表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/36

【機械仕掛けの亡霊、そして暴食の拒絶】

白堊理研第8基地、リトルベース。

荒野の只中に孤立するこの施設は常に、乾燥した風と、オイルの混じった砂埃の匂いに包まれている。


だが、今日の空気は違っていた。

張り詰めたような緊張感と、火薬の残り香にも似た破滅の予感が基地全体を覆っていた。

司令室へと続く長い廊下を、数名の武装兵士が無言で進んでいた。


彼らの装備はリバティー・アライアンスの正規部隊ではない。

黒一色の強化外骨格に感情を隠すフルフェイスのバイザー。


白堊理研本部直属の執行部隊。通称「掃除屋」たちである。

その先頭を歩くのは、彼らを手引きした案内人ではない。

かつてその部隊の一員であり、今は一人のガバナーとして彼らを先導する女性、ミカ・フォルクス少尉だった。


「ここっす」


ミカは重厚な防爆扉の前で足を止めた。

彼女の手には一枚のデータチップが握りしめられている。

それは、先日の砂漠地帯におけるヒドラ戦の戦闘ログ。


ヴァネッサ・ヘルシング少佐が自軍の識別信号を持つフレンダたちに対して、敵の無人兵器を差し向け、殺害しようとした決定的な証拠である。


「味方への意図的な攻撃、および違法な生体実験のデータ流用、敵との内通。これらはリバティー・アライアンス軍規、および白堊理研の倫理規定に対する重大な背任行為っす」


ミカの声は震えていなかった。

だが、その内側では激しい葛藤が渦巻いていた。

彼女にとって、少佐は憎むべき狂気の科学者であると同時に、仕えてきた上官でもあった。

その幕引きを自分の手で行わなければならない。


「突入準備」


執行部隊の隊長がハンドサインを送る。

電子ロックが解除される音が、静寂の中で不気味に響いた。


「行くっすよ」


ミカが扉を蹴り開ける。

数丁のアサルトライフルが一斉に室内を狙った。


「動くな、ヴァネッサ少佐!貴官を拘束す……!」


しかし、その警告が最後まで発せられることはなかった。

司令室の中は薄暗く、寒々しいほどに静まり返っていた。

無数のモニターが青白い光を放ち、部屋の主を照らし出している。

部屋の中央、執務机の椅子にヴァネッサ・ヘルシング少佐が座っていた。


いつものように背筋を伸ばし、組んだ足を優雅に投げ出し、手には愛用のカップを持ったまま。

だが、その首から上は力が抜けたように傾いていた。

こめかみには黒い穴が開き、そこから流れた一条の赤黒い筋が軍服を汚している。


床には、護身用のハンドガンが転がっていた。


「遅かったっすか……」


ミカは銃を下ろし、ゆっくりと歩み寄った。

自殺。いや、彼女の表情に死への恐怖や絶望の色は微塵もなかった。

口元には自身の計画が完了したことを誇るような、薄ら寒い笑みすら浮かんでいる。


「隊長、 端末にデータ送信の痕跡があります!」


部下の一人が叫んだ。

メインモニターには膨大なデータが外部へ送信されたことを示すプログレスバーが、つい先ほど100%に達して消えた跡が残っていた。

送信先は不明。高度な暗号化が施されている。

しかし、ミカには分かっていた。


送信先はMSGヴァリアントフォース。

そして、その頂点に君臨する人工知能SANATだ。


「遺書もなし、っすか」


ミカは机の上に視線を落とした。

そこには、手書きの手紙の代わりに端末の画面に短いメッセージが表示されていた。


肉体という檻を捨てる、最終テストの場で待つ。


「肉体を、捨てる?」


ミカの背筋に悪寒が走る。

この死体は、ただの脱ぎ捨てられた殻に過ぎないというのか。

狂気のマッドサイエンティストは死してなお、その執念を世界に刻み込もうとしている。


その時だった。


ピピピピッ……!

