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水音を読む測量士は、旅の監査人と町の未来をつなぐ  作者: 銀細工ナギ


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水音が止まった朝

 朝靄の底で、谷町の水路は息をしていなかった。


 いつもなら夜明け前から、山腹を走る石渠が細く長く唸り、家々の裏手にある水受けへ、冷たい水を絶えず送り込んでいる。その音を聞けば、目を閉じたままでも町の一日が始まったことを知れた。けれどその朝、リゼットが目を覚ましたのは、音があったからではない。


 音が、なかったからだ。


 彼女は寝台から身を起こし、窓を開けた。谷の向こうに白い霧が溜まり、屋根の間から見える水路は、濡れた石の帯にすぎない。水受けの底で、昨夜の雨粒がひとつ、かすかに震えていた。


 リゼットは外套を羽織り、測定杖をつかんだ。杖の先に取りつけた薄い銅片は、水の流れや石の振動を拾うためのものだ。町の人々はそれを「耳」と呼び、役所の技師たちは「迷信じみた道具」と笑った。それでも、十六歳の頃から水路を測ってきたリゼットは、誰より早く異変を見つけてきた。


 表通りへ出ると、すでに人だかりができていた。


「またお前の記録が間違っていたんじゃないのか」


 役所の水利主任、ガルドが怒鳴った。赤ら顔の奥で、細い目が光っている。彼の後ろには役所の書記たちと、交易組合の帳場頭らしい男が立っていた。


「記録では、上流の貯水池は満水です」


 リゼットは水路に杖を当てながら答えた。「昨夜の雨も、谷全体に均等に降っています。突然ここだけ流れが細るなら、途中で絞られたか、別の流路へ逃げています」


「記録では、だ」


 ガルドは鼻で笑った。


「その記録を作ったのは誰だ? お前だろう。去年の春も流量を多く見積もり、組合の荷船を足止めした。今回も同じだ。町が水不足になった責任を、測量士のお前が取れ」


「去年の報告書は、私が提出したものと違います」


 言い返した瞬間、周囲のざわめきが強くなった。役所の壁に貼られた彼女の解任通知が、朝風に揺れている。今日付で契約を打ち切る、と記されていた。


 紙を見つめたまま、胸の奥が冷えた。水路の音が止まった朝に、自分の仕事まで奪われるとは思っていなかった。だが、驚きより先に、足元の石の震えが気になった。


 流れが消えた水路は、完全に静かなわけではない。


 杖の銅片に指を添える。石の内部から、遠い鼓動のような揺れが伝わってきた。水はどこかにいる。地中を押し、狭い隙間を抜けようとしている。ただ、町へ届く道だけが閉じられている。


 そこへ、旅装の男が人垣を割って進んできた。


 灰色の外套に、革張りの書類筒。年は三十前後だろう。日に焼けた顔には疲れがあったが、目だけは水面のように静かだった。


「エアン・ヴァルです」


 男は役所の印章が押された札を示した。「各地の水利契約を監査しています。今朝、隣の峠町から報告を受けました。谷町への分水量が、契約上の数値と一致していない」


 ガルドの顔がわずかに引きつった。


「監査は中央の許可が必要だ」


「許可証ならあります。あなたの机にも写しを届けたはずですが」


 エアンは淡々と言い、次にリゼットを見た。


「あなたが測量士ですね」


「元、です」


「では、元測量士に頼みたい。三日以内に、この水がどこへ消えたのか調べてください」


 周囲から笑い声が上がった。職を失ったばかりの女に、何ができるというのか。リゼットは杖を握り直した。


「私に調査を頼むなら、役所の記録ではなく、私の測定を信じる必要があります」


「記録は、正しい人間が扱えば役に立ちます」


 エアンの返事は短かった。「あなたが正しいかどうかは、測定結果で判断します。報酬は、原因が見つかった場合に支払います」


「見つからなかったら?」


「私があなたの名誉を守る材料を探します」


 その言葉に、リゼットは初めて彼の目をまっすぐ見た。軽い慰めではない。彼は人を信じる前に、事実を確かめる人間だった。


「三日では短すぎます」


「町の水は待ってくれません」


 もっともだった。


 リゼットは水路沿いに歩き出した。エアンも黙ってついてくる。二人は人目を避けるように、上流へ向かった。濡れた石の上には、昨夜までなかった泥の筋がある。誰かが水路脇を掘り返した跡だ。


 谷の狭間に、古い水門が見えてきた。鉄格子と石壁に囲まれ、役所の札には「危険につき封鎖」と書かれている。


「封鎖されたのはいつですか」


 エアンが尋ねる。


「記録上は、三年前です」


 リゼットは水門の前で立ち止まった。杖を石壁へ当てる。すぐには何も感じなかった。風が止み、霧が水門の格子に絡みつく。


 目を閉じる。


 地下深くで、水が曲がった。石の奥から、細い振動が伝わる。次いで、耳では聞き取れないほど小さな音が、銅片を震わせた。


 かちり。


 金属が擦れたような音だった。


 リゼットは目を開いた。


「今、聞こえましたか」


「何が?」


 エアンが水門を見た。


 リゼットは格子の錆を指でなぞった。錆の下に、つい最近ついたような銀色の傷が一本走っている。


「水門は、三年前から封鎖されていません」


 彼女は低く言った。


「誰かが、今朝ここを動かしました」


 その直後、閉じた水門の向こうから、もう一度だけ不自然な金属音が響いた。

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