第2話 三百四十二通
一睡もしないまま、朝になった。
床の上に、三百四十二通の手紙が並んでいる。机に載りきらなくなって、絨毯の上に分け始めたのは夜半過ぎだった。北区から届いたもの。孤児院の子どもたちのもの。灰熱病の冬のもの。差出人の住む町ごとに束を作っていくと、部屋の床は、小さな王都の地図のようになった。
騎士団の封蝋の一通だけは、どこにも分けずに、机の引き出しにしまった。
扉が叩かれ、ミナが朝の紅茶を持って入ってきた。そして、敷居のところで固まった。
「……お嬢様。床が見えません」
「ごめんなさい。踏まないで。そこは南区で、そっちは港」
「港」
ミナは盆を持ったまま、手紙の間を爪先立ちで渡ってきた。私の顔を見て、眉を下げる。
「お休みにならなかったのですね」
「眠れなかったの。読み始めたら、止まらなくて」
本当のことだった。
『北区の水路のおかげで、今年は麦が流されませんでした』
『娘が熱を出したとき、隔離の決まりを守ったら、家族の誰にもうつりませんでした』
『孤児院に毎月届くパンの粉は、うちの店から出しています。どなたのお金か、院長さんが教えてくれました』
字の上手な人も、そうでない人もいた。インクがにじんで読めないところもあった。途中で書き直した跡のある手紙もあった。
どの手紙にも、同じ言葉があった。
ありがとう。
「……ミナ」
「はい」
「私ね、三年間、誰も返事をくれないと思っていたの」
ミナは黙って紅茶を置いた。
「でも、違った。返事をしていなかったのは、私のほうだった」
三百四十二人が、私に「ありがとう」を言ってくれた。私はその誰にも、何も返していない。届いていなかったのだから仕方がない、と言えばそうなのかもしれない。けれど、この人たちは三年間、返事の来ない手紙を出したまま、待っていたのだ。
──私と、同じように。
「全部に、返事を書くわ」
口に出してみると、思っていたよりも、声はまっすぐだった。
「全部、でございますか」
「全部。それから、行ける場所には、自分で行く。紙の上で『どういたしまして』と書くだけじゃ、三年は埋まらない気がするの」
ミナは、手紙で埋まった床を見渡した。それから、ふっと笑った。
「お嬢様が、昨夜よりずっと良いお顔をなさっているので、反対はいたしません。ただし、朝食は召し上がってくださいね」
*
朝食の途中で、ルークが寝癖のまま食堂に飛び込んできた。脇には、昨夜の帳面を抱えている。
「姉上! 手紙、全部読んだって本当ですか」
「ミナに聞いたの?」
「廊下で、床が見えないって嘆いてました」
ルークは私の隣に座ると、帳面を広げた。疫病対策の原案。孤児院の支援台帳。水路の図面の写し。どれも、見覚えのある字だ。
「ルーク。一つ聞いてもいい? 殿下の名前で出た決裁書を、どうやって私が書いたものだと見分けたの。署名はどれも、殿下のものだったでしょう」
ルークは、待ってましたとばかりに帳面の一枚を指さした。
「数字です。姉上の字は、7に横棒が入るんです」
「……え?」
「ほら」
並べられた二枚の紙。片方は私の原案、片方は殿下の名前で出た決裁書の写し。どちらの「7」にも、縦の線の真ん中に、小さな横棒が引かれていた。
「殿下の字は、7に横棒が入りません。殿下が自分で書いた手紙を何通か見て、確かめました。だから、殿下の名前で出ている書類でも、数字に横棒の7があれば、姉上が下書きを書いたものだと分かったんです」
私は自分の字を、まじまじと見た。物心ついてからずっと書いてきた字なのに、一度も気にしたことがなかった。
「いつの間に、そんなこと」
「姉上が夜中に丸めて捨てた紙を、拾って伸ばしていたら気づきました」
ルークは得意げに胸を張ってから、ふと声を落とした。
「それと、一つだけ、まだ分からないことがあって。姉上の原案と、殿下の名前の決裁書を並べると、ところどころ数字が──」
「リゼット様」
執事が、食堂の入り口で頭を下げた。
「旦那様が、書斎でお呼びです」
ルークの言葉は、そこで途切れた。
*
父の書斎に入るのは、半年ぶりだった。
オルフェ侯爵家の当主である父は、窓を背にして机に向かっていた。私が入っても、すぐには顔を上げなかった。
「昨夜の騒ぎは聞いた」
ペンを置く音がした。
「婚約を破棄され、勲章を断ったそうだな」
「……はい」
「家の名に、これ以上傷をつけるな」
父の声は、いつもと同じ温度だった。高くも低くもない。冷たい水のような声。
「王家の婚約者を三年務めて、何も残らなかった娘だ。次の縁談は、こちらで決める。それまで、余計な騒ぎは起こすな」
「お父様。私、いただいた手紙に返事を──」
「くだらん」
それだけだった。
父は、私に下がれとも言わずに、再びペンを取った。話は終わったのだ。
一礼して顔を上げたとき、父の机の端に、一枚の紙が伏せて置かれているのが見えた。裏から透けた墨の形に、見覚えがあった。王都の掲示板に貼り出される、布告の紙の大きさ。
北区の水路の改修を告げる布告。三年前、殿下の名前で出されたものだ。
──どうして、そんなものを。
私の視線に気づいたのか、父は無言で、その紙の上に別の書類を重ねた。
「下がれ」
今度は、はっきりと言われた。
*
自室に戻ると、床の手紙は、ミナの手で町ごとの箱に収められていた。
私は机に便箋を広げた。最初の返事を書こうと思った。
一番上の箱から、一通を取る。王都の東門の近くにある、小さなパン屋の女将さんからの手紙だった。
『孤児院に毎月届くパンの粉は、うちの店から出しています。どなたのお金か、院長さんが教えてくれました。あんたのおかげで、子どもたちが冬を越せた。ありがとう。いつか、うちのパンを食べに来てください』
ペンを持つ。
「どういたしまして」と書こうとして、手が止まった。
たった八文字だ。なのに、どうしても書けなかった。三年間、誰からも言われなかった「ありがとう」に返す言葉を、私は知らなかったのだと思う。
インクが乾いて、ペン先が固まった。
私は便箋を畳んで、立ち上がった。
「ミナ。東門のパン屋さんまで、行き方を知ってる?」
「……今から、でございますか」
「書けないなら、言いに行くわ」
机の引き出しの奥で、騎士団の封蝋は、暗い赤色をしているはずだった。それは、最後。まずは、一通目からだ。
ミナが何か言いかけたとき、廊下を駆けてくる足音がした。扉が叩かれ、執事が、珍しく息を切らして顔を出す。
「リゼット様。玄関に、騎士団長ディートリヒ・アーク様がお見えです。陛下のご命令で、本日からリゼット様の護衛につかれると」
「……護衛?」
窓から見下ろすと、門の前に、黒い騎士服の背の高い人が立っていた。直立不動。片手に、なぜか小さな花束を持っている。
いや、持たされている、と言ったほうが正しいのかもしれない。花束を見下ろす横顔は、これをどう扱えばいいのか分からない、という顔をしていた。
昨夜、「これから知りたい」と言った人は、どうやら本気だったらしい。
ルーク(16)。姉の書き損じを三年拾い続けた弟。本人は、普通のことだと思っています。
次回、団長と東門のパン屋へ。
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