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第10話 自分の名前で

北区の広場は、人で埋まっていた。


ユリウス殿下が、帳面と測り縄を持って井戸の深さを測っていた、あの小さな広場だ。今日は井戸のまわりにも、屋根の上にまで、人がいた。桶屋の前掛けをつけた人。麦わらを背負った人。赤ん坊を抱いた人。北区じゅうの人が、集まっているように見えた。


井戸の脇に、荷車が一台。その上に、恰幅のいい男が立っていた。


金の鎖を胸に下げ、指には大きな指輪。ゲルト商会の会頭、ゲルトだった。荷車のまわりを、腕の太い男たちが六人、取り囲んでいる。


広場の入り口で、私は足を止めた。


鞄の中で、ルークの帳面が重かった。


「北区のみなさん!」


ゲルトの声は、よく通った。


「みなさんの井戸が濁ったのは、我が商会のせいではない。図面のせいだ。あの図面どおりに川まで掘れば、大水のときに川の水が逆さに流れこみ、北区は水の底に沈む。だから我が商会は、みなさんの命を守るために、工事を止めたのだ!」


人垣が、ざわめいた。


「図面を引いたのは誰か。殿下ではない。オルフェ侯爵家の娘だ。婚約を破棄された、あの愛想のない娘だ。帳簿も読めぬ娘の、素人の落書きを、殿下は信じてしまわれたのだ!」


「そうだったのか」

「侯爵家の娘の、遊びかよ」

「うちの井戸を濁らせたのは、その娘か!」


怒鳴り声が、広場のあちこちから上がった。


足が、動かなかった。


三年間、聞かされ続けた言葉だった。名前を出せば、嫌われる。君は人に好かれない性質なんだ。


半歩うしろで、団長が言った。


「リゼット嬢」


いつもと同じ、低い声だった。


「名乗るときは、顔を上げてください」


私は、振り返らなかった。振り返ったら、たぶん、この人の顔を見て安心してしまう。


「……前に、いい名前だと、言ってくれましたね」

「はい」

「今日、使います」


私は、人垣の中へ歩き出した。団長は、何も言わずに、半歩うしろをついてきた。


*


人垣が、少しずつ割れていった。


荷車の前まで来ると、ゲルトが私を見下ろした。一瞬だけ目を見開いて、それから、にやりと笑った。


「これはこれは。ご本人のお出ましとは」


広場が、静かになった。


私は、荷車の上の男ではなく、広場の人たちのほうを向いた。


何百という顔が、私を見ていた。怒っている顔。疑っている顔。困っている顔。


息を吸った。


「リゼット・オルフェです」


声が、広場の端まで届いたのが分かった。


「北区の水路の図面を引いたのは、私です」


ざわめきが、波のように広がった。


逃げなかった。逃げたら、三年前と同じになる。


「図面に誤りがあったのなら、私の責任です。でも、誤りがあったかどうかは、私の言葉ではなく、数字で確かめてください」


私は、鞄からルークの帳面を取り出して、図面の写しを開いた。


「図面には、高さが書いてあります。三年前に、王宮の測量方の台帳から、一か所ずつ写したものです。北の端の地面から、川の夏の水面まで、大人の背丈ひとつ分。春の大水のときでも、腰の高さ分は、川のほうが低い。水は、低いほうへしか流れません。川の水が北区へ逆さに上ってくることは、ありません」


