【ウサギたちの隠れ家】
白堊理研第8基地、リトルベース。
その朝は、不気味なほど静かだった。
いつもなら午前7時を回れば格納庫兼居住区のどこかから、「お腹すいたー!」だの「ミカちゃん、ご飯まだー?」だのといった騒々しくも平和なアラームが響き渡るはずである。
しかし、今日のリトルベースを支配しているのは空調設備の低い駆動音と、遠くで鳴く野鳥の声だけだった。
「ん」
ミカ・フォルクス少尉は、薄い毛布を押しのけて身を起こした。
サイドテーブルの時計を確認する。07:30。
完全に寝坊の域だ。しかし、誰も起こしに来なかった。
「珍しいっすね、少尉が私より遅くまで寝てるなんて」
ミカはあくびを噛み殺し、洗面所で顔を洗った。
鏡に映る自分の顔を見る。
先日の「白堊理研第3実験棟」での任務。マザー・ラビット討伐作戦の疲労は、肉体的には回復していた。
だが、あの悲しい白い光景はまだ瞼の裏に焼き付いている。
(少尉、大丈夫だったっすかね?)
昨夜のフレンダは任務のショックなど忘れたかのように、出された夕食を平らげていた。
「甘いね」とチョコをかじった彼女の笑顔。
それはミカを安心させるための演技だったのか、それとも本当に強靭な精神力ゆえなのか。
ミカはタオルで顔を拭き、キッチンへと向かった。
とりあえず、フレンダの分も含めて朝食を作らなければならない。
「おーい、少尉。起きるっすよ。今日は合成卵のオムレツっす」
返事はない。
ミカは眉をひそめ、フレンダの寝室のカーテンを開けた。
「はい?」
そこには、誰もいなかった。
ベッドは綺麗に整えられている。いや、正確にはフレンダにしては頑張って直した形跡があり、シーツの端が少しよれている。
そして、枕元にある小さなサイドテーブルには、見慣れない一枚のメモ用紙と山のような空っぽの菓子袋が置かれていた。
ミカはメモを手に取った。
そこには、フレンダ独特の、丸っこくて今にも踊り出しそうな文字でこう書かれていた。
『ミカちゃんへ。
ちょっと実家に帰らせていただきます。
探さないでください。
冷蔵庫のプリンは全部食べました。ごめんね!
フレンダより』
「は?」
ミカの思考が数秒間停止した。
実家。ジッカ。JIKKA。
「実家って、何っすかァァァッ!?」
ミカの絶叫が、無人の基地に木霊した。
フレンダ・ディーコンは「検体F」。白堊理研の試験管の中で生まれ、研究所で育った天涯孤独の身だ。
彼女に帰るべき実家など存在するはずがない。
あるとすれば、それは忌まわしい実験施設か少佐の元くらいだ。
「まさか少佐のところに!?いや、それなら『探さないで』なんて書かないはずっす!」
ミカは慌てて格納庫へ走った。
そこにあるはずの深蒼の機体、ロード・インパルス【Reloadead】の姿が消えていた。
代わりに、床にはタイヤの跡がくっきりと残り基地のゲートへと続いている。
「やられたっす、深夜のうちにメイを説得して出て行ったんすね!」
ミカはその場に崩れ落ちそうになったが、すぐに気を取り直して端末を操作した。
インパルスのGPS信号を追跡する。
しかし、画面に表示されたのは『NO SIGNAL』の無情な文字だけだった。
「ステルスモード、本気っすか。あのお腹ペコペコ怪獣が黙ってどこへ?」
ミカは空になったプリンの容器を握りつぶし、荒野の彼方を睨みつけた。
「帰ってきたら説教とお仕置きっすよ、フレンダ少尉」
その声は怒っていたが、その瞳には隠しきれない不安の色が揺れていた。
その頃、フレンダは深い緑の中にいた。
リトルベースから数百キロ離れた森林地帯。
かつての戦争で汚染され、人が立ち入らなくなったとされるエリアだが、実際には植物たちが独自の浄化作用で大地を覆い隠し、豊かな生態系を取り戻していた場所だ。
ザッ……ザッ……。
ロード・インパルス【Reloadead】はその巨体を感じさせない繊細な足取りで、巨大なシダ植物の森を踏み分けていた。
