第6話 ベールを外して
鏡の中の私は、今朝も愛想のない顔をしていた。
ベールは、衣装箱の上に畳んで置いてある。三年間、月に一度、夜の孤児院へ行くときにだけかぶってきた、灰色の薄い布だ。
「お嬢様。本当に、かぶっていかれないのですか」
ミナが、私の髪にピンを留めながら聞いた。
「ええ。もう、隠す理由がないもの」
「……そうでございますね」
そう答えてから、私は鏡に向かって、口元をゆるめてみた。
ミナの手が、ぴたりと止まった。
「お嬢様。それは、どなたかを脅していらっしゃるお顔です」
「……やっぱり」
ミナは小さく笑って、最後のピンを留めた。
「無理に笑わなくてよろしいのです。子どもたちが覚えているのは、お嬢様のお顔ではなく、三年分のパンですから」
今朝いちばんに、ミナに頼んで、孤児院へ使いを出してもらっていた。今日の昼に伺います、と。
夜ではなく、昼に。
*
東門のパン屋で、籠いっぱいにパンを買った。
ドーラさんは、代金を受け取ろうとしなかった。押し問答の末に、半分だけ受け取ってもらえた。
「毎月の粉とは別だよ。子どもたちに、焼きたてを食べさせてやんな」
籠は、団長が持った。黒い騎士服の大男が、パンの籠を両腕で抱えて歩く。すれ違う人が、二度見していった。
「重くありませんか」
「剣より軽いです」
「……落とさないでくださいね」
「落としません」
孤児院は、王都の外れの、坂の上にあった。
昼間に来るのは、初めてだった。
夜にしか見たことのなかった建物は、思っていたよりずっと古かった。壁の漆喰はところどころ剥がれ、屋根の瓦は何枚も欠けて、欠けたところに板が打ちつけてある。板の上には、風で飛ばないように、重しの石が載っていた。
裏庭では、子どもたちが洗濯物を干していた。
一人が、門の前の私たちに気づいた。それから、隣の子の袖を引いた。
次の瞬間、子どもたちは蜘蛛の子を散らすように、建物の陰へ逃げこんだ。洗濯ばさみが一つ、地面に転がった。
私の顔を、見たからではなかった。
全員の目が、私の後ろの、黒い騎士服の大男に向いていた。
団長は、パンの籠を抱えたまま、門の前で立ちつくした。
「……私の顔は、そんなに怖いですか」
「少しだけ」
昨日と同じ答えを、返してしまった。
団長は真顔のまま、籠を低く持ち直した。持ち直したところで、背の高さは変わらなかった。
*
戸口に出てきたのは、杖をついた灰色の修道服の院長、マルタさんだった。
「まあ、リゼット様。……ここで、そのお顔を拝見する日が来るとは」
マルタさんは、目尻のしわを深くした。
「子どもたちは、どこへ」
「隠れております。騎士様が、怖いのでしょう。……でも、すぐに出てまいりますよ」
マルタさんは、杖の先で、建物の角を指した。
角の陰から、小さな頭が三つ、こちらを覗いていた。目が合うと、引っこんだ。また、覗いた。
「ベールのお姉さんが昼間に来ると聞いて、みんな朝からそわそわしておりました。ただ、お顔を知らないものですから」
いちばん小さな女の子が、角の陰から、とことこと出てきた。
ロッテ。五つになったばかりの子だ。私の前まで来て、首をかしげて、私の顔をじっと見上げた。
私は、どんな顔をすればいいのか分からなかった。笑おうとすれば、脅しているような顔になる。
だから、いつもの夜と同じように、膝を折って、目の高さを合わせた。
「こんにちは、ロッテ」
名前を呼ぶと、ロッテの目がまんまるになった。
「……こえが、おなじ」
ロッテは、私の手を取って、ぎゅっと握った。少し考えてから、こくんと頷いた。
「おててのかたちも、おなじ」
それから、角の陰に向かって、大きな声で叫んだ。
「ベールのおねえさんだよ!」
子どもたちが、わっと飛び出してきた。
あっという間に、私の周りに輪ができた。
「ほんとに?」
「顔、ふつうじゃん」
「もっとこわい顔かとおもった」
「なんでベールしてたの?」
最後の質問をしたのは、九つのハンナだった。私は、一瞬迷ってから、正直に答えた。
