第5話 半分の水路
会計院は、王宮の東の棟の、いちばん奥にあった。
朝いちばんに着いたのに、書棚の並ぶ部屋の奥の机には、もう灰色の外套の人が座っていた。
「おはよう、リゼット嬢。団長も」
ユリウス殿下は、今日は帳面ではなく、分厚い台帳を机に広げていた。
「お忍びは、おやめになったのですか」
「ここは王宮の中だからね。忍ぶ場所がない」
殿下は笑って、隣に控えていた白髪の老人を手で示した。
「会計院の書記官、フェリクスだ。四十年、王宮のお金を数えている」
老人は、私に深く頭を下げた。
「なくなった記録のことは、面目ございません。夜会の翌日に、ゲルト商会の番頭が『年の締めに写しを取りたい』と見に来まして。目を離した隙に、束ごと」
「夜会の、翌日」
図面を書いたのが誰だったのか、王都じゅうに知れ渡った日だ。
「ですが、リゼット様」
フェリクスさんは、殿下の前の台帳を指さした。
「商会が持っていったのは、工事の記録です。会計院が金を払った記録は、別の帳面に残しております。出納簿は、この部屋から一歩も出してはならない決まりでございますので」
殿下が、台帳の向きを変えて私のほうへ向けた。
『北区水路 後半工事 町の中央より北の門外の川まで 全長千二百歩
請負 ゲルト商会
代金 金貨二千四百枚 去年秋 全額支払い済み』
全額。
私は、しばらくその行から目を離せなかった。
*
「千二百歩というのは、図面のとおりかな」
殿下に聞かれて、私は頷いた。
「はい。町の真ん中の広場から、北の門の外の川まで。三年前に、私が引いた線です。見積もりも、私が出しました。一歩につき、金貨二枚」
「では、二千四百枚は」
「千二百歩、全部の分です」
問題は、昨日見た水路が、どこで終わっていたかだった。
北の端の、ベルタさんの家の裏。広場からそこまで、どのくらいあっただろう。図面の上なら分かる。けれど、本当に石が積まれた長さは、測ってみなければ分からない。
「六百十二歩です」
後ろで、団長が言った。
私と殿下が、同時に振り返った。
「昨日の帰り道、水路の終わりから広場まで、水路の脇を数えながら歩きました」
「……ずっと、数えていたんですか」
「あなたが、工事にいくら使われたのかと聞かれたので。騎士は、行軍のときに歩数で道のりを測ります。癖です」
団長は、いつもの真顔だった。
夕日の水路の脇を、二人で黙って歩いた、あのとき。この人は、ずっと数えていたのだ。
「でも、団長の一歩は、私の一歩より大きいでしょう」
「はい。ですので昨夜、宿舎の廊下で、自分の歩幅を測り直しました。図面の一歩に直して、六百十二歩です」
殿下が、小さく吹き出した。
「夜中に廊下を往復する団長を見て、部下たちは何事かと思っただろうね」
私は、笑えなかった。
千二百歩の工事に、千二百歩分のお金。
けれど、石が積まれたのは、六百十二歩。
「……半分です」
声が、少し震えた。
「水路は半分しかないのに、お金は全部、払われている」
金貨にして、千二百枚近く。北区の人たちが、雨のたびに濁った水を汲んでいたあいだ、どこかへ消えていた金だ。
*
廊下の向こうから、靴音が近づいてきた。
「これはこれは、殿下。朝からお揃いで」
入ってきたのは、仕立てのいい茶色の上着を着た、四十がらみの男だった。脇に、紐で束ねた書類を抱えている。
「ゲルト商会の番頭、コンラートでございます。お借りしていた記録を昼までに返すようにと、お達しをいただきまして」
殿下が今朝早くに出させた命令らしい。昼までに返さなければ、盗みとして扱う、と。
コンラートは書類の束をフェリクスさんの机に置くと、私に気づいて、目を細めた。
「おや、オルフェ家のお嬢様まで。ご婚約が流れて、お暇を持て余しておられると伺いましたが。今度は、帳簿でお遊びですか」