エンジン音は極限まで絞られ、環境音に溶け込んでいる。
「ん~、いい匂い!」
コクピットからフレンダは、胸いっぱいに森の空気を吸い込んだ。
リトルベースの乾いた土とオイルの匂いとは違う。
湿った土、腐葉土、樹液、そして名も知らぬ花々の甘い香り。
それは彼女の細胞一つ一つを活性化させるような、生命の匂いだった。
『フレンダ、現在位置は地図データに存在しません。これ以上の深入りは、あのヘテロドックスや自律兵器との遭遇リスクを高めます』
コンソールから、KARMAのメイが冷静に警告する。
だが、フレンダは悪戯っぽく笑ってモニターを指さした。
「大丈夫だよ、メイ。あのヘテロドックスのところに行くんだから、匂いを辿ってね」
フレンダの嗅覚は最新鋭のセンサーをも凌駕する。
彼女が追っているのは匂いだけではない。風に乗って流れてくる、微かな懐かしさ。
そして、自分と同じ根源を持つ者たちが発する温かい波動だった。
先日の任務で、彼女はマザー・ラビットという悲しい姉妹をその手で葬った。
ミカは「救ったんだ」と言ってくれた。
チョコは甘かった。
でも、心のどこかに開いた風穴はまだヒューヒューと冷たい風を通していた。
(お母さんに、会いたいな)
ふと、そんな思いがよぎった。
少佐ではない。
もっと根源的な、自分の命の火を分けてくれた存在。
フレンダは以前、一度だけこの森を訪れたことがあった。
その時の記憶がまるで磁石のように彼女を引き寄せている。
「見えてきた」
鬱蒼とした木々の隙間から、不自然なほど濃い霧が立ち込めているのが見えた。
それは自然現象ではない。高度な電子撹乱幕だ。
外からの視線を遮り侵入者のセンサーを狂わせる不可視の城壁。
フレンダは躊躇なく、その霧の中へとインパルスを進めた。
霧を抜けて、空気の質が変わった。
それまでの湿気を含んだ重い空気から、凛と澄み渡った清涼な気配へと。
そこは、巨大な岩盤と大木が天然の要塞を形成している森の奥の開拓地だった。
苔むした旧時代の人工物と、力強く根を張る巨木が融合し独特の景観を作り出している。
こここそが、世界から隠されたサンクチュアリへの入り口だった。
インパルスのセンサーが前方の熱源反応を捉えた。
「よう。久しぶりだな、お転婆娘」
太い幹に背を預け、紫煙を燻らせている男がいた。
身の丈が180強の、筋骨隆々の巨躯。
擦り切れたコンバットスーツの上からでも分かる鍛え上げられた筋肉。
男は咥えていたタバコを指で摘まみ、ゆっくりと白い煙を吐き出した。
この集落の警備隊長、ミヒャエルである。
「ミヒャエルおじさん!」
フレンダが声を上げるとミヒャエルはニヤリと口角を上げた。
その声は、戦場を渡り歩いてきた古強者特有の色気と、余裕を含んだ響きを持っていた。
「おじさんは余計だ、相変わらず面白そうなヤツに乗ってるじゃねえか」
ミヒャエルの視線が、ロード・インパルス【Reloadead】に向けられる。
彼の背後、木の陰には漆黒と深紅に塗装されたウサギ型のヘキサギア「ウーンドウォート」が、いつでも飛び出せる体勢で待機していた。
「今日はどうした、腹減らして迷い込んだのか?それとも、外の世界が嫌になったか?」
ミヒャエルは冗談めかして言うが、その瞳は鋭く周囲を警戒している。
追っ手がいないか。彼女が脅されていないか。
一瞬でそこまで見抜く洞察力。
彼は元々SANATの管理下を離れた、はぐれパラポーン・ミラーだ。
機械化されたその肉体は、戦闘のために最適化されている。
「ううん、ただの里帰り。お土産持ってきたよ。あ、来る途中で半分食べちゃったけど」
フレンダがテヘへと舌を出すと、ミヒャエルは呆れたように肩をすくめた。
「半分しか残ってないなら、簡単に通すわけにはいかねぇな」
「あら、ミヒャエル。いじめちゃ駄目よ?」
涼やかな声と共に、木の上から一人の女性が軽やかに降り立った。
