新聞やテレビが報道しなかったこと・・フセイン大統領はどんな国を目指していたのか?
イラクに入ってまず最初に驚かされたのは、あまりにもまっすぐに続く道路が、イラクのすみずみまで張り巡らされていたことだったけど、それに関しては、単に、産油国の経済力がなしえたインフラの整備状況の一つとして受け止めていた。
でも、少し意外なこと・・何か違うなと感じていることは、この赤新月社でもそうだけど、バグダッドに着いてすぐにホテルにチェックインした時に、女性が働いているのを見たことだった。
しかも、普通にスーツを着たり、スカートをはいて、何も被り物をせずすっかり髪の毛も顔も見える状態で・・
日本では当たり前のことだから、直接イラクに入っていたなら気づかずに過ぎてしまったのかも知れないし、違和感すら感じなかったかもしれない。
実は、お隣の国ヨルダンを思い返してみても、ホテルのフロントも、ホテル内のレストランやカフェにすら女性職員の姿はなく、すべてフロントマン、ウエイター、ベルボーイ・・などなど男の職場である。
医薬品の交渉をするために出かけた製薬会社でも出会ったのは男性ばかりだったし、ビザの申請や滞在の延長をしてもらうために訪れたお役所関係もすべて男性の職場だった・・
では女性はどこにいるのかというと、金曜の礼拝の時刻になると、ぞろぞろと夫に付き従う形で姿を現す。
基本的に、女性は未婚の場合は父親に従い、既婚の場合は夫に従うので、その許可がないと就職もできないというようなことを、親しくなった一家に招待された時に聞いた。
そういう事情であれば、仕事してる女性を見かけなかったはずだなとも思った。
家の中では、私は女なので、その一家の女性たちは次々奥の部屋から現れて、そのきれいな顔を見せてくれたけれど、敬虔なイスラム教徒は、肌を露出させることを嫌い、外に出るときはヒジャブというスカーフのような被り物をして髪の毛を隠すように巻く。なので、夏であろうとタンクトップやショートパンツなんて、私たちの感覚で言えば、下着姿で街をうろついているのと同じくらい恥ずかしい格好だということになる。
ヒジャブは、思っていたような真っ黒ずくめになるスタイルではなくて、白や水色もあるし、素材も夏用の薄地のものもあり、とにかく髪さえ隠せばOKのような感じだった。
その下は、若い子たちはジーンズと長袖のシャツを着こなしている人もいるけれど、年配の人たちは体型が全くわからないくらいゆったりとした服を身にまとっている。
これがヨルダンでなく、サウジアラビアだともっとその戒律は厳しいものとなり、女性は保護者とともにでないと出歩くことも許されず、全身を黒く覆い隠すイメージで、ヒジャブをかぶり、ブルカと呼ばれる顔の下を隠すものを付け、アバヤというガウンのようなゆったりした布を身にまとう・・肌を見せるようなことを公共の場で行うと逮捕されることもあると、日本を出る前に聞いていた。
私は、イスラム圏に行くことが決まってから、風通しがいいように、かなりゆったりした長袖のジャケットを麻の布地で大きめに作ってもらい、Tシャツとジーンズの上に必ず羽織るようにしていたし、つばの広い帽子をかぶっていたので、比較的彼らにも好意を持って迎えられたのだと思う。
こういう情報があり、また、現実に1週間ほど過ごしたアンマンでの状況が、私にアラブ圏は男社会のようなイメージを定着させていただけに、イラクの女性たちが生き生き働くさまは、一種のカルチャーショックでもあったのだ。
このことで話をしてみると、このように女性の社会的地位が向上したのは、なんとフセイン大統領の時代に入ってからのことだと知ってまた驚いた。
1984年から、女性の家庭外での労働を推進する4か年計画が開始されていたこともあり、バグダッドには女性のための職業あっせん所が4か所もあった。
そしてすでに子供を持った女性がもう一度勉強できるチャンスを持てるようにと、大学には託児所まであったのだ・・大学の学生たちも、半分くらい女性だったのだから、ほかのイスラム圏とは女性に対する待遇がかなり違うといえる。
こんなことは政府の後押しがなければ、そう簡単に変えられることではないように思う。
ちなみに、ここで教育のために日本政府がどれだけのことをしているのかを、もう一度考えてみると、フセイン大統領が行っていた政治が、独裁政治とはいえ、どれだけ国家のことを大局的にとらえていたのかがよくわかる。
実は、フセイン大統領による統治が始まってから、文盲率は著しく低下したのだという。すべての人が教育を受ける権利を持ち、教育費は大学を出るまですべて無料だったというのだから・・・
なるほど・・それで合点がいった・・と思うのは、バグダッドに来てから、言葉に不自由を感じなくなっていたのだ。それこそ、道で出会う人たちだって、お年を召した人を除けば大抵の人が英語で会話することができた。
ヨルダンにいたときは、といっても首都であるアンマンしか知らないけれど、英語が通じるのはある一定レベル以上のホテルのフロントとか官公庁、そういったホテルに来ることが許されているタクシーの運転手、そして旅行代理店とかある程度のステイタスのある人たちくらいで、ダウンタウンにある小さなお店ではまず通じなかったし、流しのタクシーだと英語のわからない運転手も結構いたのだから・・
彼は教育こそが、最終的に国の力となると考えていたからこそ、石油がもたらしてくれる莫大な利益をそこに注ぎ込んだのだろうと思った。
来てみないと分からないことって、本当にあるんだ・・