背中で、団長の気配がすっと冷えた。
けれど、団長は動かなかった。私の半歩後ろに立ったまま、一言も口を開かない。
フェリクスさんが束を持ち上げて、白い眉を寄せた。
「……持ち出す前より、ずいぶん薄うございますな」
「写しを取るのに、少し外しただけですよ。じきにお返しします」
番頭は、笑顔を崩さなかった。
私は、机の上の束に目をやった。
「コンラートさん。北区の水路は、川まで通っていますか」
「もちろんですとも」
番頭は、束の中から一枚を抜き出して、机に広げた。
『完工届 北区水路後半工事 北の門外の川まで千二百歩 落ち口に石の堰を築き 完工 ゲルト商会』
その下に、見慣れた赤い判が押してあった。
レオンハルト殿下の、受け取りの判だった。
あの人は、この紙を読んだのだろうか。判を押す前に、一度でも。
「ご覧のとおり、レオンハルト殿下に検めていただいております。工事は、図面どおり川まで終わっている。北区の井戸が濁るのは、雨が多かったせいでしょう。あの辺りの者は、何でも大げさに言いますからな」
私は、完工届から顔を上げた。
「昨日、北区へ行ってきました。水路は、北の端の家の裏で終わっていました。そこから先は、ただの地面です」
番頭の目が、ほんの一瞬だけ泳いだ。
「……ああ、それは。この春の大水で、川までの石積みも、落ち口の堰も、まとめて流されまして。いや、まったく、天の災いばかりは、商会にもどうにもなりません」
「春に、流された」
「ええ、春に」
私は、鞄から一通の手紙を取り出した。昨日、北区へ持っていったまま、鞄に入れていたものだ。
「北の端で桶屋をしている方から、私宛てに届いた手紙です。日付は、この春です」
便箋を開いて、番頭の前に置いた。
『去年の秋、殿下のお名前で水路の続きの工事がありました。そのあとから、北の端の家の井戸が、また濁り始めました』
番頭の目が、手紙の上で止まった。
「春に書かれた手紙に、去年の秋から濁っていると書いてあります。井戸が濁り始めたのは、春の大水のあとではありません。工事が終わったあとからです」
番頭が、口を開きかけた。私は、先に続けた。
「水は、低いほうへしか流れません。秋から春まで、水路が川までつながっていたのなら、水は川へ落ちていたはずです。北の端に水たまりはできないし、井戸も濁らない。秋の雨で井戸が濁ったのは、初めから、川への道がなかったからです」
「……町の者の手紙など。素人の言うことです」
「はい。素人の手紙です」
私は、便箋を指でそっと押さえた。
「誰に言えばいいのか分からなくて、私の名前を宛名にして、書いてくださったんです。自分の家の井戸の水を、毎日汲んでいる人の手紙です。あなたの完工届より、ずっと確かです」
フェリクスさんが、ずり落ちた眼鏡を、黙って押し上げた。
「それに、大水で流されたのなら、積み石は川原や畑に散らばっています。掘った溝の跡も残ります。六百歩近くの水路が、跡形もなく消えることはありません。今から一緒に、北の門の外へ参りましょう。歩いて、半刻ほどです」
番頭は、もう何も言い返さなかった。額に、汗が浮いていた。
廊下の奥から、走ってくる足音が聞こえた。
「──その必要は、なさそうです」
番頭が来てから初めて、団長が口を開いた。
「今朝、副団長を北の門の外へやりました。戻ってきたようです」
膝まで泥だらけの長靴で、ヴォルフ様が顔を出した。
「団長、戻りました。北の門の外、川の土手。端から端まで歩きましたけど、草ぼうぼうです。堰どころか、石ひとつ落ちてない。鍬が入った跡もありません。水路の終わりから門までも、畑と藪だけでした」
そこでヴォルフ様は、番頭に気づいて、にっこり笑った。
「あ、どうも。いい天気ですね」
番頭の顔から、血の気が引いていった。