「顔を見せたら、嫌われると思っていたの」
ハンナは、きょとんとした。
「なんで? おねえさん、パンくれるのに」
子どもたちが、そうだそうだと頷いた。それが、この子たちにとっての、いちばんの理屈らしかった。
私は、何も言えなかった。三年かけても解けなかった問いを、九つの子が、一行で解いてしまった。
ふと気づくと、子どもたちの輪は、団長が立っている側だけ、きれいに欠けていた。
*
輪の外に、一人だけ、動かない男の子がいた。
痩せた、黒い髪の子だった。年は十二。ほかの子より頭ひとつ背が高い。その子は、私ではなく、団長を見ていた。
団長も、その子を見ていた。
二人とも、何も言わなかった。周りの子どもたちが、なぜか息を止めた。
「……騎士団長、ですか」
先に口を開いたのは、男の子のほうだった。
「そうだ」
「ほんものの」
「本物だ」
男の子は、ぎゅっと拳を握った。
「騎士って、どうやったら、なれますか」
団長は、少し考えた。
「毎朝、走れ」
「走ってます。毎朝、坂の下まで」
「なら、半分は来ている」
男の子の耳が、みるみる赤くなった。
私は、鞄から、色褪せた紙を一枚取り出した。
「トム」
名前を呼ぶと、トムはようやく私のほうを向いた。そして、私の手の中の紙を見て、さらに赤くなった。
「それ、ちっちゃいころ書いたやつ」
「届いたわ」
「字、へたでしょ」
「とても上手よ。ちゃんと読めたもの」
トムはしばらく、足元の地面を見ていた。それから、顔を上げた。
「……パン、ありがとう」
ずっと前に紙に書いた言葉を、もう一度、自分の口で。
「どういたしまして」
今度は、声が小さくならなかった。
トムは、もう一度私の顔をまじまじと見て、小さく呟いた。
「ベールの人、ほんとに、リゼット様だったんだ」
*
マルタさんに案内されて、子どもたちが眠る大部屋に入った。
天井を見上げると、板の継ぎ目から、細い光が何本も差しこんでいた。昼間に見ると、よく分かる。あの光の数だけ、雨の夜には水が落ちてくるのだ。床には、大小のバケツと鍋が並べたままになっていて、その下の板は、黒く染みになっていた。
「二年前の秋に、商会の方がお見えになりました」
マルタさんが、杖に両手を重ねて言った。
「茶色の上着の方でした。縄で屋根の寸法を測って、何か書きつけて。『王子殿下のお計らいで、冬が来る前に葺き替えます』と。……それきりです」
「それきり」
「殿下のお名前でしたから、催促するのも、はばかられまして。そのうちに、と思っているうちに、二年が過ぎました」
茶色の上着。昨日、衛兵に連れていかれた男の背中が浮かんだ。
「マルタさん。この屋根には、金貨三百枚が払われています。二年前に、全額」
マルタさんの杖の先が、床の上で、かたりと鳴った。
「……三百枚」
私は、床のバケツを見下ろした。
雨の夜に来たときは、ここにバケツを並べるのが私の仕事だった。どこに水が落ちるのか。どのバケツをどこに置けば、子どもたちの寝床が濡れないのか。三年で、すっかり覚えてしまった。小さい子たちを奥の部屋へ運んで、濡れた毛布を絞って、水の音が弱まるまで、暗い部屋で座っていた夜もある。
屋根を直すお金がないのだと思っていた。いつか、殿下の名前でもいいから、誰かが直してくれればいいと。
お金は、二年前に払われていた。
あの夜の水の音の分だけ、誰かの懐に消えていた。
私は、三年かけて、バケツの並べ方ばかり上手くなっていたのだ。
指先が、冷たくなった。
「直します。今度は、私の名前で」
言ってから、自分の声に驚いた。一昨日、ユリウス殿下に言われた言葉が、いつの間にか、私の口から出ていた。
「屋根を、見てもよろしいですか」
団長が言った。
マルタさんが頷くと、団長は裏庭に出て、壁に立てかけてあった梯子を、軽々と軒にかけた。そして、振り返って言った。
「誰か、下を押さえてくれ」
子どもたちが、さっと私の後ろに隠れた。
一人だけ、前に出た子がいた。
トムだった。黙って梯子の足を両手でつかみ、体重をかけた。