ミカの懐にある個人用通信端末が、けたたましい着信音を鳴らした。

発信元不明。

しかし、その信号パターンには見覚えがあった。


「フレンダ少尉の端末にも、同じ信号が来てるはずっす」


ミカは震える指で通話ボタンを押した。


『聞こえるか、掃除屋』


ノイズの向こうから聞こえてきたのは、少佐の声ではない。

若く、そして深い憎悪に歪んだ女の声。

かつて廃棄されたはずの「検体E」、アイリーンの声だった。





リトルベース、第4格納庫。

フレンダ・ディーコン少尉は、整備台の上に座り込み、ロード・インパルス【Reloadead】の装甲を磨いていた。

彼女の足元には、空になったポテトチップスの袋が散乱している。


「ミカちゃん、遅いなぁ」


フレンダは布巾を投げ出し、大きく伸びをした。

ミカが少し用事を済ませてくると言って出て行ってから、数時間が経過していた。

お腹が空いた。

冷蔵庫の中身はあらかた食べてしまったし、このままでは非常食の乾パンに手を出すしかない。


ブブブブッ!

コクピットのコンソールに置いた端末が振動する。

フレンダは飛びつくように画面を見た。


「ミカちゃん!?ご飯!?」


だが、表示されたのは『UNKNOWN』の文字。

フレンダは首をかしげながら、通話に出た。


「もしもし、デリバリーイーツですか?」


『相変わらずだな、能天気な成功作』


スピーカーから響いた声に、フレンダの空気が一変した。

その声は忘れもしない。

先日工場の廃墟で戦い、そして逃がした狐の女。


「アイリーン?」


『座標ポイント、Z-99。旧時代の採掘場跡地だ。そこで待つ』


「待つって、また戦うの?」


フレンダの声が低くなる。

前回の戦いで彼女はアイリーンを見逃した。

可哀想だからという理由で。

だが今のアイリーンの声には、前回のようなヒステリックな感情の乱れは感じられなかった。

あるのは冷たく研ぎ澄まされた殺意と、奇妙な高揚感。


『決着をつけよう、フレンダ。ママが見ている、今度こそ私が最高傑作であることを証明するんだ』


「ママ?」


『来なければお前の連れがいる司令室ごと、この基地を吹き飛ばす』


「ッ!!」


一方的に通話が切れた。

フレンダは端末を握りつぶさんばかりに力を込めた。


ママが見ている?基地を吹き飛ばす?

意味は分からない。だが、一つだけ確かなことがある。


「ミカちゃんには手出しさせない」


フレンダはインパルスのエンジンに火を入れた。

空腹など一瞬で消え去っていた。






座標ポイントZ-99。

そこは赤茶けた岩肌がむき出しになった、広大なすり鉢状の採掘場跡地だった。

遮蔽物は少なく、逃げ場のないコロシアムのような地形。

砂煙を巻き上げ、ロード・インパルス・【Reloadead】が到着する。

その数分後、後を追ってきたミカの装甲車も現場に滑り込んだ。


「少尉、また勝手に出撃して!」


「ごめんミカちゃん、でもあいつが呼んでたから」


フレンダの視線の先。

すり鉢の底、岩の上に鎮座する機体があった。

漆黒の装甲に三本の自律稼働兵装を揺らめかせる妖狐。

ウィアード・テイルズ。


「来たな、フレンダ」


コクピットハッチは閉じられているが、外部スピーカーからアイリーンの声が響く。


「よく来た、褒めてやる」


その口調にミカは違和感を覚えた。


(変っす、アイリーンにしては落ち着きすぎている。それにあの機体から発せられているプレッシャーは一体何なんすか?)


ミカの【イージス・カスタム】スーツのセンサーが、ウィアード・テイルズから放射される異常な通信波を捉えていた。

それは通常の操縦信号ではない。

もっと高密度で複雑な、まるで人間の脳波そのもののようなデータストリーム。


「アイリーン、もう止めようよ!戦っても意味ないじゃん!?」


フレンダが説得を試みる。

だがウィアード・テイルズはゆっくりと立ち上がり、三本のスペード・ロワーを展開した。


「意味ならある、これは『テスト』なんだ。ママが私を選んでくれた。私の身体の中に、ママがいるんだ!」


「「は?」」


フレンダとミカが同時に声を漏らす。

身体の中に、ママがいる?


