↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
6/10

第6話 ベールを外して

鏡の中の私は、今朝も愛想のない顔をしていた。


ベールは、衣装箱の上に畳んで置いてある。三年間、月に一度、夜の孤児院へ行くときにだけかぶってきた、灰色の薄い布だ。


「お嬢様。本当に、かぶっていかれないのですか」


ミナが、私の髪にピンを留めながら聞いた。


「ええ。もう、隠す理由がないもの」

「……そうでございますね」


そう答えてから、私は鏡に向かって、口元をゆるめてみた。


ミナの手が、ぴたりと止まった。


「お嬢様。それは、どなたかを脅していらっしゃるお顔です」

「……やっぱり」


ミナは小さく笑って、最後のピンを留めた。


「無理に笑わなくてよろしいのです。子どもたちが覚えているのは、お嬢様のお顔ではなく、三年分のパンですから」


今朝いちばんに、ミナに頼んで、孤児院へ使いを出してもらっていた。今日の昼に伺います、と。


夜ではなく、昼に。


*


東門のパン屋で、籠いっぱいにパンを買った。


ドーラさんは、代金を受け取ろうとしなかった。押し問答の末に、半分だけ受け取ってもらえた。


「毎月の粉とは別だよ。子どもたちに、焼きたてを食べさせてやんな」


籠は、団長が持った。黒い騎士服の大男が、パンの籠を両腕で抱えて歩く。すれ違う人が、二度見していった。


「重くありませんか」

「剣より軽いです」

「……落とさないでくださいね」

「落としません」


孤児院は、王都の外れの、坂の上にあった。


昼間に来るのは、初めてだった。


夜にしか見たことのなかった建物は、思っていたよりずっと古かった。壁の漆喰はところどころ剥がれ、屋根の瓦は何枚も欠けて、欠けたところに板が打ちつけてある。板の上には、風で飛ばないように、重しの石が載っていた。


