第7話 白い花の返事
淡い色の外套の裾が、夕方の風に揺れていた。
クララは白い花を胸の前に掲げたまま、それ以上は近づいてこなかった。私も、動けなかった。
挨拶を返してもらえなくなってから、三年。夜会の晩に、あれはわざとだったと聞いた。白い花も、クララだったと聞いた。それでも、こうして門の前で向かい合うと、何から言えばいいのか分からなかった。
先に動いたのは、団長だった。
私の半歩後ろから、黙って、もう一歩下がった。
「私は、門におります」
それだけ言って、いつもの場所に立った。
クララが、ふっと笑った。
「気の利く護衛さんね」
「……ええ」
「上がっても、いい?」
*
自室に入ると、クララは机の上の箱を見回した。北区、東門、孤児院。町の名前を書いた紙が、箱の一つ一つに貼ってある。
「これが、三百四十二通」
「ええ。まだ、十通しか返せていないの」
「三年分を、四日で十通。リゼットらしいわ」
クララは、白い花を私に差し出した。茎に、小さな紙が結んであった。
『リゼットへ クララ』
「誕生日でもないのに、ごめんなさい。でも今年は、名前を書いて渡したかったの」
私は花を受け取って、それから、机の引き出しを開けた。日記を取り出して、頁をめくる。
三年分の、押し花。
すっかり色の褪せた白い花が三輪、それぞれの誕生日の頁に挟んであった。どの頁にも、同じことを書いていた。
『今年も、誰かが覚えていてくれた』
クララが、息をのんだ。
「……取っておいて、くれたの」
「毎年、お礼を言いたかったの。誰に言えばいいのか、分からなかっただけ」
三年間、宛名のなかった言葉がある。今なら、宛名が分かる。
「ありがとう、クララ」
クララの目から、ぽろりと涙が落ちた。それから、顔をくしゃくしゃにして、笑った。
「どういたしまして」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が、じんと熱くなった。
──ああ、そうか。
ドーラさんも、ベルタさんも、マルタさんも、トムも。私が「どういたしまして」と言ったとき、こんな気持ちになっていたのだ。届いた、と。三年前に出した手紙が、やっと相手の手に届いた、と。
言われる側に回って、初めて分かった。
「私ね、ずっと怖かったの。どういたしまして、って言うのが。偉そうに聞こえる気がして」
「偉そうになんて、聞こえないわ」
クララは、涙を拭きもしないで、私の手を握った。
「受け取ったよ、って聞こえるの。それだけで、三年待った甲斐があったの」
二人で、しばらく何も言わずに泣いた。三年分なのだから、少し長くかかった。
*
涙が落ち着いたころ、私は灰熱病の冬の箱から、一通を抜き出した。
「クララ。この中に、あなたのお母様からのお手紙があったの」
「お母様が? ……書いていたなんて、知らなかった」
ベルモント子爵夫人の手紙は、上品な細い字で書かれていた。あの冬、熱で三日、意識が戻らなかったこと。家の者が隔離の決まりを守ったおかげで、娘にはうつらず、自分も戻ってこられたこと。
最後に、一行だけ添えてあった。
『娘とあなたが、昔のように笑い合える日が来ますように』
「……お母様ったら」
クララは、また少し泣いた。
「この手紙にだけ、まだ返事が書けなかったの。何て書けばいいのか、分からなくて」
「じゃあ、今夜なら書けるわね」
クララは、手紙をそっと私に返した。それから、顔つきを変えた。
「今日来たのは、それだけじゃないの。ゲルト商会の番頭が捕まった話、父から聞いたわ。北区の水路のお金が、半分消えていたって」
「ええ。千二百枚近く」
「その千二百枚、たぶん、追えるの」
クララは、膝の上で指を組んだ。
「父が、王都の両替所の監督官なのは知ってるでしょう。会計院は、大きなお金を金貨のまま運んだりしないの。両替所に預けて、受け取る商会の口座に書き移す。商会は、そこから要る分だけ引き出す。いつ、誰が、いくら。全部、両替所の帳簿に残るわ」
それから、少しだけ目を伏せた。
「この三年、父の帳簿をずっと手伝ってきたの。あなたに話しかけられないあいだ、ほかに、することがなかったから」
「それで、今日の昼に、ゲルト商会の口座を見たの。おかしなところがあった。でも両替所の帳簿は、持ち主の許しか、王家のお達しがないと、人には見せられない決まりなの。娘の私でも」
「どこが、おかしかったの」
「引き出し方」
クララは、まっすぐ私を見た。
「金貨で、いっぺんに引き出してるの。何百枚も。……現金で持ち出すのは、行き先を帳簿に残したくない人だけよ」
*
門まで降りていくと、団長はすぐにこちらを向いた。
「明日、王都の両替所の帳簿を見たいんです。ユリウス殿下のお達しが要ります」
「今夜のうちに、いただいてきます」
「こんな時間に、王宮へ?」