「行くぞ、成功作ッ!!」


ヒュンッ!!

ウィアード・テイルズが消えた。

前回のようなステルスではない、純粋な機動スピードが桁違いに跳ね上がっている。


「速いッ!?」


フレンダが反応するよりも速く、死角からスペード・ロワーが襲い掛かる。


ガギィンッ!!


「くっ!」


インパルスは回避が間に合わず、左肩の装甲を削り取られた。

フレンダは即座に【アルゴス】センサーを起動し、敵の動きを追おうとする。

しかし。


「見えているんだろう?お前のその目は!」


アイリーンは、フレンダが視ることを前提に動いていた。

センサーの死角、反応速度の限界、インパルスの関節駆動の隙。

それらを完璧に計算し尽くした動きで、次々と攻撃を叩き込んでくる。


「なんで!?動きが全部読まれてる!?」


フレンダは焦る。

これはミヒャエルとの模擬戦とも違う。

まるでフレンダの思考回路、インパルスの性能、癖、その全てを知り尽くした設計者と戦っているような感覚だった。


防戦一方のインパルス。

【ヴォーパル・クロー】を振るう隙すら与えられない。

かつて圧倒したはずの相手に、手も足も出ない。


「あはは、凄い!凄いよママ!身体が軽い、次の動きが手に取るように分かる!」


アイリーンの狂喜の声が響く。

そして、追い詰められたフレンダたちが疑問を抱いたその時。

ウィアード・テイルズのスピーカーからもう一つの声が重なった。


『反応遅延、0.03秒。フレンダ、学習機能が低下しているのではないか?』


その声を聞いた瞬間、基地にいた時よりも強い悪寒がミカを襲った。

絶対にここにいるはずのない人間の声。

数時間前、死体となって発見されたはずの女の声。


「少佐!?」


フレンダが絶叫する。


『よく来たな、フレンダ。さすがは私の最高傑作だ』


ウィアード・テイルズのカメラアイが、赤く明滅した。

それはアイリーンの意志ではない。

機体を支配する、別の何かの意志だ。


「どういうことっすか!?あなたは死んだはずっす、死体を確認したっすよ!」


ミカが通信機に向かって叫ぶ。

少佐の声は、冷徹に答えた。


『死体?ああ、あの容器のことか。あんな脆弱な有機タンパクの塊に未練などない』


ウィアード・テイルズがまるで人間が腕を組むように、器用な仕草を見せる。


『私はSANATと取引をした。白堊理研の全データと引き換えに私の人格データを情報体へと変換し、このヘキサギアのKARMAとしてインストールさせたのだ』


「データを、インストール!?」


『そうだ。私は今、機械仕掛けの精神となり永遠の命を得た。そして、この器を介して世界に干渉している』


少佐はアイリーンのことを娘とも協力者とも呼ばない。

ただの器。

だが、アイリーン本人はそれに気づいていない。


「聞いたか、フレンダ!ママは私を選んだんだ、私と一つになったんだ!お前なんかじゃない!私こそが、ママの愛を受けるに相応しい娘なんだ!」


アイリーンの叫びはあまりにも哀れで、そして狂気に満ちていた。


『さて、フレンダ』


少佐の声がアイリーンの歓喜を遮るように響く。


『これは最終テストだ。私の演算能力とアイリーンの肉体。この融合個体を破壊し、私を超えてみせろ』