ゲルトが、鼻で笑った。


「図面の上でなら、何とでも書ける」


そのとき、人垣の前のほうで、杖をついた老人が声を上げた。


「その娘さんの言うとおりだ」


白い髭の、腰の曲がった人だった。


「わしは、北区で七十年暮らしとる。あの川が、北の門を越えて町に入ってきたことは、生まれてこのかた一度もない。大水で困るのは、いつも南から下ってくる水のほうだ」


まわりの年寄りたちが、そうだ、そうだと頷いた。


*


「では」


私は、荷車の上を見上げた。


「ゲルトさん。北区の水路の後半の工事について、商会から出された話は、これで三つになります」


指を一本立てた。


「一つめ。去年の秋に会計院に出された、完工届です。北の門の外の川まで千二百歩、落ち口に石の堰を築いて、完工。そう書いて、商会の名で出されています」


二本目。


「二つめ。番頭のコンラートさんが、会計院で言ったことです。この春の大水で、石積みも堰も流された」


三本目。


「三つめが、今朝の貼り紙です。図面の誤りに気づいたので、途中で止めた」


私は、三本の指を、広場に向けた。


「完成したのですか。流されたのですか。それとも、初めから作らなかったのですか。どれが、本当ですか」


広場の誰かが、小さく吹き出した。


ゲルトの顔が、赤くなった。


「か、完工届は、番頭が勝手に書いたものだ。あの男は、もう牢の中だろうが」

「では、図面の誤りに気づいて止めたのは、いつですか」

「工事の途中だ。石を積んでいるうちに、職人が気づいた」

「工事の途中」


私は、鞄から、もう一枚の紙を取り出した。


今朝、貼り紙の話を聞いたクララが、父君に頼んで書いてもらい、屋敷まで走って届けてくれたものだ。


「王都両替所の、ゲルト商会の口座の写しです。両替所の監督官、ベルモント子爵の署名が入っています」


紙を、高く掲げた。


「去年の秋、会計院から、北区の水路の後半の工事の代金として、金貨二千四百枚が商会の口座に入りました。その三日後に、千百七十六枚が、金貨のまま引き出されています」


広場が、静まり返った。


「後半の工事は、千二百歩。一歩につき、金貨二枚。実際に積まれたのは、六百十二歩です。積まなかったのは、五百八十八歩。五百八十八歩の代金は、千百七十六枚」


私は、ゆっくりと言った。


「工事が始まる前に、積まない分の代金だけが、ぴったり抜かれているんです」


ゲルトの口が、開いたまま止まった。


「途中で気づいたのなら、気づく前に、止める歩数まで分かっていたことになります。石を一つも積む前から、川まで掘るつもりなんて、なかったんです」


*


「でたらめだ!」


ゲルトが、荷車の上で叫んだ。


「両替所の写しなど、いくらでも作れる! 侯爵家の娘とベルモント家の娘が、仲良しなのは誰でも知っとる!」


広場の入り口から、蹄の音がした。


人垣が、左右に割れた。騎士が二人、木箱を一つ積んだ荷馬を引いてくる。その先頭に、ヴォルフ様がいた。


「どうも、お待たせしました」


ヴォルフ様は、荷馬から木箱を下ろして、蓋を開けた。紐で束ねた帳簿が、ぎっしりと詰まっていた。


ゲルトの顔から、血の気が引いた。


「ゆうべ、西区の水門で、舟ごと預からせてもらいました。会頭の商会の、内帳です」


私は、一番上の一冊を取って、北区の水路の頁を開いた。


「この内帳にも、同じ数字が書いてあります。会計院から受け取った額、二千四百。工事に使った額、千二百二十四。そして、もう一つ」


三つめの数字。その頭の、小さな印には、触れなかった。


証拠のないことは、言わない。


「千百七十六。会頭ご自身の帳簿です。素人の写しでは、ありません」


ゲルトが、荷車の上で、ふらりとよろめいた。


「わ、わしは……」


かすれた声だった。


「わしは、言われた数字を、言われたとおりに……」


そこまで言って、ゲルトは、はっと口を閉じた。


その目が、一瞬だけ、広場の外れのほうへ泳いだ。


つられて目をやると、広場の外れに、紋のない黒い馬車が一台止まっていた。窓には、厚い帳が下りている。


私が見たのと同時に、馬車は、音もなく動き出した。


「言われた、とは」


広場の入り口から、穏やかな声がした。


灰色の外套の人が、人垣のあいだを歩いてきた。


「誰に言われたのか。その話は、牢でゆっくり聞かせてもらおう」


ユリウス殿下だった。


広場じゅうの人が、一斉に膝をつこうとした。殿下は、困ったように手を振った。


「いいんだ。今日の主役は、私じゃない」


殿下は、荷車の上のゲルトを見上げた。


「ゲルト。偽りの完工届。王家の金の横取り。それから、北区のみなさんに、偽りの貼り紙。陛下のお許しは、今朝のうちにいただいてある。ゲルト商会の御用商会の札は、今日をもって取り上げる。商会の蔵にあるものは、残らず差し押さえて、北区の水路の残りを積む代金に充てる」