流れるような金髪に透き通るような碧眼。
モデルのようなプロポーションを包むのは実用的な作業用ジャンプスーツだが、その着こなしには洗練された品格が漂っている。
交易担当のジェーン。
元リバティー・アライアンスのアビス探索部隊員であり、今は戦いを捨ててこの集落に身を寄せている生身の人間だ。
彼女もまた細いメンソールタバコを指に挟んでいた。
この集落の入り口はどうやら喫煙所も兼ねているらしい。
「ジェーンお姉ちゃん!」
「ふふ、いらっしゃいフレンダ。随分と逞しくなったわね、いい顔をしてる」
ジェーンはフレンダの頬に手を伸ばし、優しく撫でた。
その手は温かく、火薬の匂いと、微かに香水の匂いがした。
「元気だった?相棒さんは一緒じゃないの?」
「うん、今日は一人だよ。ミカちゃんには、えっと、書き置きしてきた」
「書き置き?あらあら、それは後で怒られるわね」
ジェーンはクスクスと笑い、ミヒャエルに目配せをした。
「ゲートを開けるわ、行ってあげて。長が朝からソワソワして落ち着かないのよ」
「へぇ、お母さんが?」
「ええ、「今日は風の匂いが違う」って。貴女が来るのを予感していたみたい」
ミヒャエルがタバコを携帯灰皿に押し込み、巨大な蔦で覆われた岩壁の一部を操作した。
ゴゴゴゴ……という重低音と共に、岩がスライドし、その向こうに広がる景色が露わになる。
「さあ、行けよお転婆娘。ここから先は『うさぎたちの隠れ家』。お前の、俺たちの故郷だ」
ミヒャエルの言葉に背中を押され、フレンダはインパルスをゆっくりと前進させた。
岩の向こうから溢れ出してくるのは、圧倒的な光と緑の匂い。
そして、無数の小さな命の気配だった。
(ただいま)
フレンダは心の中でそう呟き、アクセルを踏んだ。
懐かしい実家の風景が、彼女を迎え入れようとしていた。
岩のゲートを抜けた瞬間、フレンダの視界は圧倒的な緑と光に包まれた。
そこは、まるで絵本の中から飛び出してきたような風景だった。
巨大なクレーター状の地形を利用した盆地。
その中心には天を衝くほどの巨大な古木・世界樹のような大樹がそびえ立っている。
その根元から湧き出る清流が血管のように里全体を潤し、キラキラと陽光を反射していた。
木組みの家々が斜面に並び、手入れの行き届いた畑では色とりどりの野菜が実っている。
そして何より目を引くのは、至る所で跳ね回る無数のウサギたちだった。
白、黒、茶色、ブチ模様。
何百、いや何千匹いるのだろうか。
彼らは人を恐れる様子もなく、道端で昼寝をしたり、畑の作物を齧ったりしている。
「うわぁ、いつ見てもすごい」
フレンダはゆっくりと集落のメインストリートを進む。
すれ違う住人たち。生身の人間や機械の体を持つはぐれ情報体たちが、笑顔で手を振ってくる。
「お帰り、フレンダ!」
「また大きくなったか?」
「後でウチの畑においで、イチゴが食べ頃だよ!」
ここには、外の世界に蔓延る敵意や恐怖が一切存在しない。
ただ、穏やかな時間だけが流れている。
フレンダは集落の中心、あの大樹の広場へとインパルスを停めた。
そこには、無数のウサギに埋もれるようにして一人の少女が立っていた。
少女の身長は140とちょっと。フレンダよりもずっと小柄だ。
金色のショートヘアに、大きなウサギ耳のついたシルクハット。
背中には奇術師のような燕尾服を纏い、小さな手には身の丈に合わない杖を持っている。
この集落の長であり、フレンダの遺伝子上のオリジナル。
フリーテルである。
彼女は腕を組み、精一杯の威厳を作って待ち構えていた。
その凛とした声が響く。
「遅かったじゃないか、フレンダ。僕の可愛い娘が帰ってくるというのに、待ちくたびれて苔が生えるところだったよ」
フリーテルはカッコよくマントを翻し、フレンダの方へ歩み寄ろうとした。
だが、その足元にはのんびりと寝そべる巨大なアンゴラウサギがいた。
「あっ」
ドテッ!!!
