第9話 ルークの帳面
姉上が、恋人のふりをして出かけていった。
その話を夕方にミナから聞いたとき、僕は帳面を落としそうになった。
ミナがそれを話してくれたのは、僕が聞いたからだ。屋敷の裏口に、見たことのない騎士が立っている。姉上の部屋の窓の下にも、もう一人。何があったのかと聞くと、ミナは少し迷ってから、ゆうべ古紙を買いに来た男のことを教えてくれた。手紙を、束ごと買いたがっていたと。
背中が、冷たくなった。
紙を欲しがる人間がいる。だとしたら、姉上の三百四十二通の次に狙われるのは、僕の帳面だ。三年かけて集めた、姉上の書き損じと、写しの全部。
だから僕は、姉上が帰ってくるのを、門の前で待つことにした。
この帳面の最後の頁のことを、もう黙っていられなかった。
*
日がすっかり暮れたころ、運河のほうから、二人が歩いてきた。
姉上は、見たことのない青い木綿のドレスを着て、髪を町の娘みたいに一つに編んでいた。手に、黄色い花を一輪持っていた。
その隣で、袖の足りない茶色の上着を着た大男が、姉上に右腕を貸していた。
姉上の手は、その腕にかかったままだった。
僕は、二人の腕に目をやって、思わず眉を上げた。団長はすぐに気づいて、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。姉上は、少し遅れて気づいたらしかった。
言いたいことは山ほどあった。でも、今夜は帳面が先だ。
「姉上。ずっと、言いそびれていたことがあります」
門の前で言えたのは、数字が合わないことと、その横の書きこみのことまでだった。続きは、紙を見せないと伝わらない。
*
僕の部屋は、廊下の突き当たりにある。
机の上も床の上も、紙だらけだ。姉上が三年のあいだに丸めて捨てた書き損じを、一枚ずつ伸ばして、日付ごとに綴じてある。
姉上は、部屋に入るなり立ち止まった。
「……全部、取ってあったのね」
「全部です」
僕は、帳面の最後の頁を開いた。そこには、書き損じではない紙が挟んであった。
「三か月前、ブルーノ様が、拍手の段取りと一緒に、これをくれたんです。殿下の執務室にあった、姉上の原案の綴りです。執務室では、原案を清書してから殿下の机に上げて、下書きは燃やす決まりだったそうです。ブルーノ様は、それも燃やせなかったって」
姉上の字で書かれた原案の、数字を指でさした。
『南区の石橋 見積もり 金貨六百枚』
六百の上に、二本線が引いてある。その横に、赤いインクで、九百と書き直してあった。
「姉上が出した見積もりは、六百枚です。でも、殿下の名前で出た決裁書では、九百枚になっている。港の荷揚げ場も、東区の井戸も、同じです。姉上の数字が、殿下の机に上がる前に、誰かに書き直されている」
姉上が、原案に顔を近づけた。
「私の原案……。でも、この赤い数字は、私の字じゃない」
「はい。7を見てください」
港の荷揚げ場の行に、赤い字で七百と書いてあった。
「横棒が、ありません。だから、姉上の字じゃない。でも、殿下の字でもないんです。殿下の7は、もっと右に傾いてる。殿下が自分で書いた手紙を、何通も見て確かめました」
僕は、赤い数字の、すぐ横を指でさした。
「それから、書き直した数字の横には、いつもこの書きこみがあるんです」
小さな円。その中に、鉤のような形がひとつと、その肩に、短い線が二本。
姉上の顔から、血の気が引いた。
「……ルーク。これ、今夜、見たの」
「見た?」
「ゲルト商会の内帳。消えたお金の行き先に、同じ印がついていた」
姉上は目を閉じて、何かを思い出すように、唇を動かした。
「南区の石橋。内帳の三つめの数字は、三百だった」
六百と、九百。
その差は、三百。
僕の背中に、鳥肌が立った。
「書き直して増やした分が、そっくりそのまま、この印のところへ流れてる……」
「北区の水路だけは、私の見積もりのまま、二千四百枚で通っていた。だから代わりに、工事を半分にして抜いたのね。やり方が違うだけで、行き先は同じ」
姉上は、帳面の印を、指でそっとなぞった。
僕は、ずっと考えていたことを、口にした。
「姉上。これ、字ですよね。円で囲んだ、グの字」
姉上が、顔を上げた。
「殿下の机に上がる前の書類に触れられて、殿下の後ろにいた人で、名前がグで始まる人は──」
「ルーク」
姉上の声は、静かだった。
「証拠のないことは、言っちゃだめ」
