報道されていたことと、現実に起きていたこと・・
1979年に入ってから近代的な設備を持つ総合病院が、イラクの各地に建設された。その建設に携わったのは日本の企業だったらしい。
「サダム国立総合病院」は、1979年11月にまず5つ・・北からアルビル、ティクリート、バグダッド(教育病院)、南部に位置するナジャフ(教育病院)、ナシリアといった5都市に地下1階、地上7階で400 ベッドの病棟と診療棟をもつ総合病院の建設が決まった。
その後イラン・イラク戦争が始まったものの工事は進められ、1981年、そのあとさらに同じような設計で、「サダム国立総合病院」は、ドゥホーク、モスル、キルクーク、ラマディ、ディワーニャ、サマワ、クート、さらに、1982年にアマラの計8か所に新たに建設された。
こうして13か所の近代設備を持つ病院が新たに完成して、もともとあった病院を加えるとイラクには18か所の総合病院があったわけだが、1991年5月にイラク全土にある主だった病院を回ってみて、これらの総合病院を含む28か所の非軍事用病院と52か所の自治体医療センターがすべて攻撃を受けているのを知った・・こういう場合、誤爆という言葉が使えるのだろうか・・
当時日本で私が見た限りにおいては、新聞でもテレビでも、何か人道的に問題のあることが取り上げられると、これは誤爆だという言葉で片づけられていた・・ように記憶している。
同じように誤爆だと言われ、あるいは、本来そこには女・子供がいるはずのない施設で、フセイン大統領が盾にしたのだという論調さえあった建物・・がバグダッドにある。
アムリエシェルター・・もしくはアメリアシェルターと呼ばれていたこの建物のことを、多くの人はすでに忘れてしまっているかもしれない・・
あの時、アメリカ軍は民間人が避難したアムリエシェルターを「ピンポイント爆撃」した。
湾岸戦争の始まる前から平和を唱えてずっとイラクにとどまり続けていた一人の僧侶が、日本に戻ってイラクのことを語り、それに賛同した人たちが多く集まっているグループでもあったので、病院に物資を届けるという目的とは別に、平和行進を行い、その地で祈りをささげるというのも、私たちにとってはもう一つの大切な目的だった。
病院で見た光景も凄惨なものがありましたが、それ以上に私の人生を変えてしまったものが、アムリエシェルターで見た光景でした・・次回は、アムリエシェルターに向かいます・・