「殿下は、まだ会計院におられるはずです。番頭の件から毎晩遅くまで帳簿を見ておられると、副団長から聞いています」
それから団長は、一拍置いた。
「それに、あなたは今夜のうちに知りたいという顔をしておられます」
「……そんな顔、していますか」
「しています」
真顔で言われた。
団長が門を離れて、夜の道を王宮のほうへ歩いていく。この人が、私の休む前に門を離れるのは、護衛になってから初めてだった。
自室に戻ると、クララが窓辺で、にやにやしながら私を見ていた。
「ねえ、リゼット。あの方、毎日あそこに立ってるの?」
「朝、私が出かける前から、夜、私が休むまで」
「……それ、護衛のお仕事の範囲かしら」
「護衛ですので、って言うのよ。いつも」
クララは、なぜか両手で顔を覆って、声を殺して笑った。
*
翌朝、門の前の団長は、一枚の紙を持っていた。
王太子の印と、穏やかな字。『王都両替所の帳簿の閲覧を許す ユリウス』。
「夜中に、すみませんでした」
「殿下は、まだ会計院におられました。フェリクス殿と、お二人で」
それから団長は、思い出したように付け足した。
「孤児院の屋根に、今朝、油布を張り終えたそうです。夜明けに、部下を三人やりました。梯子は、トムが押さえたと」
「トムが」
「押さえ方が、昨日よりうまくなっていたそうです」
坂の上で、背筋を伸ばして梯子をつかむ黒い髪の子が、目に浮かんだ。
*
王都の両替所は、商人街の真ん中に建つ、窓の小さな石造りの建物だった。
扉の前で、クララが待っていた。その後ろに、白髪まじりの痩せた男性が立っていた。ベルモント子爵。クララの父君だ。
子爵は、団長の差し出したお達しを黙って読み、それから、私の顔をしばらく見た。
「あなたが、リゼット嬢か」
「はい」
「……妻が、世話になった」
それだけ言うと、子爵は窓口の係を呼んで、短く命じた。
「ゲルト商会の口座を、今すぐ止めておけ。私が許すまで、銅貨一枚も出すな」
それから、私たちを奥の部屋へ通した。
机の上に、分厚い帳簿が開かれていた。クララが、ゲルト商会の頁を指でたどる。
『去年秋 会計院より受け入れ 北区水路後半工事代金 金貨二千四百枚』
その三日後の行。
『引き出し 金貨千百七十六枚 現金にて 受け取り ゲルト商会会頭 名代』
私は、その数字を見つめた。
千百七十六。
頭の中で、図面が開く。後半の工事は、千二百歩。団長が数えた、本当に積まれていた長さは、六百十二歩。
「……積まなかったのは、五百八十八歩です」
声が、勝手に出ていた。
「一歩につき、金貨二枚。五百八十八歩で、千百七十六枚。積まなかった分の代金と、ぴったり同じです」
子爵が、眉を動かした。
「ぴったり、だと」
「工事が途中で止まったんじゃありません。お金を受け取って三日で、作らない分だけを、先に抜いていたんです。初めから、半分しか作るつもりがなかった」
クララが、頁をめくった。
「残りは秋のあいだに、石工の組合や石切り場へ、少しずつ払われてるの。積んだ分の仕事には、ちゃんと払ってる。だから半分は、本物の水路になったのね」
それから、もう一枚めくった。
『二年前秋 会計院より受け入れ 孤児院屋根葺き替え代金 金貨三百枚』
『翌日 引き出し 金貨三百枚 現金にて 受け取り ゲルト商会会頭 名代』
「こっちは、全部よ。瓦屋にも、大工にも、一枚も払われてない」
翌日に、全部。
二年前の秋。マルタさんが、縄で屋根の寸法を測る男を見送った、あの秋だ。お金は、受け取った次の日には、もうどこにもなかったのだ。
あの冬も、その次の冬も。私が暗い大部屋でバケツを並べていた夜、このお金は、とっくに消えていた。
ぎり、と小さな音がした。
隣を見ると、団長の手が、剣の柄を握りしめていた。指の節が、白くなっていた。
「団長」
「……失礼しました」
団長は、ゆっくりと手を離した。けれど、その目は、帳簿の『翌日』の二文字から動かなかった。
*
「行き先は、分かりますか」
私が聞くと、子爵は黙って立ち上がり、棚から薄い綴りを一冊持ってきた。
「金貨を百枚より多く持ち出すときは、両替所の馬車と護衛をつける決まりだ。盗賊に襲われたら、両替所の信用に関わる。行き先は、御者の日誌に残す」
子爵が開いた頁に、去年の秋と、二年前の日付が並んでいた。
どちらの行き先も、同じだった。
『西区 運河沿い 第七倉庫』
「同じ場所……」
「倉庫までなら、知られても困らないと思ったんでしょうね」
クララが、日誌の文字を指でなぞった。
「そこから先は、帳簿のない世界だから」
そのとき、表の扉が乱暴に開く音がした。
「ゲルト商会の者だ! 口座の残りを、全部、金貨で出してもらいたい!」
若い男の声だった。息が上がっている。番頭が捕まって二日。会頭は、金を手元に移しておきたくなったのだろう。
子爵は、ゆっくりと部屋を出ていった。私たちも、後に続いた。
