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三度目の鐘が鳴る前に、エアンは地下渠へ続く石段を下りた。リゼットもその後を追う。湿った空気が頬を撫で、足元の水は、さきほどまでより明らかに浅くなっていた。
主水路を絞った効果が出ている。けれど、水の流れはまだ地下渠の奥へ向かっていた。
「第一分岐は閉じました」
階段の上から、北側を見張っていた石工が声を張った。
「水位は予定どおりです。白布も上がっていません」
「ありがとう。異常があれば、すぐに戻してください」
リゼットは返事をして、暗い通路へ目を凝らした。壁に埋め込まれた古い石が、かすかに震えている。水が狭い場所へ押し込まれ、地下のどこかで流れを変えていた。
「奥の門まで、あとどれくらいですか」
「この先を左へ三つ、右へ一つ。記録にはそうあります」
エアンが灯りを掲げた。炎が揺れ、壁面に刻まれた線が浮かび上がる。
一本の溝だった。人の肩ほどの高さに、古い文字と数字が並んでいる。組合が設置した目印ではない。石を削って刻んだ、もっと古い記録だ。
「止まってください」
リゼットは手を上げた。
「ここで水が二つに分かれています」
「地図では、分岐は一つです」
「今の地図では、です」
彼女はしゃがみ込み、指先を床に当てた。左の壁から伝わる振動は細く長い。右側からは、途切れ途切れの重い響きが返ってくる。さらに足元の石には、遠くから押し寄せるような脈があった。
「右が主流です。左は……流れが隠れている」
「隠れている?」
「壁の向こうに、もう一本あります」
エアンは灯りを近づけた。古い線刻は、左の細い溝から下へ折れ、見えない壁の中へ入っていた。その脇には、擦れて読みにくい文字が残っている。
第三水門。谷町および隣接三村の共同管理。
リゼットは息を止めた。
「隣接三村?」
「この水路は、谷町だけのものではなかったんですね」
エアンは腰の鞄から折り畳んだ書類を取り出した。夜の湿気を避けるため油紙に包まれた、隣町の契約書の写しだった。
「監査人の権限で、昨日、隣町の文書庫に照会を出しました。返事が来たのは今朝です。古い契約の控えが一通だけ残っていた」
紙には、谷町の名と、山向こうのセレナ村、川下の二つの村の名が記されていた。水源を共同で保全し、流量に応じて維持費と配水量を分ける契約。署名欄には複数の名前が並び、最後に「水は境を越えて流れるゆえ、権利もまた境を越える」とあった。
「この契約が有効なら、組合の独占契約は……」
「最初から、結ばれる権限がなかった可能性があります」
エアンの声が低くなる。
リゼットは書面を受け取り、署名を一つずつ目で追った。文字は古く、ところどころ水に濡れた跡がある。それでも、契約が作られた日付と、水源の位置を示す記述は読めた。
「水源の北側に、建設者の確認署名があります」
「ええ。ただし、この写しには最後の頁がありません」
エアンが紙を裏返した。
「隣町の文書庫では、契約の本文と印章の写しは保管されていました。けれど、建設者が現地の石に署名したことを示す添付書類だけがない」
「組合が抜いた図面と同じように?」
「おそらく」
その時、通路の奥で金属が鳴った。二人は同時に顔を上げる。
地下渠の奥の門が、水圧に押されて軋んでいた。蝶番の一つが外れかけている。
「このままでは、閉める前に壊れます」
「押さえられますか」
「一人では無理です」
エアンは迷わず門へ駆け寄り、肩を当てた。リゼットも反対側から鉄棒を差し込み、門の動きを抑える。水が靴の中へ入り、冷たさが足首を覆った。
「リゼット、今ですか」
「まだ。水位が高すぎます。閉めれば別の壁へ圧が回る」
彼女は目を閉じた。水音の重なりを聞き分ける。右の主流、左の隠れた流れ、床下を抜ける細い水脈。そのすべてが、町の外へ向かっていた。
やがて、遠くで鐘が三度鳴った。
地上の住民が合図を送ったのだ。
リゼットは目を開けた。
「今なら、少しずつ閉められます。急に動かさないで」
「了解しました」
二人は息を合わせ、鉄棒を押した。門が一寸ずつ動くたび、地下の唸りが変わる。壁の中の細い流れが強くなり、別の場所で水が跳ねた。
地上から、白布が一枚上がった。
「東地区です。水位が想定より高い!」
石工の声が響く。
「排水口を開けてください!」
リゼットは叫んだ。
「表の四列目、東地区の予備口です。開ければ二十桶分が逃がせます!」
返事が返り、しばらくして地面の震えが軽くなった。エアンは門を押さえながら、短く息を吐いた。
「あなたの配水表は、地下まで知っているんですね」
「数字だけではありません。水がどこへ行きたがっているかを、書いただけです」
「それを知るには、あなたの耳が必要だ」
その言葉に、リゼットの胸が熱くなった。けれど、門はまだ完全には閉じていない。彼女は視線を戻した。
「エアン、この契約書を隣町だけでなく、中央の水利院にも届けられますか」
「届けます。ただ、正式な証明には現地の確認が必要です」
「建設者の署名がある場所を探す」
「山の上でしょうね」
エアンは笑った。
「文書庫で見つからないなら、石に残っているはずです」
門が最後まで閉じた。重い音が地下に響き、流れが変わる。床を走っていた水が止まり、代わりに遠くで主水路へ戻る音がした。
地上へ戻ると、広場の貯水槽へ水が流れ始めていた。住民たちが歓声を上げる。誰かが泣き、誰かが隣人の肩を叩いた。
リゼットは濡れた帳面を開き、配水表の余白に新しい線を引いた。谷町だけでなく、その向こうの村々へ続く線。
エアンが隣に立つ。
「地図が変わりました」
「いいえ」
リゼットは彼から受け取った契約書を地図の上に重ねた。
「見えていなかっただけです。最初から、同じ水を見ていた」
欠けた最後の頁には、建設者の署名があるはずだった。二人は翌朝、山上の古い記念碑を探すことにした。そこに署名が残っていれば、共同水源の権利を証明できる。
広場の水時計が、止まっていた針をゆっくり動かし始めた。短い一刻を刻む音が、夜明け前の町に広がっていく。
リゼットは地図をたたみ、エアンと同じ方向を見た。行く先には、まだ知らない山道と、隠された記録が待っている。
けれど今度は、一人で探すのではない。
同じ地図を、二人で見るのだ。




