第4話 護衛は団長
翌朝、窓を開けると、門の前に騎士が二人立っていた。
一人は、昨日と同じように直立している団長。もう一人は、団長より頭半分ほど背が低く、赤茶けた髪をうしろで一つに結んだ騎士だった。こちらは門柱にもたれて、あくびをしている。
夜のうちに、少し雨が降ったらしい。石畳がまだ濡れていた。
身支度を済ませて降りていくと、赤茶の髪の騎士が、ぱっと門柱から背を離した。
「おはようございます、リゼット嬢。騎士団副団長のヴォルフです。昨日は、うちの団長がお世話になりまして」
「おはようございます。……お世話、というほどのことは」
「いやいや。花束、ちゃんと渡せました?」
団長の眉が、わずかに動いた。
「ヴォルフ」
「渡せたんですね。よかった。心配してたんですよ。門の前で一時間固まってたって、こちらの執事さんから聞いたもんで」
いつの間に、うちの執事と話をしたのだろう。
「……花束は、副団長様が?」
「ヴォルフでいいです。ええ、俺が持たせました。この人、放っておいたら、手ぶらどころか剣だけ持って女性の家に行きますから」
「護衛に剣を持っていくのは当然だ」
「ほらね」
ヴォルフ様は、私に向かって肩をすくめてみせた。
団長は真顔のままだった。けれど、耳の先がほんの少しだけ赤い。昨日、花束を渡されたときの私も、たぶんこんな顔をしていたのだと思う。
「今日は、ヴォルフ様もご一緒に?」
「いえ、俺は朝の顔見せだけです。団長が護衛に付きっきりになるんで、騎士団のほうは俺が預かることになりまして。挨拶くらいはしておけって、団長が」
「言っていない」
「顔に書いてありました」
ヴォルフ様は笑って、それから、真面目な顔になった。
「うちの嫁さんがね、いつも言うんです。人の家に行くのに、手ぶらで行くもんじゃないって。それで、つい」
そこまで言って、ヴォルフ様は私の顔を、ほんの一瞬だけまっすぐに見た。何か続けようとして、口を閉じた。
「いや。今日はやめときます。団長、北区でしたっけ。足元、気をつけてくださいよ。あのあたり、雨のあとはぬかるむんで」
片手を上げて、ヴォルフ様は王宮のほうへ歩いていった。
背中を見送りながら、さっきの目が気になった。何かを言おうとして、言わないと決めた目。三年間、私が鏡の中で何度も見てきた目だった。
「……騒がしい男で、申し訳ありません」
「いいえ。いい方ですね」
「腕も、確かです」
団長はそれだけ言って、北のほうへ歩き出した。
*
北区は、王都の北の門の内側に広がる、低い土地の町だ。
昔から、大雨が降るたびに水が出た。畑の麦が流され、家の床まで水が上がる年もあった。三年前、私はその水の通り道を一冊の図面にした。南の高いほうから集まってくる水を、町の真ん中を通る水路で受けて、北の端を抜け、北の門の外を流れる川まで流しきる。
図面は、殿下の名前で出た。工事が始まったことは、掲示板の布告で知った。
北区に入ると、道の脇に、石を積んだ水路が見えてきた。幅は大人が両腕を広げたくらい。底を、澄んだ水がさらさらと北へ流れている。
私は、思わず足を止めていた。
図面の上でしか見たことのなかった水路が、そこにあった。
「……本当に、できていたんですね」
「ご覧になるのは、初めてですか」
「はい。来れば、殿下の手柄を横取りしに来たと言われると思って」
言ってから、少し恥ずかしくなった。団長は何も言わなかった。ただ、私の半歩後ろで、私が見終わるまで待っていた。
水路の脇で、子どもたちが笹の葉の舟を流していた。舟は水に乗って、くるくる回りながら北へ下っていく。
ここまでは、きれいだ。
手紙には、北の端の井戸が、また濁り始めたと書いてあった。
*
声をかけられたのは、北区の真ん中の小さな広場を通りかかったときだった。
「団長? こんなところで、珍しいね」
振り返ると、地味な灰色の外套を着た青年が、広場の井戸端に立っていた。手には帳面と、結び目のついた測り縄。袖口が少し泥で汚れている。
団長が、すっと片膝をつきかけた。青年が、慌てたように手を振った。