盛大な音が広場に響いた。
フリーテルは顔面から地面にダイブし、シルクハットがコロコロと転がっていく。
「ぶべっ!?」
静寂。
そして、フレンダの爆笑が弾けた。
「あはははは!お母さん、ダサいー!」
「わ、笑うな!これは高度な受け身の練習で、痛っ!」
起き上がろうとするフリーテルに、インパルスから飛び降りたフレンダがタックル気味に抱きついた。
「お母さーん!!会いたかったー!!」
「ぐえぇっ!?ちょ、フレンダ!重い、骨が折れる、僕は不死身だけど痛いものは痛いんだよ!」
フレンダはフリーテルの小さな体を強く抱きしめ、その匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
日向の匂いと、古い書物の匂い。
そして、どんな高級な香水よりも安心する母の匂いだった。
「ただいま、お母さん」
「ああ。お帰り、僕の白ウサギ」
フリーテルは観念したように力を抜き、土まみれの手でフレンダの背中を優しく叩いた。
その眼差しはドジな姿とは裏腹に、海のように深く慈愛に満ちていた。
「相変わらず締まらない再会ね」
呆れたような、しかし鈴を転がすような声が降ってきた。
大樹の根元から一人の女性が歩いてくる。
フレンダと同じ輝く金髪だが、彼女はそれを腰まで届くロングヘアにしている。
整った顔立ちもフレンダと瓜二つだが、その表情には理知的な大人の余裕がありフレンダのような野生児っぽさはない。
彼女の名はクラリス。
フリーテルの体細胞から株分けされたクローンであり、フレンダにとっては姉のような、あるいは叔母のような存在だ。
「クラリス!」
「いらっしゃい、フレンダ。貴女が来るからって、姉さんったら朝から5回も着替えていたのよ?「娘にかっこいい所を見せるんだ」って」
クラリスは転がっていたシルクハットを拾い上げ、埃を払ってフリーテルの頭に乗せた。
「余計なことを言うんじゃないよ、クラリス!僕は常に威厳ある長として振る舞っているだけだ!」
「はいはい、さあ立ってください長。折角のご馳走が冷めてしまいますよ?」
クラリスは手際よくフリーテルの服の土を払い、フレンダに向き直ってウインクした。
「すごいご馳走を用意したわ、貴女の胃袋でも食べきれるかしら?」
フレンダの瞳がサーチライトのように輝いた。
「食べる、私お腹ペコペコなの!」
広場に並べられた長いテーブルには見たこともないような饗宴が広がっていた。
採れたての野菜のサラダ。トマトは宝石のように赤く、レタスは瑞々しい。
川魚の塩焼きからは食欲をそそる香ばしい煙が立ち上っている。
ジェーンが仕入れてきたという巨大な猪の丸焼きは、黄金色の皮がパリパリと音を立てていた。
そして、カゴいっぱいの焼き立てパンと新鮮なベリーのジャム。
リトルベースの味気ない合成栄養ブロックやレトルト食品とは次元が違う命の味だ。
「いっただっきまーす!!」
フレンダは両手にパンと肉を持ち、交互に頬張った。
「ん~~っ、おいし~い!!」
「ははは、相変わらずいい食いっぷりだ。見てて気持ちがいいな」
ミヒャエルが豪快にビールジョッキを傾けながら笑う。
彼はパラポーンであるため厳密には食事を必要としないが、この集落では生きる楽しみとして嗜好品を口にすることを良しとしていた。
「ゆっくりお食べ、フレンダ。誰も取ったりしないよ。まあ、君から奪える奴なんてこの森にはいないだろうけどね」
フリーテルは紅茶を啜りながら、愛おしそうにフレンダを見つめている。
彼女の皿にはニンジンが一本だけ乗っていた。
「お母さんは食べないの?」
「僕は君の笑顔だけで十分さ。それに、最近ちょっとウエスト周りがね」