「梯子を押さえるのは、大事な仕事だ。上の者の命を預かる」
「……はい」
団長は、トムが押さえた梯子を登っていった。
屋根の上を、瓦を割らないように、そっと歩く音がした。しばらくして、団長が軒から顔を出した。
「葺き替えた跡は、一枚もありません。瓦を何枚かめくってみましたが、下の板が、何か所か腐りかけています。次の大雨には、持たないかもしれません」
「冬までに、直さないと」
「はい。騎士団の倉庫に、野営用の油布があります。明日、運ばせます。本当の葺き替えまでの、つなぎに」
梯子を降りてきた団長に、トムが、おずおずと聞いた。
「団長さん。あの、屋根の上って、どんな」
「王都が、全部見える」
トムの顔が、ぱっと明るくなった。
ほかの子どもたちは、まだ私の後ろに隠れたままだった。
*
パンを配り終えると、子どもたちは、私を離さなかった。
ロッテは私の膝の上に座りこみ、ハンナは私の髪をいじり、男の子たちは庭の隅で棒切れを振り回して、騎士ごっこを始めた。トムだけは、団長の剣の柄を、少し離れたところからじっと見ていた。
「おねえさん、わらって」
膝の上から、ロッテが言った。
「……笑うのは、苦手なの」
「なんで?」
「上手にできないの」
ロッテは、私の両方のほっぺたを、小さな指でつまんで、横に引っぱった。
「こう!」
庭の隅の男の子たちが、それを見て、一斉に変な顔をしてみせた。寄り目をする子。鼻の穴を広げる子。舌を出して、白目をむく子。
一人が、変な顔のまま、勢いよく転んだ。
こらえようとした。こらえきれなかった。
気がつくと、私は声を上げて笑っていた。
「わらった!」
ロッテが手を叩いた。子どもたちが、わっと歓声を上げた。
笑いながら、顔を上げると、少し離れたところに、団長が立っていた。
こちらを見ていた。
いつもの真顔ではなかった、と思う。けれど、私と目が合うと、団長はすぐに、空の雲のほうを向いてしまった。
*
日が傾きかけたころ、戸口でマルタさんに頭を下げた。
「マルタさんのお手紙も、届きました」
トムの手紙は、夜会の晩にマルタさんが直接渡してくれた束の一通で、三百四十二通には入っていない。けれど、三百四十二通の束の中にも、マルタさんの手紙が一通あった。毎月のパンと薬への礼。子どもたちが、一人も冬に欠けなかったこと。
マルタさんは、皺の深い手で、私の手を包んだ。
「ありがとうございました、リゼット様。三年分」
「どういたしまして」
マルタさんは、しばらく私の手を離さなかった。
「三年、お待ちしておりました。……この言葉を、あなたの口から聞く日を」
坂の上で、子どもたちがいつまでも手を振っていた。トムだけは手を振らずに、まっすぐ背筋を伸ばして立っていた。たぶん、騎士の見送りのつもりなのだと思う。
*
坂を下りながら、団長がぽつりと言った。
「一人にも、懐かれませんでした」
「トムは?」
「あれは、騎士に懐いているだけです」
「団長も、騎士ですよ」
団長は、何も言わなかった。耳の先が、少しだけ赤かった。
坂の途中で、団長がもう一度、口を開いた。
「……笑っておられましたね」
「見ていたんですか」
「護衛ですので」
パン屋を出たときにも、同じことを言われた。
「声を上げて笑うところは、初めて見ました」
私は、何と答えればいいのか分からなくて、前を向いた。坂の下に、王都の屋根が夕日に染まって並んでいた。あの屋根のどれかの下で、今夜も誰かが、私の手紙を待っている。
屋敷の門が見えてきた。
いつもなら団長が立っている門の前に、今日は、別の人が立っていた。
淡い色の外套。手に、白い花を一輪。
クララだった。
私に気づくと、クララは白い花を胸の前に掲げて、困ったように笑った。
「三年分の返事を、もらいに来たの」
それから、声を落とした。
「それと、ゲルト商会の話、聞いたわ。……帳簿なら、私、読めるの」
トム(12)。孤児院の子。字はまだ練習中。梯子を押さえるのは、もう一人前。
次回、白い花の返事。
返事 10/342通




