山上の記念碑
夜明け前、リゼットとエアンは谷町を出た。
山道は細く、昨夜の雨を吸った土が靴底にまとわりついた。谷間から見上げると、雲の切れ目に白い岩肌がのぞいている。その上に、古い水路建設者の記念碑があるという。
エアンは油紙に包んだ契約書を胸元へしまい、先を歩いた。リゼットは測定具と帳面を背負い、時折立ち止まって足元の石に耳を澄ませた。
「水は、山の上にも流れているんですか」
「地表には見えません。でも、地下を通っているなら聞こえます」
「私には、鳥の声と風の音しか聞こえません」
「それで十分です。私の耳は、あなたほど働きませんから」
エアンが振り返って笑う。リゼットも笑い返したが、すぐに表情を戻した。
「記念碑に署名が残っていなかったら?」
「別の証拠を探します」
「中央の水利院は、石の振動を証拠として認めてくれるでしょうか」
「認めさせます」
迷いのない声だった。
道は次第に険しくなった。かつて水路の資材を運ぶために作られた道らしく、斜面には崩れた石積みが続いている。苔に覆われた石の一つに、古い刻印があった。
リゼットは腰を落とし、指でなぞった。
「この刻印、契約書にあったものと同じです」
エアンが書類を取り出し、印章の写しと見比べる。欠けた円の中に、三本の波線が刻まれていた。
「建設者の組印ですね。ここが資材置き場だったのでしょう」
「なら、記念碑はこの先です」
二人は石積みをたどって登った。山腹を回り込むと、崖の陰に小さな平地が現れた。中央に、背の低い石碑が立っている。頂部は崩れ、表面も長い年月で削られていた。
エアンが泥を払い、灯りを近づけた。
「文字があります」
リゼットも隣に膝をついた。碑面には、かろうじて読める文が残っていた。
水源をひとつと数える者は、流れを失う。
分かれた水をひとつに戻す者は、境を越えて生きる。
その下に、複数の署名が刻まれている。谷町の古い家名、セレナ村の名、川下の二つの村の名。そして最後に、建設責任者の名があった。
「契約書の署名と一致します」
エアンの声が震えた。
リゼットは碑の周囲に手を触れた。冷たい石の内部から、細い振動が返ってくる。一定の脈ではない。山の奥から来る水が、途中で何度も跳ね返っていた。
「ここです」
「何が?」
「記念碑の下を水が通っています」
彼女は測定具を取り出し、平地の四隅に印を置いた。石の振動を一つずつ聞き分け、帳面に線を引く。最初の線は谷町へ下り、二本目は北東の斜面へ向かっていた。
「北東は、セレナ村の方向ですね」
「はい。もう一本は川下へ。けれど、途中で音が消えています」
リゼットは地面に耳をつけた。土の下で、水が狭い管に押し込まれている。しばらくすると、遠くから鈍い響きが返ってきた。ひとつではない。三つの場所で、流れが不自然に分かれている。
「地下渠の経路が見えました」
彼女は山の斜面に線を引いた。
「ここから谷町へ下り、途中で北東へ分かれます。さらに川下へ向かう流れがある。でも……」
「でも?」
「途中に、故意に作られた分岐があります」
エアンが地図を広げた。リゼットは石の配置と振動の強さを照らし合わせ、三つの地点に印をつけた。
「第一は、谷町の北側。第二は、組合の倉庫へ向かう地下渠の入口。第三は、川下へ流れるはずの水を山腹へ逃がしています」
「逃がしている?」
「貯めているのかもしれません。音が地中で止まり、別の場所から戻ってくる」
エアンは記念碑を見上げた。
「三つとも、古い共同水路にはありません」
「建設者は、こんな分岐を作っていない」
リゼットは碑面の文字を見つめた。水をひとつに戻す者は、境を越えて生きる。その誓いに反して、誰かが水を三度も奪う道を掘ったのだ。
風が強く吹き、記念碑の脇に積もった枯れ葉が舞い上がった。その下から、平たい黒石が現れる。
エアンが拾い上げると、裏面に新しい傷があった。組合の印章と同じ、三本の波線。その上から、別の刻印を削り取った跡がある。
「これを使って、古い設備を自分たちのものに見せかけたんでしょう」
「削った文字は、まだ読めます」
リゼットは石を受け取り、指先で傷の深さを確かめた。
「水路建設者の名を消そうとした。でも、石の中の振動までは消せなかった」
エアンは彼女の手から石を受け取り、油紙で包んだ。
「この三か所を実測できれば、地下渠の全経路を証明できます」
「町へ戻りましょう。住民に知らせて、測量隊を組む必要があります」
「組合が妨害するかもしれません」
「それでも、やります」
リゼットは立ち上がった。山の向こうから朝日が差し、記念碑の欠けた頂部を赤く染めている。
「水は、奪われた場所を覚えています。私たちが忘れなければ、必ず戻せる」
二人は山道を下り始めた。背後には、古い署名と三つの不自然な分岐が残されている。隠されていた経路は、もう隠れていなかった。
谷町へ着くころ、住民たちは広場に集まり始めていた。リゼットは地面に新しい地図を広げ、三つの印を示した。
「水を故意に奪うための分岐は、ひとつではありません」
ざわめきが広がる。
「三か所あります」
エアンが記念碑の石を掲げた。削り取られた刻印の跡を見て、かつて組合を信じていた職人が息をのんだ。
リゼットは地図の線を指でたどった。
「ここから先を調べます。今度は、町だけでなく、すべての村と一緒に」
朝の鐘が鳴った。止まっていた水時計の針も、広場の水音に合わせて進んでいる。
山上の記念碑に残された署名は、失われた契約を呼び戻す最初の証拠となった。そして三つの分岐は、誰かが暮らしの水を奪うために、長い時間をかけて掘った傷だった。