僕は、口を閉じた。
あの夜会で、一人だけ手を叩かなかった人の、薄い笑みを思い出していた。たぶん、姉上も。
*
焦げくさい匂いに気づいたのは、そのときだった。
窓の外が、ぼんやりと赤い。屋敷の裏手、厩のあたりから、煙が上がっていた。
「火事だ!」
裏庭で、誰かが叫んだ。使用人たちが駆け出す足音がする。窓から見下ろすと、裏口に立っていた騎士も、姉上の部屋の窓の下にいた騎士も、厩のほうへ走っていくのが見えた。
「ミナが、裏の洗濯場にいるはず」
姉上は鞄を肩にかけたまま、部屋を飛び出して、階段を駆け下りていった。
僕は、机の上の紙を見下ろした。火が回ったら、三年分が燃える。とっさに、帳面だけを胸に抱えた。
がしゃん、と、廊下の向こうで硝子の割れる音がした。
姉上の部屋のほうだった。
考えるより先に、体が動いていた。
廊下を走って、姉上の部屋の扉を開け放つ。窓が割れて、夜風が吹きこんでいた。
黒い布で顔を覆った男が、手紙の箱を逆さにして、中身を麻袋に流しこんでいた。机の引き出しが全部引き抜かれて、床に転がっていた。
「やめろ!」
男が振り返った。
僕は、剣なんか持ったことがない。走るのも、遅い。でも、麻袋の口から、手紙がこぼれるのが見えた。拙い字。震える字。子どもの、大きな字。
姉上が、三年遅れで受け取った手紙だ。
僕は、帳面を放り出して、麻袋に飛びついた。
男が、僕を突き飛ばした。机の角に、額がぶつかった。目の前が白くなった。
それでも、麻袋の口だけは、離さなかった。
「放せ、小僧!」
「放すもんか!」
額から、温かいものが流れてきた。
「姉上が捨てた紙を、三年拾ってきたんだ。姉上がもらった手紙を、今さら一枚だって、他人に拾わせるもんか!」
男が、拳を振り上げた。
その腕を、うしろから大きな手がつかんだ。
団長だった。
門の前から厩へ走る途中で、硝子の割れる音を聞いて、表の玄関から駆け上がってきたのだと、あとで聞いた。袖の足りない茶色の上着のまま、息ひとつ乱していなかった。男の腕をひねり上げると、男はうめいて麻袋から手を離した。
男は、空いたほうの手で懐から何かを抜き、団長の腕を払った。団長が身をかわした隙に、割れた窓から外へ飛んだ。
団長が、窓枠に足をかけた。
追える、と思った。この人なら、きっと追いつける。
そのとき、廊下から、姉上が駆けこんできた。
「ルーク!」
団長の足が、窓枠の上で止まった。
一瞬だけ、闇の中を振り返った。それから、窓枠から足を下ろした。
追わなかった。
*
姉上は、床に膝をついて、僕の額を手巾で押さえた。
「ルーク、ルーク、動かないで」
「平気です。ちょっと切っただけ」
「平気じゃない!」
姉上の手が、震えていた。
僕は、姉上が泣くところを、あの夜会で初めて見た。三年間、どんなひどいことを言われても泣かなかった人が、手紙の束の前で泣いた。
その姉上が、今、僕のために泣いていた。
「……手紙、無事ですか」
「ばか。手紙より、あなたが」
「数えてください。僕、ちゃんと押さえてたから」
姉上は泣きながら、麻袋の中身と、床に散らばった手紙を拾い集めた。団長が、黙ってそれを手伝った。大きな手で、一枚ずつ、折れないように。
姉上は、数えた。
一通ずつ、指で弾くように。途中で涙を拭いて、また数えた。
数え終えて、姉上の顔が、すっと白くなった。
「……三百三十九通。一通、足りない」
姉上はもう一度、床に這いつくばるようにして、寝台の下と、引き抜かれた引き出しの中を探した。団長も、割れた硝子をよけながら、窓の下を探した。
どこにもなかった。
廊下に、足音がした。
父上だった。寝間着の上にガウンを羽織って、戸口に立っていた。割れた窓と、引き抜かれた引き出しと、額を押さえた僕を、順番に見た。
「医者を呼べ」
うしろの執事に、それだけ言った。
それから父上は、手に持っていた一通に目を落とした。廊下まで飛ばされていたのを、拾ってきたらしい。
父上は、その手紙を、しばらく黙って見ていた。宛名の、姉上の名前を。
長い時間だった。
やがて、父上は何も言わずに、その一通を姉上に差し出した。姉上が両手で受け取ると、父上は背を向けて、廊下の暗がりへ戻っていった。
姉上は、その一通を束に重ねた。
「三百四十通」
それから、肩にかけたままの鞄に、そっと手を当てた。中にあるものを、確かめるように。
なぜか、ほっとしたような顔をした。