裏庭では、子どもたちが洗濯物を干していた。


一人が、門の前の私たちに気づいた。それから、隣の子の袖を引いた。


次の瞬間、子どもたちは蜘蛛の子を散らすように、建物の陰へ逃げこんだ。洗濯ばさみが一つ、地面に転がった。


私の顔を、見たからではなかった。


全員の目が、私の後ろの、黒い騎士服の大男に向いていた。


団長は、パンの籠を抱えたまま、門の前で立ちつくした。


「……私の顔は、そんなに怖いですか」

「少しだけ」


昨日と同じ答えを、返してしまった。


団長は真顔のまま、籠を低く持ち直した。持ち直したところで、背の高さは変わらなかった。


*


戸口に出てきたのは、杖をついた灰色の修道服の院長、マルタさんだった。


「まあ、リゼット様。……ここで、そのお顔を拝見する日が来るとは」


マルタさんは、目尻のしわを深くした。


「子どもたちは、どこへ」

「隠れております。騎士様が、怖いのでしょう。……でも、すぐに出てまいりますよ」


マルタさんは、杖の先で、建物の角を指した。


角の陰から、小さな頭が三つ、こちらを覗いていた。目が合うと、引っこんだ。また、覗いた。


「ベールのお姉さんが昼間に来ると聞いて、みんな朝からそわそわしておりました。ただ、お顔を知らないものですから」


いちばん小さな女の子が、角の陰から、とことこと出てきた。


ロッテ。五つになったばかりの子だ。私の前まで来て、首をかしげて、私の顔をじっと見上げた。


私は、どんな顔をすればいいのか分からなかった。笑おうとすれば、脅しているような顔になる。


だから、いつもの夜と同じように、膝を折って、目の高さを合わせた。


「こんにちは、ロッテ」


名前を呼ぶと、ロッテの目がまんまるになった。


「……こえが、おなじ」


ロッテは、私の手を取って、ぎゅっと握った。少し考えてから、こくんと頷いた。


「おててのかたちも、おなじ」


それから、角の陰に向かって、大きな声で叫んだ。


「ベールのおねえさんだよ!」


子どもたちが、わっと飛び出してきた。


あっという間に、私の周りに輪ができた。


「ほんとに?」

「顔、ふつうじゃん」

「もっとこわい顔かとおもった」

「なんでベールしてたの?」


最後の質問をしたのは、九つのハンナだった。私は、一瞬迷ってから、正直に答えた。


「顔を見せたら、嫌われると思っていたの」


ハンナは、きょとんとした。


「なんで? おねえさん、パンくれるのに」


子どもたちが、そうだそうだと頷いた。それが、この子たちにとっての、いちばんの理屈らしかった。


私は、何も言えなかった。三年かけても解けなかった問いを、九つの子が、一行で解いてしまった。


ふと気づくと、子どもたちの輪は、団長が立っている側だけ、きれいに欠けていた。


*


輪の外に、一人だけ、動かない男の子がいた。


痩せた、黒い髪の子だった。年は十二。ほかの子より頭ひとつ背が高い。その子は、私ではなく、団長を見ていた。


団長も、その子を見ていた。


二人とも、何も言わなかった。周りの子どもたちが、なぜか息を止めた。


「……騎士団長、ですか」


先に口を開いたのは、男の子のほうだった。


「そうだ」

「ほんものの」

「本物だ」


男の子は、ぎゅっと拳を握った。


「騎士って、どうやったら、なれますか」


団長は、少し考えた。


「毎朝、走れ」

「走ってます。毎朝、坂の下まで」

「なら、半分は来ている」


男の子の耳が、みるみる赤くなった。


私は、鞄から、色褪せた紙を一枚取り出した。


「トム」


名前を呼ぶと、トムはようやく私のほうを向いた。そして、私の手の中の紙を見て、さらに赤くなった。


「それ、ちっちゃいころ書いたやつ」

「届いたわ」

「字、へたでしょ」

「とても上手よ。ちゃんと読めたもの」


トムはしばらく、足元の地面を見ていた。それから、顔を上げた。


「……パン、ありがとう」


ずっと前に紙に書いた言葉を、もう一度、自分の口で。


「どういたしまして」


今度は、声が小さくならなかった。


トムは、もう一度私の顔をまじまじと見て、小さく呟いた。


「ベールの人、ほんとに、リゼット様だったんだ」


*


マルタさんに案内されて、子どもたちが眠る大部屋に入った。


天井を見上げると、板の継ぎ目から、細い光が何本も差しこんでいた。昼間に見ると、よく分かる。あの光の数だけ、雨の夜には水が落ちてくるのだ。床には、大小のバケツと鍋が並べたままになっていて、その下の板は、黒く染みになっていた。


「二年前の秋に、商会の方がお見えになりました」


マルタさんが、杖に両手を重ねて言った。


「茶色の上着の方でした。縄で屋根の寸法を測って、何か書きつけて。『王子殿下のお計らいで、冬が来る前に葺き替えます』と。……それきりです」

「それきり」

「殿下のお名前でしたから、催促するのも、はばかられまして。そのうちに、と思っているうちに、二年が過ぎました」


茶色の上着。昨日、衛兵に連れていかれた男の背中が浮かんだ。


「マルタさん。この屋根には、金貨三百枚が払われています。二年前に、全額」


マルタさんの杖の先が、床の上で、かたりと鳴った。


「……三百枚」


私は、床のバケツを見下ろした。


雨の夜に来たときは、ここにバケツを並べるのが私の仕事だった。どこに水が落ちるのか。どのバケツをどこに置けば、子どもたちの寝床が濡れないのか。三年で、すっかり覚えてしまった。小さい子たちを奥の部屋へ運んで、濡れた毛布を絞って、水の音が弱まるまで、暗い部屋で座っていた夜もある。