ウィアード・テイルズの三本の尾が鎌首をもたげる蛇のように展開される。

その先端には、プラズマチャージの輝きが宿っている。


『もし敗れれば、お前は失敗作として廃棄処分だ。失望させるなよ、最高傑作』


親の愛など欠片もない。

あるのは、自身の作り上げた作品の性能を極限まで試したいという、研究者としての冷酷なエゴのみ。

アイリーンの想いも、フレンダの心も、彼女にとってはただのパラメータに過ぎない。


その事実に。

フレンダの中で、何かが音を立てて切れた。


「うるさい……」


フレンダが低く呟く。

操縦桿を握る手が白くなるほど強く食い込む。


「テスト、テストって、いい加減にしてよ!」


インパルスのエンジンがフレンダの怒りに呼応するように唸りを上げた。


フレンダの怒りが沸点を超えた。

それは単なる感情の爆発ではない。

自身の存在を実験動物としてしか見ない少佐への拒絶。

そして何より、自分自身が人間であることを証明するための咆哮だった。


「私は、少佐の道具じゃない!」


インパルスのコクピット内でフレンダの瞳孔が開く。

野生の獣のような鋭い光が宿る。


『無駄だ。感情に任せた攻撃など、私の予測演算の前ではスローモーションに過ぎない』


少佐の嘲笑と共に、ウィアード・テイルズからプラズマ弾が放たれる。

正確無比。回避不可能な弾幕。

だが。



ガアァァァァァッ!!!

インパルスは回避しなかった。

真正面から弾幕に突っ込み、その装甲で受け止めたのだ。


『なっ!?』


少佐の演算に回避放棄という選択肢はなかった。

非効率。自滅行為。

だが、フレンダは痛みを無視して距離を詰める。


「私は、お腹が空いたら怒って!美味しいものを食べて笑う!」


ズドンッ!!

インパルスの体当たりがウィアード・テイルズを吹き飛ばす。

アイリーンの悲鳴と、少佐の驚愕の声が重なる。


「私は、ただの人間だァァァァッ!!!」


『馬鹿な、出力が規定値を超えている!?』


少佐の声に焦りが混じる。

インパルスの全身から、青白い燐光が立ち昇っている。

ゾアテックスの発露とも違う、もっと根源的な生命の熱量。


「うわぁぁぁぁっ!ママ、どうなってるの!?動きが読めない!」


アイリーンが錯乱する。

フレンダの動きはもはや戦術論理の枠を超えていた。

反射神経と直感のみで駆動する、純粋な獣の舞。


「捕まえた!」


フレンダはウィアード・テイルズの三本の尾を鷲掴みにした。


『離せ、機体の出力でお前ごときに』


「ごちゃごちゃ煩いんだよォォォッ!!」


メキメキメキッ……!!

インパルスの剛腕が最強の自律兵器をねじ切ろうとする。

フレンダは右前脚の【ヴォーパル・クロー】を起動させた。

リミッターなどとうの昔に外れていた。


「これで終わりだァッ!!」


ズギャァァァァァァァッ!!!

紅蓮の爪が、ウィアード・テイルズのコクピットごと機体を縦に両断した。


「が、あぁぁぁぁぁッ!!」


アイリーンの絶叫と、少佐の声が最後に響く。


『見事だ。予測不能の進化、やはりお前は……私の最高傑作だ』


それは敗北の言葉でありながら、自身の理論が証明されたことへの狂気じみた満足感に満ちていた。




ドッゴォォォォォンッ!!!