「わ、私は、会頭の指図どおりに書いただけで……」
「その話は、衛兵に聞かせてくれ」
殿下が、静かに手を上げた。廊下に控えていた衛兵が二人、番頭の両腕を取った。
「会計院の記録の持ち出し。偽りの完工届。どちらも、王家の金に関わる罪だ」
引きずられていく番頭が、振り返って何か叫んだ。私の名前ではなかった。会頭、と言った気がした。
*
番頭がいなくなった部屋で、殿下は長く息を吐いた。
「お見事。……と言いたいところだけど、これでもまだ半分だね」
「半分、ですか」
「番頭は会頭の指図だと言う。会頭は、番頭が勝手にやったと言う。消えた金がどこへ流れたか、帳簿の上で押さえないかぎり、会頭までは届かない。束から抜かれた紙も、今ごろ商会の暖炉の中かもしれない」
殿下は、出納簿の行を指で叩いた。
「消えた千二百枚の、行き先だ」
私は頷いた。それから何気なく、出納簿の次の行に目を落とした。
同じ、ゲルト商会の名前があった。
『王都外れ 孤児院 屋根の葺き替え
請負 ゲルト商会
代金 金貨三百枚 二年前 全額支払い済み』
息が、止まった。
孤児院の屋根。
先月も、私は夜の孤児院で、雨漏りの下にバケツを並べた。雨の夜になると、小さい子たちは濡れない一部屋に固まって眠る。あの屋根は、二年前から一度も直っていない。葺き替えの話など、私は一度も聞いたことがなかった。
「……直っていません」
「え?」
「孤児院の屋根です。直っていません。私が、いちばんよく知っています」
殿下とフェリクスさんが、顔を見合わせた。
団長だけが、黙って私を見ていた。
*
帰り道、私は団長に聞いた。
「どうして、番頭に何も言わなかったんですか。あんなことを言われて、私より先に怒りそうなお顔をしていたのに」
「顔に、出ていましたか」
「少しだけ」
団長は前を向いたまま、しばらく黙っていた。
「あれは、あなたの勝負でしたので」
「……私の」
「あなたの図面で、あなたの水路です。私が剣で黙らせても、あの男は『騎士団長に脅された』と言うだけです。あなたが言えば、言い逃れはできない」
それから、少しだけ声を落とした。
「ただ、副団長を川へやったのは、私です。それくらいは、させてください」
ずるい人だと、昨日も思った。
今日は、もう少しだけ、そう思った。
*
その夜、私は机に北区の箱を置いた。
鞄から出したベルタさんの手紙を箱に戻すと、その下に、まだ七通残っていた。麦が流されなくなった礼。床の上まで水が来なくなった礼。そのうちの何通かは、ベルタさんと同じように、北の端の井戸を心配していた。
便箋を広げて、ペンを取る。
一昨日、私はこの机で、たった八文字が書けなかった。インクが乾いて、ペン先が固まるまで、ただ座っていた。
今夜は、ペン先が紙に触れた。
井戸を心配していた人には、こう書いた。
『どういたしまして。
水路は、必ず最後まで通します。それまで、井戸の水は一度沸かしてから飲んでください。
リゼット・オルフェ』
最後に自分の名前を書くとき、少しだけ手が止まった。三年間、どんな書類にも書けなかった名前だ。
一通書くと、二通目は、少しだけ早く書けた。三通目には、手紙に出てきた子どもの名前を添えられた。七通目を書き終えたころには、蝋燭が半分の長さになっていた。
窓の外を見ると、門の前に、まだ団長が立っていた。
最後に、孤児院の箱を引き寄せた。
いちばん上に、色褪せた紙が一枚。
『りぜっとさま ぱんをありがとう。ぼくは おおきくなったら きしになります。とむ』
この子は、ベールの向こうの私しか知らない。
明日は、ベールをかぶらずに行こう。
雨漏りのする屋根の下へ、自分の顔で。
ユリウス(24)。王太子。お供を撒くのが、たぶん国でいちばん上手い。
次回、ベールを外して。
返事 9/342通