「やめてくれ。今日はお忍びなんだ。ここで膝をつかれたら、お忍びにならない」
その穏やかな灰色の目に、私は見覚えがあった。
夜会の大広間で、陛下のすぐ隣に立っていた人。
「……ユリウス殿下」
「やあ、リゼット嬢」
王太子ユリウス殿下は、帳面を小脇に挟んで、私に軽く頭を下げた。前の王妃様のお子で、レオンハルト殿下の異母兄にあたる方だ。
「一昨日は、弟が本当に申し訳なかった。父上が頭を下げたあとで私まで下げると、かえってあなたが困るだろうと思って、黙っていたんだけど」
「いえ、そんな」
「それに、私も同罪かもしれない」
殿下は帳面を開いてみせた。細かい字で、井戸の名前と、何かの数字がびっしりと並んでいる。
「この半年で、北区から王宮に、嘆願書が三通届いていたんだ。北の端の井戸が濁る、と。弟の名前で出た事業だったから、弟に回した。返事は『問題ない』だった」
殿下は、眉を下げた。
「それで済ませてしまった。夜会のあとで、あの図面を書いたのが誰だったか知って、気になって。今日は自分の目で見に来たんだ」
測り縄の結び目には、泥がついていた。この方は、自分の手で井戸の深さを測って回っていたのだ。
「私も、北の端の方からお手紙をいただいて、来ました」
「そうか。それなら、私より、あなたが見たほうがいい」
殿下は帳面を閉じて、道の先を指さした。
「北の端は、この先だ。私は王宮に戻って、工事の記録を調べてみるよ。……それと、リゼット嬢」
殿下は、ふっと笑った。
「この先で何を見つけても、今度は、自分の名前で言っていいからね」
灰色の外套の襟を立てて、殿下は人混みの中へ消えていった。
隣で、団長が小さく息をついた。
「あの方は、昔からああです。お供を撒いて、一人で町を歩かれる」
「団長は、困らないんですか」
「困ります。ですが」
団長は、殿下が消えたほうを見ていた。
「ご自分の足で泥の中を歩く王族は、この国ではあの方くらいです」
*
北の端に近づくにつれて、道がぬかるんでいった。ヴォルフ様の言ったとおりだった。
私の靴が泥に取られかけたとき、団長が、自分の立っていた乾いた石を無言で譲った。自分は、ぬかるみのほうへ一歩下がって。
「団長の靴が、汚れます」
「騎士の靴は、汚れるためにあります」
「……そういうものですか」
「そういうものです」
真顔で言われると、言い返せない。私は石の上を渡りながら、少しだけ、ずるい人だと思った。
手紙をくれたのは、北の端で桶屋を営むベルタさんという人だった。
戸口に出てきたベルタさんは、私の顔を見て、手に持っていた桶のたがを取り落とした。
「あ、あんた……いや、あなた様は」
「リゼット・オルフェです。お手紙を、いただきました」
自分から名乗るのには、まだ慣れない。けれどあの夜会から、私は自分の名前を、少しずつ口にする練習をしている。
ベルタさんは前掛けで手を拭き、拭いた手で、もう一度前掛けを拭いた。
「届いたんですね。どなたに言えばいいか分からなくて、宛名だけ、あなた様にして……」
「届きました。遅くなって、ごめんなさい」
ベルタさんの家の裏に、井戸があった。
桶で汲み上げてもらうと、水は薄い茶色をしていた。しばらく置くと、底に細かい泥が沈んでいく。においも、少しある。
「水路ができる前は、大水のたびにこうだったんです。水路ができて、麦も流されなくなって、井戸もきれいになって、みんな喜んで。それが、去年の秋に続きの工事があってから、雨が降るたびに、また」
「前は、水路はどこまで来ていたんですか」
「町の真ん中までです。そこから先は、昔からある古い溝につながってて、水は西の畑のほうへ抜けてました。それを続きの工事で、こっちまで延ばしたんです。いよいよ川までつながるって、みんな言ってたんですけど」
「見せていただけますか」
ベルタさんについて、家の裏手の畑を抜けた。
石の水路が、そこで終わっていた。
終わっている、としか言いようがなかった。積み石が途切れた先は、ただの地面だった。流れてきた水は、そこからあふれて、北の端の家々の裏手に広い水たまりを作っていた。茶色い水面に、落ち葉と藁が浮いている。
