった」
「いつです」
「三日前の夕方」
リゼットはエアンと顔を見合わせた。三日前といえば、水門の金属音が聞こえた前日だった。
「持ち出しの許可証は?」
「見せられた。役所の印が押してあった」
「なぜ返却を確認しなかったのですか」
「俺が確認を求めたら、上司に口を出すなと言われた」
デルクは拳を握った。
「お前の報告書が書き換えられた時も、俺はおかしいと思っていた。でも、逆らえば仕事を失う。だから黙った」
リゼットはすぐには答えられなかった。憎しみは簡単だった。だが、目の前の男の怯えを見れば、それだけでは足りない。
「黙ったことで、私に責任が押しつけられました」
「わかっている」
「なら、今度は話してください」
デルクは唇を噛み、革袋から折り畳んだ紙を取り出した。
「図面そのものはない。だが、運び先を書いた控えがある」
エアンが受け取った紙を開く。交易組合の倉庫番号と、受け取り人の署名が記されていた。署名の横には、役所の水利課長の印が押されている。
「図面は組合の倉庫へ運ばれた」
「なぜ組合が、古い分岐図を必要とするのでしょう」
リゼットが尋ねると、エアンは紙の端を指した。
「倉庫番号が普通の商品倉庫と違う。水利設備専用の保管庫です」
その時、床下の水音が変わった。細い流れが一度途切れ、それから急に強くなる。誰かが地下の水門を操作したのだ。
リゼットは杖を床へ当てた。文書庫の下を流れる水は、北へ向かう本流から分かれ、組合の倉庫の方へ伸びている。しかも分岐口には、新しい金具が取りつけられていた。
「ここにも分岐があります」
「文書庫の下に?」
「地下でつながっています。図面を持っていっただけではない。組合は、この水路を実際に使っている」
三人は役所の裏手から組合の倉庫へ向かった。倉庫は高い塀に囲まれ、入口には二人の見張りがいた。エアンは監査証を示したが、見張りは通行を拒んだ。
「監査の対象は帳簿だけだ。倉庫内には入れない」
「水利契約に関わる施設なら、確認できます」
「許可がない」
リゼットは塀の脇にしゃがみ、地面へ杖を当てた。石の下を流れる水が、はっきりと西へ向きを変えている。倉庫の内側から、低い水音が返ってきた。
塀の根元には排水口があった。そこから透明な水が流れ出している。水量は、町の共同水槽へ戻るはずの水に匹敵していた。
「この水はどこから来ていますか」
リゼットが見張りに問うと、男は黙った。
エアンは排水口の脇に落ちていた木札を拾った。表面には交易組合の印と、使用水量を示す数字が刻まれている。数字は、古い契約で組合に認められた量の三倍だった。
「独占使用の証拠です」
エアンの声は静かだったが、揺るがなかった。
リゼットは倉庫の壁越しに、奪われた水の振動を聞いた。流れは太く、深く、まるで町の地下を別の川が横切っているようだった。
文書庫から消えた分岐図は、組合が隠したかった過去ではない。今も続いている独占の仕組みそのものを示す図だった。
エアンが紙を折り畳む。
「明日、住民の前でこの水量を測ります」
「組合は妨害します」
「妨害するなら、その事実も記録します」
リゼットは杖を握り直した。疑いを晴らすためだけではない。地下で奪われ続ける水を、町へ戻すために。
倉庫の奥で、見えない水門が閉じる音がした。だが今度は、その音を聞いた者が二人いる。栓をされた真実は、もう完全には消せなかった。




