↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水音を読む測量士は、旅の監査人と町の未来をつなぐ  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/20

帳簿の余白

 文書庫を出るころには、谷町の空に薄い雲がかかっていた。昼の光を失った水路は、戻り始めた水を細く光らせながら、石の継ぎ目を縫っている。


 リゼットは胸に抱えた写しを見下ろした。検査印の記録、古い通知書、そして自分の測定器に刻まれた菱形の印。三つは同じ形をしていた。だが、同じであることが、かえって不気味だった。


「印を偽造した者がいるとしても、なぜ私の道具まで疑わせる必要があるのでしょう」


「道具の信頼を失わせれば、測定結果も一緒に消せるからです」


 エアンは歩きながら答えた。


「水量の数字だけを否定するより、測る者そのものを疑わせたほうが早い。あなたが記録を改ざんしたという話も、そこから始まったのかもしれません」


 リゼットは足を止めた。


「私が提出した報告書は、役所の控えにも残っているはずです」


「確認しましょう」


 二人は文書庫へ戻った。書記は戸惑いながらも、古い保管箱をいくつか運んできた。埃の匂いが狭い部屋に広がる。箱の中には、リゼットが六年前から提出してきた水路測量報告が、年ごとに束ねられていた。


 最初の数冊をめくると、見慣れた筆跡が現れた。流量、天候、水門の状態。数字の横には、彼女が使う小さな丸印もある。


 しかし、三年前の夏の報告書を開いたところで、リゼットの指が止まった。


「この数字……」


 上流から果樹園へ流れる量が、実際に測った値より大きく書き換えられている。彼女の筆跡に似せようとしていたのか、数字の最後だけが不自然に跳ねていた。


「覚えています。その日の水量は、前年より二割近く減っていました」


 リゼットは頁を押さえた。


「私は、上流の水門に異常があると書いた。だから再測定を求めたはずです」


「ここには、異常なしとあります」


「私の書いた言葉ではありません」


 エアンは報告書を光にかざした。紙の一部だけが、わずかに色を変えている。


「上から別の紙を貼って剥がした跡があります。こちらを見てください」


 頁の端に、薄い四角形の境目が浮かんでいた。書記が息をのむ。


「報告書の差し替え……そんなことが」


「差し替えられたのは一枚だけではありません」


 エアンは次の年の帳簿を開き、同じ跡を探し当てた。水量が急に増えた月、組合の倉庫へ新しい管が引かれた月、そしてリゼットが異常を報告した月。その頁だけに、紙を剥がした痕が残っている。


 リゼットは言葉を失った。自分が何度も役所へ足を運び、説明し、署名した記録が、いつの間にか別の意味にされていた。しかも、その改ざんは彼女の解雇理由となった報告書にも及んでいた。


「私を陥れたのは、過去の一枚だけではなかった」


「ええ。何年も前から、記録を調整していたのでしょう」


 エアンは帳簿の余白を見つめた。


「ただし、これは本文よりも重要かもしれません」


 余白には、細い鉛筆で数字が並んでいた。日付、時刻、そして短い記号。書き手は誰かを隠すように、文字を本文の外へ押しやっている。


 エアンは組合から借り受けた帳簿の写しを取り出した。水路使用料と荷車の通行料が記された帳面だった。そこにも、余白に同じような数字があった。


「こちらは組合の帳簿です」


 彼は二冊を並べた。


「役所の報告書が差し替えられた日と、組合の帳簿に記された時刻を照合します」


 リゼットは鉛筆の列を追った。


 七月十二日、夜明け前の第四鐘。七月二十日、雨が降り始める直前。八月三日、役所の交代時刻。そして、彼女が水門の異常を報告した翌日には、必ず同じ記号がある。


「この記号は何ですか」


「水門を開閉した時刻だと思います」


 エアンは別の頁を示した。


「組合の帳簿には、品物の受け渡し時刻として記された数字があります。しかし、商取引の記録にしては間隔が規則的すぎる。毎週同じ曜日、同じ時刻に水門が動いている」


 リゼットは目を閉じた。水門の音を思い出そうとした。夜の谷に響く金属音。板が動く短い震え。その後、地下の水が細くなり、どこか別の方向へ逃げていく感触。


「この時刻に、実際に水門が動いたのでしょう」


「たぶん。しかも、誰か一人が勝手に操作したのではありません」


 エアンは二冊の帳簿を指で交互に叩いた。


「役所の記録が書き換えられた日と、組合の帳簿に操作時刻が残った日が一致している。役所側には報告を訂正する者がいて、組合側には水門を動かす者がいる。印章を用意した者も別にいるかもしれません」


 書記は顔を青くした。


「では、組合だけの仕業では……」


「ありません」


 エアンの声は静かだった。


「誰かが命令し、誰かが記録を変え、誰かが実際に水を奪った。少なくとも三つの役割があります」


 リゼットは差し替えられた報告書を見つめた。かつて自分は、町の水路を守る仕事をしていると思っていた。けれど、その裏で、彼女の測定は都合のよい数字へと削られ、警告は無かったことにされていた。


「この余白を写してください」


 彼女は言った。


「本文だけでなく、余白も含めて。数字の並びが、誰かの手順を残しています」


 エアンは頷き、帳面を慎重に写し始めた。


 そのとき、廊下から足音が聞こえた。書記が振り返る。扉の向こうを、役所の水利係が通り過ぎていった。彼は一瞬だけこちらを見たが、すぐに目をそらした。


 リゼットはその顔に見覚えがあった。朝、ヴァルドの後ろに立っていた男だ。


「今の人も、記録の担当者ですか」


「はい。何年も検査記録を管理しています」


 書記が答えると、エアンは写しの上に手を置いた。


「問いただすのは、まだ早いでしょう。証拠が揃う前に余白が消されます」


 窓の外で、水路の流れが一度だけ低く唸った。


 リゼットはその音を聞き分けた。上流の水門が、誰かの手で動かされたのだ。規則正しく並んだ時刻の、次の一つが来たのかもしれない。


 彼女は測定器を握り直した。


「もう、私一人の記録ではありません」


 エアンが彼女を見る。


「ええ。町全体の記録にしましょう」


 帳簿の本文には、整えられた数字が並んでいた。だが、余白には消しきれない時刻が残っている。改ざんは一人の手ではできない。だからこそ、その手順を一つずつ辿れば、隠れた者たちの輪郭も浮かび上がるはずだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。