水たまりのすぐ向こうに、ベルタさんの家の井戸が見えた。
私は、その場に立ちつくした。
頭の中に、図面が浮かぶ。三年前、蝋燭の灯りで引いた線。水路は北の端を抜けて、北の門の外の川まで続いている。ここから川までは、図面の上では、まだ同じくらいの長さが残っている。
「……水を、ここに捨てている」
声が、勝手に出ていた。
「南から集めた水を、川まで運ばずに、ここで止めているんです。前は古い溝で畑のほうへ逃がしていた水を、わざわざ家のすぐ裏まで引いてきて。雨のたびにこの水たまりが広がって、地面にしみこんで、井戸に入る。だから、雨のあとに濁るんです」
ベルタさんが、ぽかんと口を開けた。
「じゃあ、水路が悪さを……」
「水路は悪くありません。途中で止めた人が、悪いんです」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
団長が、水路の終わりにしゃがみこんで、最後の積み石に手を当てた。
「継ぎ目の漆喰が、まだ白いです。町の真ん中のほうの継ぎ目は、もう苔で緑になっていました。ここは、ここ一年のうちに積まれたものです」
「去年の秋の工事ですね」
「ええ。そして、ここで終わっている」
団長は、水たまりの先の、何もない地面を見た。
「工事が終わったのか。終わらせられたのか」
私は、ベルタさんに向き直った。
「ベルタさん。この水路は、本当は川まで続く設計です。必ず、最後まで通します。それまで、この井戸の水は、飲む前に必ず一度沸かしてください。ご近所の方にも、そう伝えていただけますか」
「沸かす……灰熱病のときと、同じですね」
「はい。同じです」
ベルタさんは、しばらく私の顔を見ていた。それから、前掛けをぎゅっと握った。
「……あの冬に、水を沸かせって教えてくれたのも、あなた様だったんですね」
答える前に、ベルタさんは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
今度は、間違えなかった。
「どういたしまして」
まだ少し、声は小さかった。けれどベルタさんは顔を上げて、目尻にしわを寄せて笑ってくれた。
*
帰り道、水路の脇を、来たときと逆に南へ歩いた。
子どもたちの笹舟は、もうなかった。澄んだ水だけが、さらさらと北へ流れていく。あの水たまりに向かって。
「団長」
「はい」
「北区の水路の工事に、いくら使われたのか、調べられますか」
「王宮の会計院に、記録があるはずです」
「続きの工事が途中で止まっているなら、お金も途中までの分で済んだはずです。もし、記録に残っている金額が、川までの全部の分だったら」
その先は、言わなかった。
言わなくても、団長には分かっているようだった。
「明日、会計院に参りましょう」
「お願いします」
しばらく、二人で黙って歩いた。夕日が、水路の水面で細かく砕けて光っていた。
「リゼット嬢」
「はい」
「先ほど、桶屋の前で、名乗っておられましたね」
「……練習中なんです。三年、使っていなかったので」
団長は前を見たまま、一拍置いて言った。
「いい名前です」
それは、どういう顔で聞けばいい言葉なのだろう。
昨日も、同じことを思った気がする。私は答えられないまま、夕日のせいにして、うつむいた。
屋敷の門が見えてきたとき、うしろから、走ってくる足音がした。
ヴォルフ様だった。朝とは違って、笑っていなかった。
「団長。ユリウス殿下から、言伝です」
ヴォルフ様は私に軽く会釈をして、団長の耳元で何かを囁いた。団長の顔つきが、固くなった。
団長は、私のほうへ向き直った。
「会計院の棚から、北区の水路の工事の記録が、一束なくなっているそうです」
「……なくなって」
「最後にその棚の記録を見に来たのは、工事を請け負った商会の番頭だと」
団長は、北のほうを振り返った。
「ゲルト商会。北区の工事を、最初から最後まで請け負った商会です」
ヴォルフ(30)。副団長。花束の犯人。
次回、半分の水路。
返事 2/342通




