旅の監査人と壊れた水門
金属音が消えたあとも、リゼットは水門から手を離さなかった。
指先に残った振動は、石の内部を走って遠ざかっていく。水が動いたのではない。水を押しとどめている板が、誰かの力でわずかに持ち上がり、また落ちたのだ。
「開けられるのか」
エアンが尋ねた。
「鍵があれば。ただし、封鎖札の記録と現物が一致していません」
リゼットは水門の脇にある錠前を調べた。表面には厚い錆が浮いていたが、鍵穴の縁だけが妙に黒い。油を差した跡だった。錆びたものを無理に回したのではない。最近、手入れをされた錠前だ。
エアンは書類筒から小さな帳面を取り出した。
「水門の管理者は?」
「役所の水利課です。鍵は主任と、組合の水運責任者が一本ずつ持つ決まりでした」
「決まりではなく、実際には?」
「役所の鍵はガルドが持っています。組合の分は、帳場頭のバルグという男が預かっているはずです」
「なるほど」
エアンは錠前に触れず、周囲の泥を見た。格子の前に靴跡が二つある。ひとつは踵の広い革靴、もうひとつは細い靴底の跡だった。昨夜の雨で泥は柔らかくなっている。新しい跡なら、輪郭が崩れているはずがない。
「二人いたようです」
「一人は見張りでしょう」
「そうかもしれません。だが、二人とも水門の前に立っています」
エアンは跡の向きを確認した。「内側から出てきたのか、外から近づいたのかも重要です」
リゼットは格子の隙間へ目を凝らした。水門の向こうには、かつて山腹の貯水池へ続いていた狭い石渠がある。底には水が流れた跡が残っていた。しかも、流れの幅は町へ続く本渠より広い。
「ここを開けて、水を逃がした」
「証拠になるか」
「流れの跡だけでは足りません。水門の板を見たい」
リゼットが格子に手を伸ばしたとき、谷道の下から怒鳴り声が上がった。
「そこから離れろ!」
役所の水利課にいる若い男が、二人の書記を連れて駆けてきた。名はデルク。以前はリゼットの測量記録を写していた書記である。彼は息を切らしながら、水門の前に立ちはだかった。
「この水門は危険だ。勝手に触れば処罰される」
「封鎖中の水門を、誰が今朝動かしましたか」
エアンが聞いた。
「知らない。お前たちは監査の権限を振りかざして、町を混乱させている」
「ならば、ここを調べることが混乱の原因になる理由を説明してください」
デルクは答えなかった。視線が錠前へ落ち、それからリゼットの杖へ移る。短い沈黙の間に、彼女は彼の袖口に付着した赤茶色の泥を見た。水門の前の泥と同じ色だ。
「あなたもここへ来たのですね」
「通りかかっただけだ」
「今朝、ですか」
デルクの顔から血の気が引いた。だが、すぐに背を向ける。
「調査は役所の許可を取ってからにしろ」
三人は谷道を下っていった。エアンは追わなかった。
「なぜ止めないのです」
「彼が怯えているからです。怯えた人間を追えば、口を閉ざす」
「見逃すのですか」
「見逃したのではありません。顔と靴と泥を覚えました」
リゼットは思わず彼を見た。エアンは帳面に何かを書いている。
「あなたは人のことも測るのですね」
「測るのは苦手です。だから、見たことだけを書きます」
その言い方が、少しだけ可笑しかった。笑う余裕などないはずなのに、リゼットの口元が緩む。エアンはそれに気づいたようだったが、何も言わなかった。
水門を開けられないままでは、町の水は戻らない。二人は谷道を下り、町外れの古い石切場へ向かった。リゼットはそこに積まれた石材を見て、ひとつの案を思いついた。
「本渠を待つのではなく、ここから水受けへ仮の流路を作ります」
「水源はあるのか」
「地下に残っています。水門でせき止められている分の一部が、石切場の下を通っている」
彼女は杖を地面へ当て、石の振動を聞き分けた。遠くで細い水が流れている。深さは浅いが、掘り当てれば一晩分の飲み水にはなる。
エアンは眉を寄せた。
「役所の許可が必要では?」
「許可を待てば、町の子どもたちが空の水桶を抱えて眠ることになります」
「その通りです」
彼は外套を脱ぎ、袖をまくった。「どこを掘ればいい」
住民を呼ぶと、最初は誰も動かなかった。けれどリゼットが測定杖で地面を示し、エアンが水利契約の条文を読み上げると、果樹園の農夫や石工たちが少しずつ集まった。
水は、リゼットの示した場所から出た。
石工たちは溝を掘り、農夫たちは割れた樋を運んだ。エアンは泥に足を取られながらも、古い木枠を組み合わせて仮設の流路を作った。夕暮れには細い水が樋を伝い、町外れの共同水槽へ落ち始めた。
大きな流れではない。それでも、水槽の底に水面が戻るのを見て、住民から安堵の息が漏れた。
「明日まで持つでしょう」
リゼットが言うと、隣でエアンが水面を見た。
「明日まで、では足りない」
「ええ。水門の原因を突き止めなければ」
夜になり、人々が帰ったあと、二人は再び水門へ向かった。月明かりの下で、リゼットは格子の隙間から内部を探った。水門の板には新しい傷があり、留め金の一部が欠けている。
地面には、金属片がひとつ落ちていた。
エアンが拾い上げると、片側に浅い溝が刻まれていた。錠前の鍵にある歯形と同じ幅だった。
「鍵の破片ですか」
「違う」
リゼットは首を振った。「これは鍵を作るための型を削った跡です」
エアンが目を細める。
「複製鍵を使った可能性がある」
そのとき、水門の裏から乾いた音がした。誰かが遠くで石を踏んだのだ。
二人が振り返ったとき、谷道にはもう誰もいなかった。ただ、月明かりの中に、二種類の靴跡だけが残っていた。片方は役所へ、もう片方は交易組合の倉庫へ向かっている。
リゼットは水門を見つめた。
「鍵を持つ二人以外にも、開けた人間がいる」
エアンは複製鍵の型を帳面に包んだ。
「なら、探すべきなのは鍵を持つ者ではなく、鍵を作れる者です」