屋根を直すお金がないのだと思っていた。いつか、殿下の名前でもいいから、誰かが直してくれればいいと。


お金は、二年前に払われていた。


あの夜の水の音の分だけ、誰かの懐に消えていた。


私は、三年かけて、バケツの並べ方ばかり上手くなっていたのだ。


指先が、冷たくなった。


「直します。今度は、私の名前で」


言ってから、自分の声に驚いた。一昨日、ユリウス殿下に言われた言葉が、いつの間にか、私の口から出ていた。


「屋根を、見てもよろしいですか」


団長が言った。


マルタさんが頷くと、団長は裏庭に出て、壁に立てかけてあった梯子を、軽々と軒にかけた。そして、振り返って言った。


「誰か、下を押さえてくれ」


子どもたちが、さっと私の後ろに隠れた。


一人だけ、前に出た子がいた。


トムだった。黙って梯子の足を両手でつかみ、体重をかけた。


「梯子を押さえるのは、大事な仕事だ。上の者の命を預かる」

「……はい」


団長は、トムが押さえた梯子を登っていった。


屋根の上を、瓦を割らないように、そっと歩く音がした。しばらくして、団長が軒から顔を出した。


「葺き替えた跡は、一枚もありません。瓦を何枚かめくってみましたが、下の板が、何か所か腐りかけています。次の大雨には、持たないかもしれません」

「冬までに、直さないと」

「はい。騎士団の倉庫に、野営用の油布があります。明日、運ばせます。本当の葺き替えまでの、つなぎに」


梯子を降りてきた団長に、トムが、おずおずと聞いた。


「団長さん。あの、屋根の上って、どんな」

「王都が、全部見える」


トムの顔が、ぱっと明るくなった。


ほかの子どもたちは、まだ私の後ろに隠れたままだった。


*


パンを配り終えると、子どもたちは、私を離さなかった。


ロッテは私の膝の上に座りこみ、ハンナは私の髪をいじり、男の子たちは庭の隅で棒切れを振り回して、騎士ごっこを始めた。トムだけは、団長の剣の柄を、少し離れたところからじっと見ていた。


「おねえさん、わらって」


膝の上から、ロッテが言った。


「……笑うのは、苦手なの」

「なんで?」

「上手にできないの」


ロッテは、私の両方のほっぺたを、小さな指でつまんで、横に引っぱった。


「こう!」


庭の隅の男の子たちが、それを見て、一斉に変な顔をしてみせた。寄り目をする子。鼻の穴を広げる子。舌を出して、白目をむく子。


一人が、変な顔のまま、勢いよく転んだ。


こらえようとした。こらえきれなかった。


気がつくと、私は声を上げて笑っていた。


「わらった!」


ロッテが手を叩いた。子どもたちが、わっと歓声を上げた。


笑いながら、顔を上げると、少し離れたところに、団長が立っていた。


こちらを見ていた。


いつもの真顔ではなかった、と思う。けれど、私と目が合うと、団長はすぐに、空の雲のほうを向いてしまった。


*


日が傾きかけたころ、戸口でマルタさんに頭を下げた。


「マルタさんのお手紙も、届きました」


トムの手紙は、夜会の晩にマルタさんが直接渡してくれた束の一通で、三百四十二通には入っていない。けれど、三百四十二通の束の中にも、マルタさんの手紙が一通あった。毎月のパンと薬への礼。子どもたちが、一人も冬に欠けなかったこと。


マルタさんは、皺の深い手で、私の手を包んだ。


「ありがとうございました、リゼット様。三年分」

「どういたしまして」


マルタさんは、しばらく私の手を離さなかった。


「三年、お待ちしておりました。……この言葉を、あなたの口から聞く日を」


坂の上で、子どもたちがいつまでも手を振っていた。トムだけは手を振らずに、まっすぐ背筋を伸ばして立っていた。たぶん、騎士の見送りのつもりなのだと思う。


*


坂を下りながら、団長がぽつりと言った。


「一人にも、懐かれませんでした」

「トムは?」

「あれは、騎士に懐いているだけです」

「団長も、騎士ですよ」


団長は、何も言わなかった。耳の先が、少しだけ赤かった。


坂の途中で、団長がもう一度、口を開いた。


「……笑っておられましたね」

「見ていたんですか」

「護衛ですので」


パン屋を出たときにも、同じことを言われた。


「声を上げて笑うところは、初めて見ました」


私は、何と答えればいいのか分からなくて、前を向いた。坂の下に、王都の屋根が夕日に染まって並んでいた。あの屋根のどれかの下で、今夜も誰かが、私の手紙を待っている。


屋敷の門が見えてきた。


いつもなら団長が立っている門の前に、今日は、別の人が立っていた。


淡い色の外套。手に、白い花を一輪。


クララだった。


私に気づくと、クララは白い花を胸の前に掲げて、困ったように笑った。


「三年分の返事を、もらいに来たの」


それから、声を落とした。


「それと、ゲルト商会の話、聞いたわ。……帳簿なら、私、読めるの」

トム(12)。孤児院の子。字はまだ練習中。梯子を押さえるのは、もう一人前。

次回、白い花の返事。

返事 10/342通


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。