「全部、あるわ」
三百四十二通じゃなくて、三百四十通。それで全部だと、姉上は言った。その意味は、僕には分からなかった。分からなかったけど、聞かないことにした。姉上がそういう顔をするときは、聞かないほうがいい。
*
裏庭は、まだ煙と怒鳴り声でいっぱいだった。厩の火を、使用人たちが桶で消している。
団長は、割れた窓の前に立って、煙の向こうの闇を見ていた。
「申し訳ありません」
低い声だった。
「持ち場を離れたのは、私の部下です。火を見ても持ち場を離れるなと、命じておくべきでした。……あの男も、私が追っていれば」
「追わなかったのは」
僕が聞くと、団長は少しだけ黙った。
「あなたの姉上が、泣いておられたので」
それだけ言って、また窓の外を見た。
僕は、団長の手を見た。
握りしめた拳が、まだ解けていなかった。姉上が泣いているあいだじゅう、この人は、ずっと拳を握っていたのだと思う。
姉上の三年は、紙の上でしか知らないはずの人だ。なのに、この人は、姉上のことで本気で怒っている。
「団長」
「はい」
「姉上を泣かせたら、僕の帳面に書きますから」
団長は、僕を見下ろした。それから、真顔のまま、きちんと頷いた。
「記録しておいてください」
この人は、たぶん冗談を言っていない。
そのとき、廊下を駆けてくる足音がした。
ミナだった。前掛けの裾を濡らして、手に、洗濯物を叩く木の棒を握っていた。
「お嬢様。捕まえました」
息を切らしながら、ミナは言った。
「お嬢様が洗濯場をのぞいて戻られたすぐあとに、窓から降りてきた男が、前を走っていきましたので。この棒で足を払いましたら、厩の水桶に頭から。火消しから戻った騎士様たちが、縛ってくださいました」
割れた窓から見下ろすと、厩の水桶のそばで、騎士が二人、縄をかけ終えたところだった。そのあいだで、黒い布の男が、頭から水をしたたらせてうなだれていた。
姉上が、ぽかんと口を開けた。
ミナは、棒を握り直して、いつもの穏やかな顔で付け足した。
「お嬢様のお手紙に手を出す者は、洗濯物と同じ目に遭っていただきます」
団長が、窓の下の男と、ミナの棒を見比べた。
「……騎士団に、欲しいくらいです」
僕は、額を押さえたまま、少しだけ笑った。笑うと、傷に響いた。
厩の火は、そのあと消し止められた。積んであった藁に、油がかけてあったらしい。
*
翌朝、僕の額には白い布が巻かれていた。
朝食のあと、姉上と門まで出ると、ヴォルフ様が駆けてきた。水門で捕まえた二人は、雇われた舟人で、何も知らないと言っているらしい。ゆうべミナが捕まえた男は、雇い主の名前を、一言も吐かないそうだ。それから、もう一つ。
「ゲルト商会の会頭が、ゆうべのうちに屋敷から消えました。殿下が衛兵を向けたときには、もぬけの殻で」
ヴォルフ様は、懐から一枚の紙を取り出した。
「それと、これが今朝、北区の掲示板に貼られていたそうです。一枚残らず、同じものが。人前に出てしまえば、衛兵も手を出しにくいと踏んだんでしょう」
姉上が、紙を受け取った。僕も、横からのぞきこんだ。
『北区の水路が途中で止まったのは、図面の誤りによるものである。
図面を引いたのは、オルフェ侯爵家の娘、リゼットである。
本日正午、北区の広場にて、ゲルト商会会頭がすべてを住民に説明する』
僕は、紙を握りつぶしそうになった。
姉上は、黙って、紙を最後まで読んだ。
七日前の姉上なら、この紙を見て、うつむいたと思う。名前を出せば嫌われる。そう言われ続けて、三年間、自分の名前を隠してきた人だから。
姉上は、うつむかなかった。
紙を畳んで、まっすぐ団長を見た。
「行きます」
団長は、答えるより先に、北のほうへ体を向けていた。
「お供します」
姉上は、それから僕のほうを向いた。額の白い布を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「ルーク。帳面を、貸してくれる?」
三年間、ずっと待っていた言葉だった。
「……はい、姉上」
僕は、帳面を両手で差し出した。
あの人が、自分の名前で、僕の帳面を使う日が来た。
オルフェ侯爵。リゼットとルークの父。廊下で拾った一通を、長いあいだ見ていた。
次回、自分の名前で。
返事 15/342通
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