↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水音を読む測量士は、旅の監査人と町の未来をつなぐ  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/20

旅の監査人と壊れた水門

 金属音が消えたあとも、リゼットは水門から手を離さなかった。


 指先に残った振動は、石の内部を走って遠ざかっていく。水が動いたのではない。水を押しとどめている板が、誰かの力でわずかに持ち上がり、また落ちたのだ。


「開けられるのか」


 エアンが尋ねた。


「鍵があれば。ただし、封鎖札の記録と現物が一致していません」


 リゼットは水門の脇にある錠前を調べた。表面には厚い錆が浮いていたが、鍵穴の縁だけが妙に黒い。油を差した跡だった。錆びたものを無理に回したのではない。最近、手入れをされた錠前だ。


 エアンは書類筒から小さな帳面を取り出した。


「水門の管理者は?」


「役所の水利課です。鍵は主任と、組合の水運責任者が一本ずつ持つ決まりでした」


「決まりではなく、実際には?」


「役所の鍵はガルドが持っています。組合の分は、帳場頭のバルグという男が預かっているはずです」


「なるほど」


 エアンは錠前に触れず、周囲の泥を見た。格子の前に靴跡が二つある。ひとつは踵の広い革靴、もうひとつは細い靴底の跡だった。昨夜の雨で泥は柔らかくなっている。新しい跡なら、輪郭が崩れているはずがない。


「二人いたようです」


「一人は見張りでしょう」


「そうかもしれません。だが、二人とも水門の前に立っています」


 エアンは跡の向きを確認した。「内側から出てきたのか、外から近づいたのかも重要です」


 リゼットは格子の隙間へ目を凝らした。水門の向こうには、かつて山腹の貯水池へ続いていた狭い石渠がある。底には水が流れた跡が残っていた。しかも、流れの幅は町へ続く本渠より広い。


「ここを開けて、水を逃がした」


「証拠になるか」


「流れの跡だけでは足りません。水門の板を見たい」


 リゼットが格子に手を伸ばしたとき、谷道の下から怒鳴り声が上がった。


「そこから離れろ!」


 役所の水利課にいる若い男が、二人の書記を連れて駆けてきた。名はデルク。以前はリゼットの測量記録を写していた書記である。彼は息を切らしながら、水門の前に立ちはだかった。


「この水門は危険だ。勝手に触れば処罰される」


「封鎖中の水門を、誰が今朝動かしましたか」


 エアンが聞いた。


「知らない。お前たちは監査の権限を振りかざして、町を混乱させている」


「ならば、ここを調べることが混乱の原因になる理由を説明してください」


 デルクは答えなかった。視線が錠前へ落ち、それからリゼットの杖へ移る。短い沈黙の間に、彼女は彼の袖口に付着した赤茶色の泥を見た。水門の前の泥と同じ色だ。


「あなたもここへ来たのですね」


「通りかかっただけだ」


「今朝、ですか」


 デルクの顔から血の気が引いた。だが、すぐに背を向ける。


「調査は役所の許可を取ってからにしろ」


 三人は谷道を下っていった。エアンは追わなかった。


「なぜ止めないのです」


「彼が怯えているからです。怯えた人間を追えば、口を閉ざす」


「見逃すのですか」


「見逃したのではありません。顔と靴と泥を覚えました」


 リゼットは思わず彼を見た。エアンは帳面に何かを書いている。


「あなたは人のことも測るのですね」


「測るのは苦手です。だから、見たことだけを書きます」


 その言い方が、少しだけ可笑しかった。笑う余裕などないはずなのに、リゼットの口元が緩む。エアンはそれに気づいたようだったが、何も言わなかった。


 水門を開けられないままでは、町の水は戻らない。二人は谷道を下り、町外れの古い石切場へ向かった。リゼットはそこに積まれた石材を見て、ひとつの案を思いついた。


「本渠を待つのではなく、ここから水受けへ仮の流路を作ります」


「水源はあるのか」


「地下に残っています。水門でせき止められている分の一部が、石切場の下を通っている」


 彼女は杖を地面へ当て、石の振動を聞き分けた。遠くで細い水が流れている。深さは浅いが、掘り当てれば一晩分の飲み水にはなる。


 エアンは眉を寄せた。


「役所の許可が必要では?」


「許可を待てば、町の子どもたちが空の水桶を抱えて眠ることになります」


「その通りです」


 彼は外套を脱ぎ、袖をまくった。「どこを掘ればいい」


 住民を呼ぶと、最初は誰も動かなかった。けれどリゼットが測定杖で地面を示し、エアンが水利契約の条文を読み上げると、果樹園の農夫や石工たちが少しずつ集まった。


 水は、リゼットの示した場所から出た。


 石工たちは溝を掘り、農夫たちは割れた樋を運んだ。エアンは泥に足を取られながらも、古い木枠を組み合わせて仮設の流路を作った。夕暮れには細い水が樋を伝い、町外れの共同水槽へ落ち始めた。


 大きな流れではない。それでも、水槽の底に水面が戻るのを見て、住民から安堵の息が漏れた。


「明日まで持つでしょう」


 リゼットが言うと、隣でエアンが水面を見た。


「明日まで、では足りない」


「ええ。水門の原因を突き止めなければ」


 夜になり、人々が帰ったあと、二人は再び水門へ向かった。月明かりの下で、リゼットは格子の隙間から内部を探った。水門の板には新しい傷があり、留め金の一部が欠けている。


 地面には、金属片がひとつ落ちていた。


 エアンが拾い上げると、片側に浅い溝が刻まれていた。錠前の鍵にある歯形と同じ幅だった。


「鍵の破片ですか」


「違う」


 リゼットは首を振った。「これは鍵を作るための型を削った跡です」


 エアンが目を細める。


「複製鍵を使った可能性がある」


 そのとき、水門の裏から乾いた音がした。誰かが遠くで石を踏んだのだ。


 二人が振り返ったとき、谷道にはもう誰もいなかった。ただ、月明かりの中に、二種類の靴跡だけが残っていた。片方は役所へ、もう片方は交易組合の倉庫へ向かっている。


 リゼットは水門を見つめた。


「鍵を持つ二人以外にも、開けた人間がいる」


 エアンは複製鍵の型を帳面に包んだ。


「なら、探すべきなのは鍵を持つ者ではなく、鍵を作れる者です」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。