第3話 どういたしまして
門の前まで降りていくと、団長は直立したまま、私に一礼した。
「おはようございます、リゼット嬢。本日より、護衛を務めます」
「……おはようございます」
視線が、どうしても彼の左手にいく。白と黄色の小さな花束。騎士服の黒に、まるで似合っていない。
団長も、自分の手元を見た。それから、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「これは」
「はい」
「部下に、持たされました。手ぶらで女性の家を訪ねるなと」
「……そうですか」
「どうすればいいのか、門の前で考えていました」
一時間ほど、と付け加えられて、私は思わず執事のほうを見た。執事は、そっと目を逸らした。本当らしい。
「あの、護衛というのは……陛下が?」
「陛下に、願い出ました」
団長は、まっすぐ前を向いたまま言った。
「昨夜、知りたいと申し上げたので。護衛なら、近くにいる理由になります」
それは。
それは、どういう顔で聞けばいい言葉なのだろう。
「それに」
団長は、少しだけ声を落とした。
「昨夜の件を、快く思っていない方もいます。殿下の後ろにいた方々の中に」
グレゴール公爵の薄い笑みが、頭をよぎった。
私は何も言えずに、ただ頷いた。団長も、それ以上は何も言わなかった。花束は、まだ彼の手の中にあった。
*
東門までは、歩いて行くことにした。馬車を出すと言った執事に、首を振ったのは私だ。三年間、手紙をくれた人たちが暮らす町を、自分の足で見ておきたかった。ミナは屋敷に残って、手紙の仕分けの続きをしてくれることになった。
大通りに出ると、すれ違う人が足を止めた。
一人が、隣の人の袖を引く。ひそひそと、何かを囁き合う。視線が、私に集まる。
──ああ、いつもの。
反射的に、背筋が固くなった。三年間、王都の通りを歩くたびに浴びてきた視線だ。冷たい女。殿下に嫌われている女。顔を伏せて、早足で通り過ぎるのが一番いい。
うつむきかけた私の横で、団長が、ほんの少しだけ歩く速さを落とした。
「リゼット嬢。前を見てください」
「……え?」
「あの人たちは、あなたを見ているのではありません。あなたに、頭を下げているんです」
顔を上げた。
八百屋の前で、主人が帽子を取っていた。洗濯物を抱えた女の人が、膝を折っていた。荷車を引く若者が、車輪を止めて、ぎこちなくお辞儀をしていた。
ひそひそ声の正体が、風に乗って聞こえてくる。
「……あの方だよ。昨夜の」
「ベールのお姉さん、って」
「水路の──」
私は、どうしていいか分からなくて、小さく頭を下げ返した。頭を下げるたびに、また別の誰かが頭を下げた。東門に着くまでに、私は数えきれないほどお辞儀をした。
「首が痛くなりそうです」
「慣れてください」
団長は真顔だった。この人は、たぶん冗談を言っていない。
*
パン屋は、東門のすぐ内側の、小さな角地にあった。煙突から白い煙が上がっていて、通りまで焼きたての匂いが流れてくる。
扉を開けると、鈴が鳴った。
「いらっしゃい! ……」
粉だらけの前掛けをした、恰幅のいい女の人が、カウンターの向こうで固まった。手に持っていた丸パンが、ころりと台の上に転がる。
「あ、あんた……」
「ドーラさん、ですか。東門のパン屋の」
私は、鞄から手紙を取り出した。三年前の日付。インクの染みのある、四つ折りの紙。
「お手紙を、いただきました。三年、遅くなってしまいましたけれど」
ドーラさんは、私と手紙を交互に見て、それから、くしゃりと顔を歪めた。
「届いたのかい。あれ、届いたのかい」
「昨夜、届きました」
「……そうかい。そうかい」
前掛けで目元を押さえて、ドーラさんは何度も頷いた。それから急に我に返ったように、棚のパンを片っ端から紙袋に詰め始めた。
「ちょっと待ってな。全部持っていきな。こっちのは胡桃で、これは干し葡萄で──」
「あの、ドーラさん、そんなに」
「いいんだよ! あんたのおかげで、うちのパンを食べた子どもたちが冬を越せたんだ。ありがとう。本当に、ありがとうね」
来た、と思った。
この言葉に返すために、私はここへ来たのだ。
どういたしまして。
八文字。昨夜から、何度も頭の中で練習した。口を開ける。
「あ……」
喉の奥で、言葉が止まった。
ドーラさんが、期待するような目で私を見ている。後ろで、団長が黙って立っている。店の中には、パンの焼ける音だけがしている。
「あ、ありがとう、ございます……」
言ってから、気づいた。
違う。それは、私が言う言葉じゃない。
ドーラさんが、ぽかんと口を開けた。それから、お腹を抱えて笑い出した。
「あんたが礼を言ってどうすんだい!」
「す、すみません、違うんです、そうじゃなくて……」
顔から火が出そうだった。三年間、誰ともまともに話さなかったつけが、こんなところで回ってくるなんて。
助けを求めるように振り返ると、団長は、ドーラさんに渡された胡桃のパンを、真顔のまま一口かじっていた。
「うまい」
「団長……!」
「失礼。焼きたてだったので」
ドーラさんが、また笑った。今度は私もつられて、少しだけ笑ってしまった。
*
紙袋を三つ抱えて、店を出た。
扉が閉まる直前、私は足を止めた。このまま帰ったら、三年待たせた返事を、また持ち帰ることになる。
振り返って、扉の隙間から、もう一度だけ顔を出した。
「ドーラさん」
「なんだい」
息を吸う。
「……どう、いたしまして」
蚊の鳴くような声だった。たぶん、パンの焼ける音にかき消された。
けれど、カウンターの向こうで、ドーラさんは大きく笑って、粉だらけの手を振った。
「聞こえたよ!」
扉を閉めて、通りに出る。胸が、どきどきしていた。たった八文字を言うのに、こんなに力が要るなんて知らなかった。
「言えましたね」
隣で、団長が言った。
「……聞こえていましたか」
「護衛ですので」
それから団長は、思い出したように、まだ手に持っていた花束を私に差し出した。
「これを、渡すのを忘れていました」
「……門の前から、ずっと持っていたのに?」
「渡す機会を、探していました」
白と黄色の小さな花は、少しだけ萎れていた。一時間も門の前で握られていたのだから、無理もない。
私はパンの袋を片腕にまとめて、花束を受け取った。
「ありがとうございます」
今度は、間違っていない。
*
屋敷に戻ると、ミナが北区の箱を机の上に用意してくれていた。次に行くなら、きっとここだろうと。
一番上の一通を開く。今年の春の日付だった。
『北区の水路のおかげで、麦が流されなくなりました。本当に感謝しています。ただ、ひとつだけ、どなたに言えばいいのか分からないことがあって書いています』
続きを読んで、手が止まった。
『去年の秋、殿下のお名前で水路の続きの工事がありました。そのあとから、北の端の家の井戸が、また濁り始めました』
──続きの、工事。
北の端まで水路を延ばす、図面の後半のことだろう。それなら、とっくに終わって、北の端の井戸はきれいになっているはずだった。
私は、窓の外を見た。門の前には、まだ団長が立っていた。今度は、何も持たずに。
明日は、北区へ行こう。
ディートリヒ(27)。花束を持ったまま、門の前で一時間考えていた人。
次回、北区へ。
返事 1/342通




