高等魔法防衛戦術理論 Ⅲ―2
『高等魔法防衛戦術理論Ⅲ』。今回の講義に必要な教科書だ。
先生はまだ来ない。もう開講しているはずの時間だが……。
隣の見知らぬ少女をジロジロ見つめるのもなんだから、彼女に習って自分の教科書を広げた。ページは……少女に合わせてみる。
章のタイトルは『集団による都市防衛戦』。
――近年、魔法技術の進歩は著しい。それに伴い高人口密集地(以下『都市』とする)における防衛戦は、以前までのように防御側が完全……。
ちっとも面白くない。それに、これまでの講義に比べると相当にハイレベルな内容だ。淡々とこの内容を先生に話されたなら夢の世界に入り込んでしまいそうになる。
しかし、先生が姿を見せない今は暇つぶしに丁度いい具合の難解さだったので、そのまましばらく内容の反芻を続けた。
教室内に動きがあったのは、それから十分ほどあと。正確に言うと開講時間を十二分も過ぎた頃だった。
隣の少女が唐突にぱんっと音を鳴らして教科書を閉じた。そのまま音もなく立ち上がると教室の前方に向かって壁側の通路を下りて行く。
流石に帰るのだろうか。
少女は教室前方の大きな黒板に向かって右手をかざす。備え付けのチョークが宙を舞い、少女の手の動きに合わせて黒板に線を描き始めた。
「この街に三万の敵軍が接近してきている。うち一万ほどが魔法使いで、こちらに向けて今にも魔法を打ち出しそうだ」
苛立たし気に黒板を殴りつけるチョークの音に、時間も忘れて騒いでいた学生たちは一気に静まり返った。おかげで少女の見た目通り気だるげな声も簡単に通る。
「周辺は完全に包囲され、援軍は期待できない。さて、どう守る?」
黒板に向かって歩きながら教室全体に対して質問を投げかける。
「えっと……?」
誰かがそう言ったのが聞こえた。半笑いの小馬鹿にしたような声色だ。正直そう言いたくなる気持ちはよく分かる。
学生が、教室の前でわけの分からない質問をいきなりしてくればそうなる。
「え、誰?」
「知るかよ、やべーやつじゃねぇの?」
「つか可愛くね?」
「それな」
教室内はざわつきに包まれていく。
チョークの音が止まった。黒板に描かれたのはこの街を上空から見たような形の図形だ。そして、質問の内容にあった敵の勢力とその配置。
つまり布陣図だった。
「しつもーん」
軟派そうな集団の一人が声を上げる。
「なんだ?」
少女はうんざりしたような様子で応えた。
「お名前はー?」
案外良いことを聞く。
「ああそうか。名乗ってなかったな」
再びチョークが動き出す。筆記体で文字列が作られていく。
「講師のメレン・ゴッドスピードだ。ブラウン先生が急病で来られなくなったからその代理というわけだ」
メレン・ゴッドスピード。どうやら代理の講師のようだが、全く聞き覚えのない名前だ。外部からやって来たのだろうか。それにしてもあの軟派な学生は気の毒だ。見た目だけで言うなら講師メレンは、明らかに年下の女学生と言える。まさか講師だったとは思いもしなかっただろう。
「質問は以上か?」
「……ぁっす」
引きつった笑顔のまま、学生は返事とは思えない声を出して閉口する。
「では私の質問だ……どうする?」
自分ですか? と言わんばかりに学生は自身に向かって指を差す。メレンの視線は明確な意思を持って学生に向けられている。つまり……そう言うことだろう。
「……」
学生は沈黙するしかなかった。当然だ、メレンの質問は先ほど読んでいた教科書の内容――つまり『集団による都市防衛戦』の知識がないと答えることはできないのだから。
ただでさえ高度な知識が必要になる。そんなことをここに居る人間が答えられるはずもない。
何も言わない学生を尻目にメレンは次の犠牲者を選出した。よく目立つ赤い色の髪をした快活そうな少女だ。お気の毒に。
「すみません、分かりません」
少女もやはり分からないようだ。一見無表情に見えるメレンの顔がわずかに歪む。
「はあ……誰か分かるやつはいるか?」
メレンは挙手を求めて教室全体へ質問をするが、誰もそれらしい反応は見せない。教室全体が完全に委縮していた。こうなると誰だって手を上げにくくなる。
しばらく無言でいると、メレンはまた教室の誰かに直接質問し始めた。また一人、また一人と声を掛けるが答えは同じ。このまま教室の全員を街灯に吊るすのを待ってもいいが、それでは講義が深夜まで続きそうだ。それは困るし、自分の番が回ってきたら怖い。
ここはさっさと声を上げたほうがよさそうだ。
「次。そこの――」
「先生」
夕闇色の髪がふわりと動くのが見えた。メレンの意識がこちらに向く。