ウィアード・テイルズが爆散する。

爆煙が晴れるとそこには半壊したウィアード・テイルズの残骸が転がっていた。

コクピットハッチが吹き飛び、アイリーンが地面に投げ出されている。

彼女はピクリとも動かない。


「終わったっすか?」


ミカがインパルスに近づく。

フレンダは肩で息をしながら、静かにアイリーンを見下ろしていた。


その時。

アイリーンの周囲の空間に、幾何学的な光の紋様が浮かび上がった。

それは急速に収束し、一つの巨大な「目」のようなホログラムを形成する。


『見事な資質だ、フレンダ・ディーコン』


大地を震わすような音。

それは個人の声ではない。世界の理そのものの響き。


「誰?」


フレンダが身構える。

ミカは青ざめた。その識別コードを知っていたからだ。


「SANAT、MSGヴァリアントフォースを統べる人工知能。この世界の『管理者』っす」


SANATの瞳がフレンダを見据える。


『ヴァネッサの理論は正しかったようだ。お前という個体には、特異な進化の可能性がある。フレンダ・ディーコン。お前を歓迎しよう』


「歓迎?」


『そうだ。お前を情報体へと転換し、ジェネレーターシャフトの守護者として迎え入れる。肉体という檻を捨て、永遠の命と無限の演算能力を与えよう』


それは人類にとって究極の進化であり、救済の提案だった。

老いも、病もない、死もない世界。

少佐が渇望し、自らの命を捨ててまで手に入れた領域だった。


「やだ」


フレンダは即答した。

一秒の迷いもなかった。


『理由は死への恐怖か?それとも個の消失への懸念か?』


「違うよ」


フレンダはインパルスから降り、SANATの巨大な瞳を睨み返した。


「だって、ご飯食べられないじゃん」


『……何を言っている?』


SANATの演算に、一瞬のラグが生じる。


「私は美味しいものを舌で味わって、お腹いっぱい食べたいの!データになったらステーキの味も、プリンの甘さも分かんないでしょ!?」


フレンダは真剣だった。

彼女にとって生きるとは、ただ存在し続けることではない。

美味しいものを食べ、感動し、明日への活力を得ること。

その循環の中にこそ、彼女の人間としての尊厳があった。


「そんなの死んでるのと一緒だよ。私は美味しいご飯を食べるために生きてるんだもん!」


沈黙。

世界最強の人工知能と、世界一食いしん坊な少女の対峙。

やがて、SANATの瞳から光が失われていく。


『理解不能だ、低俗な有機的欲求を優先するとは。失望した』


SANATの声から、フレンダへの興味が完全に消え失せる。

SANATにとって論理的でない存在は、ただのノイズでしかない。


『いいだろう、その不完全な肉体と共に無意味な代謝を繰り返して朽ちるがいい』


ホログラムが霧散し、SANATの気配が消滅した。

神からの勧誘は、食欲というあまりにも生物的な理由によって拒絶されたのだ。






SANATが去り、荒野に風の音が戻る。

地面に倒れていたアイリーンが微かに呻き声を上げた。


「……う、ぅ……」


「アイリーン!」


フレンダが駆け寄る。

アイリーンは致命傷を負っていた。もう助からないことは明白だった。


「……ママ、ママは?」


アイリーンの瞳が虚空を彷徨う。

彼女はまだ、少佐を探していた。


「……ここにはもういないよ、いなくなっちゃった……」


フレンダが悲痛な声で告げる。

アイリーンはその言葉を理解できたのか、できなかったのか。

彼女の視線がゆっくりとフレンダに向けられる。


「……憎い…。お前だけが、愛されて……」


それは呪詛だった。

だが同時に、自分と同じ顔をした姉妹への最初で最後の甘えのようにも聞こえた。


「……私は、最高傑作に、なりたかった……」


アイリーンの手がフレンダの頬に触れようとして、力尽きた。

その瞳から光が消える。

検体E。廃棄された失敗作と呼ばれた少女のあまりにも孤独な最期だった。


「……さよなら、アイリーン」


フレンダはアイリーンの瞼を閉じ、その手を握った。

涙は出なかった。

ただ、胸の中にぽっかりと穴が開いたような静かな喪失感があった。


「……帰るっすよ、少尉」


ミカが声をかける。

彼女もまた敬礼を捧げ、アイリーンの亡骸を見送った。

これ以上の感傷は、戦場では命取りになる。


「うん」


フレンダは立ち上がり、ボロボロになったインパルスへと歩き出す。

全ての因縁は断ち切られた。

少佐も、アイリーンも、もういない。

残されたのは自分たちと終わりのない明日だけだ。


「ねえミカちゃん」


インパルスのコクピットでフレンダが呟く。


「お腹すいたね」


「そうっすね、基地に帰ったら特大のオムライスを作るっす」


「わーい、ケチャップたっぷりでね!」


フレンダの声にいつもの明るさが戻る。

それは無理をしているのかもしれない。

けれど、食べて、寝て、笑うこと。

それこそが、彼女が選び取った人間としての生き方なのだ。

二人の乗るインパルスが、夕日に染まる荒野を駆けていく。

その背中には、もう誰の影も憑いてはいなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