「嘘よ、昨日夜中に隠れてクッキー缶を空けていたのを知っています」
クラリスが冷ややかに突っ込むと、フリーテルは「ぶっ!」と紅茶を吹き出した。
「な、なぜそれを!?」
「お菓子のくずがベッドに落ちていましたから。長、威厳というのは体型管理から始まるんですよ」
「うぐぐ、クラリス。君は時々お母さんより厳しいよ」
平和な会話。笑い声。
フレンダは口いっぱいに料理を詰め込みながら胸の奥が温かくなるのを感じていた。
先日の任務で感じた悲しい匂いが、ここの美味しい匂いに上書きされていく。
(ここには、悲しいことなんて何もない)
そう信じたかった。
しかし、戦士としての本能は平和な時間の中でも錆びつくことはない。
宴もたけなわとなった頃。
ミヒャエルがジョッキを置き、ふと真面目な顔つきになった。
「さて、腹も満たされたことだし。少し運動といこうか、お転婆娘」
「運動?」
フレンダが首をかしげると、ミヒャエルは顎で広場の端を指した。
そこには、彼の愛機・ウーンドウォートが駐機されている。
ウィアード・テイルズをベースに改修されたウサギ型のカスタム機だ。
「リトルベースで随分と腕を上げたって噂だ。大食い大会優勝だけじゃなく、白堊理研の実験場も潰したんだろ?」
その言葉に、フレンダの手がピクリと止まった。
ミヒャエルの目は、笑っているようでいて戦士の光を宿していた。
「知ってるの?」
「俺たちは隠居してるが、耳まで塞いじゃいない。お転婆娘、その新しい爪が飾りじゃないなら見せてみな。俺が相手になってやる」
それは単なる余興ではない。
傷ついたフレンダの心を戦士として再確認させるための儀式だった。
フレンダはパンを飲み込み、ニカっと笑った。
「望むところだよ、ミヒャエルおじさん!デザートの運動にはちょうどいいかも!」
「へっ、言うじゃねえか。泣いても知らねえぞ、お転婆娘!」
集落から少し離れた開けた草原地帯。
そこは普段住民たちの農作業用ヘキサギアの整備スペースとして使われている場所だが、今は即席の闘技場と化していた。
向かい合う二機のヘキサギア。
一方は、深蒼の装甲と巨大な爪を持つ獣、ロード・インパルス【Reloadead】。
もう一方は、漆黒のボディに長い耳のようなブレードアンテナ、そして三本の尾を持つ機体、ウーンドウォート。
『システム・オールグリーン、対戦モード起動。フレンダ、相手は第三世代のカスタム機です。油断なきよう』
メイの冷静なアナウンスが響く。
フレンダは操縦桿を握り直しニカっと笑った。
「分かってるよ、メイ!相手がおじさんだからって手加減なしだもんね!」
対するウーンドウォートのコクピット。
ミヒャエルは新しいタバコに火を点けず耳に挟んだ。
『パイロット、心拍数正常。推奨戦術パターンC。相手は若く直線的です。翻弄し、自滅を誘うのが効率的かと』
ウーンドウォートに搭載されたKARMAは重厚で厳格な男性の人格を持っていた。
「相変わらず可愛げのないKARMAだ。だが、たまには教育的指導も悪かねえ。行くぞ、お転婆娘!」
ドォォォン!!
合図と同時に、インパルスが爆発的に加速した。
フレンダの戦い方はシンプルだ。
圧倒的なスピードとパワーで距離を詰め、噛み砕く。
それが検体Fとしての最適解だ。
「捕まえたッ!」
インパルスが右前脚を振り上げる。【ヴォーパル・クロー】が起動し、空気を切り裂く唸りを上げる。
だが。
フッ。
ウーンドウォートの姿が掻き消えた。
いや、消えたのではない。
インパルスが飛び掛かる寸前、最小限の動きでサイドステップを踏み、さらに背面のブースターを短く吹かして死角へ回り込んだのだ。
「えっ!?」
「速いだけじゃダメだぜ、動きが見え見えだ!」
ガギィン!!