カウンターの前で、汗だくの若い男が、商会の印を握りしめていた。子爵は、その印を一瞥しただけで言った。
「ゲルト商会の口座は、止めてある」
「と、止めた? そんな勝手な」
「先ほど、王太子殿下のお達しを読んだうえでの、私の判断だ。王家の金を扱う口座に、偽りの疑いがある。止める権限は、監督官にある」
男の顔が、引きつった。
「か、会頭が、黙っておりませんよ」
「でしたら」
私は、一歩前に出た。
「会頭さんに、お伝えください。北区の水路の、積まなかった五百八十八歩の分。孤児院の屋根の、三百枚。いつ、いくら引き出したかまで、両替所の帳簿に全部残っています、と」
男が、私の顔を見た。オルフェ家の娘だと、分かったらしい。
「それから、次は、ご自分でいらしてください。私も、自分の名前でお待ちしています」
男は何か言い返そうとして、口を開けたまま後ずさった。そのまま、敷居に踵を引っかけて、派手に尻もちをついた。
起き上がるなり、印を握ったまま、通りへ走り去っていった。
クララが、小さく呟いた。
「転んだわ」
「転んだわね」
*
帰りぎわ、両替所の戸口で、子爵が私を呼び止めた。
「リゼット嬢」
子爵は、背筋を伸ばしたまま、深く頭を下げた。
「妻の命の礼を、三年、言えずにいた。……ありがとう」
「どういたしまして」
声は、もう震えなかった。
「奥様にも、今夜、お返事を書きます」
顔を上げた子爵の目元が、クララとよく似ていた。
通りに出ると、クララが、団長のほうへくるりと振り向いた。
「団長様。西区の運河沿いって、どんなところかご存じ?」
「倉庫と、荷揚げ場が並んでいます」
「それは昼の話よ。夕方になると、恋人たちの散歩道になるの。運河に灯りが映って、きれいなんだから」
クララは、団長の黒い騎士服を、上から下まで眺めた。
「そんなところで、騎士団長が騎士服で倉庫を見張っていたら、すぐに気づかれるわ」
「……では、どうすれば」
「普通の服で、二人で歩けばいいのよ。腕でも組んで」
私の足が、止まった。
団長は、しばらく黙っていた。それから、いつもの真顔で頷いた。
「検討します」
検討しないでください、と言おうとして、声が出なかった。クララが、また両手で顔を覆って笑っていた。
商人街の角でクララと別れて、屋敷への道を歩いた。
しばらく黙っていた団長が、前を向いたまま口を開いた。
「リゼット嬢。先ほどの件ですが」
「……腕の話ですか」
「はい。お嫌でしたら、別の手を考えます」
嫌です、と言えばいいだけだった。そう言えば、この人は本当に、別の手を考える。
「……嫌、とは、言っていません」
言ってから、自分が何を言ったのか分かって、顔が熱くなった。
団長は、しばらく黙っていた。
「では、検討を続けます」
いつもと同じ、真顔の声だった。けれど、隣を歩く団長の耳の先は、夕日もないのに赤かった。
*
その夜、私は机に便箋を広げた。
最初に、ベルモント子爵夫人への返事を書いた。
『どういたしまして。
お嬢様と、もう一度笑い合えました。お手紙のおかげです。
リゼット・オルフェ』
それから、灰熱病の冬の箱から、三通。熱の下がった子の話。祖母と一緒に冬を越せた話。隔離の小屋で、毎晩、窓越しに歌を歌ってもらった話。
四通目を書き終えて、ペンを置いた。
机の端には、クララの白い花を、小さな水差しに挿してあった。今度は、押し花にはしないことにした。押し花は、名前の分からない誰かへの「ありがとう」を、しまっておくためのものだった。宛名の分かった花は、毎日見ればいい。
扉が、控えめに叩かれた。
ミナだった。いつもの穏やかな顔ではなかった。
「お嬢様。お休み前に、お耳に入れておきたいことがございます」
「どうしたの」
「先ほど、日が暮れてから、お屋敷の裏口に、古紙を買い取りたいという男が参りました。お手紙を書いておられる最中でしたので、書き終えられるまでお待ちしておりました」
ミナは、机の上の箱にちらりと目をやった。
「このお屋敷には、手紙がたくさんあるだろう、と。束ごと、言い値で買う、と申しました」
「……断ってくれたのね」
「もちろんでございます。そうしましたら、男は帰りぎわに、こう申しました」
ミナは、声を落とした。
「『騎士団の封蝋のついたものが一通でもあれば、それだけでも、金貨で買う』と」
私の手が、机の引き出しに伸びていた。
開けなくても分かる。いちばん奥で、暗い赤の封蝋が、あの夜のまま眠っている。
三百四十二通を、欲しがっている人がいる。
そして、その人は、最後の一通のことまで知っている。
クララ(20)。リゼットの友人。三年分の白い花の差出人。帳簿を読むのが、たぶん王都でいちばん速い。
次回、団長、それはデートです。
返事 14/342通
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