ゲルトのまわりの六人の男たちが、顔を見合わせた。一人が、そろそろとあとずさった。二人目が続いた。


気がつくと、荷車のまわりには、もう誰もいなかった。


ゲルトは、荷車から飛び降りて、人垣の隙間へ駆けこもうとした。


その前に、桶屋の前掛けをつけた女の人が、両手を広げて立ちはだかった。


ベルタさんだった。


「どこへ行くんだい」


ベルタさんのうしろで、北区の人たちが、肩を並べて道をふさいだ。麦わらを背負った人。赤ん坊を抱いた人。杖をついた老人。


「あんたが説明するって言うから、みんな仕事を休んで来たんだ。最後まで、聞かせてもらうよ」


ゲルトは、その場にへたりこんだ。


衛兵が、両腕を取った。


*


ゲルトが連れていかれたあとの広場は、しんと静まり返っていた。


私は、帳面を胸に抱えたまま、立っていた。


何か言わなければ、と思った。でも、何を言えばいいのか、分からなかった。三年間、殿下の名前の陰にいた人間が、今さら北区の人たちに何を。


人垣の中から、一人の男の人が、前に出てきた。


日に焼けた、麦わら帽子の人だった。懐から、四つ折りの紙を取り出して、広げた。


見覚えのある便箋だった。


『どういたしまして。

水路は、必ず最後まで通します。それまで、井戸の水は一度沸かしてから飲んでください。

リゼット・オルフェ』


私の字だった。


あの夜、北区の箱の手紙に、初めて自分の名前で書いた返事。


「一昨日、届いたんだ」


男の人は、便箋を、広場じゅうに見えるように掲げた。


「ずっと前に出した礼状の、返事だ。字が読めねえ女房に、何べんも読んでやった。……今朝、あの貼り紙を見たとき、俺は、あんたを疑った。すまねえ」


男の人の隣で、もう一人が、同じ便箋を取り出した。その隣でも。そのまた隣でも。


七枚の便箋が、広場の上に、白く掲げられた。


ベルタさんが、前掛けで目元を拭きながら、私の前に立った。


「必ず最後まで通すって、自分の名前で書いてくれた人を、疑っちまった。ごめんよ、お嬢様」


私は、首を振った。


声が、出なかった。


ベルタさんが、ゆっくりと、両手を胸の前に上げた。


パン、と、一つ。


麦わら帽子の男の人が、便箋を握ったまま、手を叩いた。杖の老人が、杖を脇に挟んで、手を叩いた。赤ん坊を抱いた女の人が、赤ん坊を揺すりながら、片手で膝を叩いた。


一人、二人、十人、百人。


北区の広場が、拍手で埋まった。


あの夜会の拍手は、ミナが前もって決めておいた合図から始まった。


今日の拍手は、誰が決めたものでもなかった。


私は、帳面を抱きしめた。ルークが三年かけて拾い集めた紙が、腕の中でかさりと鳴った。


涙で、広場の人たちの顔が、よく見えなかった。


隣に、大きな影が立った。


団長は何も言わずに、私の半歩うしろから、隣へ一歩出てきた。そして、私と同じ方向を向いて、広場の人たちに、深く頭を下げた。


それから、私にだけ聞こえる声で言った。


「顔を、上げてください」


私は、顔を上げた。


「あなたの名前に、拍手が来ています」


*


拍手が鳴りやむころ、殿下が私の隣に来た。


「水路の残りは、すぐに積ませるよ。ゲルトの蔵の金で、石も職人も、明日には手配できる」


殿下は、北のほうを見た。


「冬が来る前に、川まで通そう。今度は、あなたの名前で」


けれど、その日の夕方。


屋敷に戻った私のもとへ、殿下の使いが駆けこんできた。


「王都の石材商が、そろって、北区の工事には石を一つも売らないと申しております。石切り場にも、職人の組合にも、同じ知らせが回っております」


使いは、息を切らしながら、最後に付け足した。


「どこの商会も、理由は申しません。ただ、『上からの話だ』とだけ」

ゲルト。ゲルト商会の会頭。説明すると言って人を集めたのは、自分だった。

次回、修道領の朝。

返事 15/342通


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