脇腹に衝撃が走る。
ウーンドウォートの尾、スペード・ロワーの一撃がインパルスの装甲を叩いた。
斬撃ではなく、打撃。
あくまで訓練としての手加減だが、インパルスの巨体が大きくよろめく。
「痛っ!ううっ、ちょこまかと!」
『警告。敵機、こちらの予測軌道を先読みしています』
「だったら全部見える目で追うだけだよ、【アルゴス】起動!」
フレンダはセンサー出力を最大にした。
視界に赤いラインが走る。
ウーンドウォートの隠れている場所、スペード・ロワーの軌道、全てが見える。
「そこだぁぁぁッ!!」
フレンダは振り返りざまにチェーンガンを掃射した。
だが、ミヒャエルはそれすら読んでいた。
「いい装備だ、だが見えてるからって当たるわけじゃねえ」
ウーンドウォートは三本のロワーを盾にし、弾丸を弾きながら突っ込んでくる。
そしてインパルスの懐、ヴォーパル・クローの間合いの内側へ滑り込んだ。
「なっ、近すぎ!?」
「懐が甘いぞ!」
ミヒャエルはウーンドウォートの脚部でインパルスの軸足を払い、体勢を崩させたところにゼロ距離からパイルバンカーを脇腹に突き当てた。
ドスッ!!
「ぐえっ!?」
インパルスが地面に転がる。
フレンダはコクピットの中で目を回した。
「あーあ、一本取られた」
『被弾判定、致命傷。完敗です、フレンダ』
ミヒャエルはウーンドウォートのハッチを開け、勝ち誇ったように笑った。
「へっ、いい線いってたがまだまだ青いな。その新しい爪と目は強力だが頼りすぎだ。装備に使われるな、使いこなせ」
「むぅ、おじさん大人げない!」
フレンダが頬を膨らませて抗議しようとした、その時だ。
「あらあら、随分と楽しそうじゃない?」
空からもう一つの影が降ってきた。
白とピンクのカラーリングが施された、ウサギ耳のロード・インパルス。
クラリスの愛機・ヘイズルだ。
『ヤッホー、お祭り!?お祭りなの!?ボクも混ぜてよー、跳ねたい、飛びたい!』
ヘイズルのKARMAは、底抜けに明るい子供のような人格だった。
「クラリス!?」
「ミヒャエルだけズルいわ。私だって、可愛い姪っ子と遊びたいもの」
クラリスは優雅に微笑むと、ヘイズルのスラスターを全開にした。
「行くわよ、ヘイズル!三つ巴のバトルロイヤルよ!」
『イェスマム!レッツ・パーティ!!』
「ええっ!?ちょ、待って!」
フレンダが体勢を立て直す間もなく、ヘイズルがピンボールのように跳ね回りながら突っ込んでくる。
ミヒャエルも苦笑いしながら構え直す。
「やれやれ、一番の獣はあいつかもしれねえな」
こうして、模擬戦は泥んこ遊びのような大乱闘へと発展していった。
森に響くのは、爆音と、そして三人の笑い声だった。
空の真上に月が昇る頃。
祭りの後の静寂が、ウォーターシップ・ダウンを包み込んでいた。
大樹の根元にあるフリーテルの自宅。
そのテラスにあるロッキングチェアに、フレンダは身を預けていた。
いや、正確にはフリーテルの膝の上に頭を乗せていた。
「んー、お母さんいい匂い」
「そうかい?土と薬草の匂いしかしないと思うけど」
フリーテルは穏やかに微笑みながら、フレンダの金色の髪を梳いている。
模擬戦で暴れ回り泥だらけになった髪を、クラリスが洗ってくれた後だ。
今はサラサラとして、月の光を受けて輝いている。
フレンダの体は大きく、フリーテルの体は小さい。
普通なら膝枕など無理があるサイズ差だが、不思議と収まりが良かった。
それはフリーテルが持つ、母としての絶対的な包容力ゆえだろう。
「強くなったね、フレンダ」
フリーテルがポツリと言った。
「うん、でも今日ミヒャエルおじさんに負けちゃった」
「勝ち負けの話じゃないよ、心の強さの話さ」
フリーテルの手が止まる。
彼女の指先が、フレンダの頬に触れた。
「フレンダが来る時、泣きそうな匂いがした。外で辛いことがあったんだね?」
フレンダは小さく頷いた。
マザー・ラビットのこと。自分と同じ細胞を持つ怪物たちをその手で葬ったこと。
ミカが救ったと言ってくれたけれど、それでも消えない胸の痛み。
「私、殺しちゃった。お母さんの、子供たちを」
フレンダの声が震える。
フリーテルは何も言わず、ただ優しくフレンダの頭を抱きしめた。
「フレンダ。命というのはね、ただ呼吸をしていることじゃないんだ」
フリーテルは夜空を見上げた。
そこには満天の星が瞬いている。
「あの子たちは、僕の『迷い』だった。生きたい、愛されたいと願いながら、形になれなかった悲しい夢。それを終わらせてあげられるのは、同じ夢を見て、そして目覚めることができた君だけだったんだ」
「私が、終わらせてよかったの?」
「ああ。君が引導を渡したことで、あの子たちは戻れたんだ。僕の元へ」
フリーテルは自身の胸に手を当てた。
不老不死の怪物の体。
その中には、数多の死と生が渦巻いている。
「だから自分を責めることはない。君は誰も殺していない、魂をあるべき場所へ送っただけさ」
フリーテルが口ずさむように歌い始める。
それは古い子守唄。
かつて白堊理研の実験室で自我が崩壊しかけたフレンダに、テレパシーのように歌って聞かせた旋律。
フレンダのまぶたが重くなる。
胸の奥に刺さっていた冷たい棘が、母の体温で溶けていくようだった。
「うん。ありがとう、お母さん」
フレンダの寝息が聞こえ始めると、フリーテルは愛おしそうに彼女の額にキスをした。
「おやすみ、僕の愛しい白ウサギ。いい夢を見るんだよ」
翌朝。
ウォーターシップ・ダウンの入り口には、山のような荷物を積んだインパルスの姿があった。
「もしかして、これ全部お土産?」
「そうよ。新鮮な野菜に燻製肉、ジャムにハーブティー。それからミヒャエル特製のサラミもね」
ジェーンとクラリスがインパルスのコンテナに入りきらないほどのお土産を詰め込んでいる。
「お転婆娘、また来いよ?次は一本取らせてやるよ」
ミヒャエルがニカッと笑いタバコの煙を吐く。
「うん、絶対また来る!お母さん、元気でね」
フレンダが振り返ると、フリーテルが杖をついて立っていた。
彼女はもうドジな少女ではない。
一族を束ねる長としての凛とした表情をしていた。
「行きなさい、フレンダ。君の居場所はここじゃない。待っている人がいるあそこだ」
フリーテルが指差した先。
森の出口の向こうには、ミカが待つリトルベースがある。
「うん、行ってきます!」
フレンダは大きく手を振り、インパルスを発進させた。
ゲートが閉まる瞬間まで、彼女は振り返り続けた。
数時間後、リトルベース。
「遅いっす」
ゲートの前で仁王立ちするミカの前に、葉っぱだらけのインパルスが滑り込んだ。
コックピットからフレンダが飛び出してくる。
「ミカちゃーん、ただいまー!」
「無断欠勤丸二日、書き置き一枚で失踪、連絡もなし、どれだけ心配したと思ってるんすか!?」
ミカの雷が落ちる。
しかし、その目尻には涙が滲んでいた。
「ご、ごめんね!でもでも、お土産いっぱいあるよ?新鮮な野菜とお肉で今夜はご馳走だよ!」
フレンダがコンテナを開けると、そこから溢れんばかりの食材が転がり落ちた。
その中にはミカが好きな高級茶葉や、美容に良いハーブも混ざっている。
「……はぁ、これじゃ怒る気も失せるっす」
ミカは溜息をつき、フレンダの顔を見た。
里帰り前の、どこか影のある表情は消えていた。
今の彼女の顔は朝日に照らされた向日葵のように明るい。
「いい顔になったっすね、少尉」
「えへへ、そうかな?実家でパワーチャージしてきたの!」
「実家……。まあ、そういうことにしておくっす。さあ、荷下ろしを手伝うっすよ。今夜は特製シチューっす」
「やったー!」
荒野に二人の笑い声が響く。
フレンダの心にはもう迷いはない。
遠くの森で祈る母と、隣で支えてくれる相棒がいる限り、白ウサギはどこまでも駆けていけるのだ。




