表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/36

【白堊の休息と残響の悪臭】

白堊理研第8基地リトルベース・第3医療棟。


その奥にある特別隔離病室は、本来であれば未知のウイルス感染者を収容するための施設だ。

現在、ここには一人のガバナーが収容されていた。


ミカ・フォルクス少尉。

病名は急性嗅覚過敏症および精神的トラウマ、原因:腐敗マグロ。


「空調、正常。湿度、45%。不純物、ゼロ」


ベッドの上で、ミカは虚ろな目で室内のモニターを監視していた。

彼女は患者衣の上からさらにマスクをし、鼻には特製のフィルターを詰めている。

あの「幽霊船」の冷凍庫で嗅いでしまった、半年間熟成されたドロドロの腐敗液の臭い。

それがまだ鼻の奥にこびりついて離れないのだ。


プシューッ。

エアロックが開き、防護服を着た看護師が入ってきた。


「ミカ少尉、面会の方が来ていますよ」


「面会、誰っすか?」


ミカが身構えるのと同時に、看護師の後ろから金髪のボブカットがひょいと顔を出した。


「やっほー、ミカちゃん。生きてるー?」


フレンダ・ディーコン少尉だ。彼女は元気そのものだった。

手には見舞いの品らしい毒々しい色のエナジードリンクと、スナック菓子の袋を持っている。


「!!?」


ミカの目が限界まで見開かれた。

彼女には見えた。

フレンダの背後に、あの幽霊船の緑色の粘液と腐った魚の怨念がオーラのように漂っているのが。


「く、来るなァァァッ!!」


ミカはベッドの上に立ち上がり枕を投げつけた。


「えっ、なに!?敵襲!?」


「少尉っすよ!臭いっす!まだあの船の臭いが染み付いてるっす!私の無菌室を汚すなっすゥゥッ!!」


「えー、そんなことないよ?ちゃんと基地のシャワーを3回も浴びたんだよ?ほら、嗅いでみてよ!」


フレンダが無邪気に近づいてくる。

ミカにとっては、それはバイオハザード級のテロ行為だった。


「近寄るなっす!警備兵、塩を撒けっす!火炎放射器を持ってくるっすー!!」


隔離病棟にミカの悲鳴とナースコールが響き渡った。


一方、第4格納庫。

ここもまた、阿鼻叫喚の地獄と化していた。


「ふざけんなよ。おい、ふざけんなよ!」


整備班長のガルドは、震える手で愛用のスパナを握りしめていた。

彼の目の前には、フレンダの愛機ロード・インパルス・アビスが鎮座している。


だが、その姿は無残だった。

機体全体がヌルヌルとした油膜で覆われ、装甲の隙間からは茶色い液体が垂れている。


そして何より、臭い。

半径50メートル以内に近づく整備員たちが次々と嘔吐し、倒れていくレベルの悪臭だ。


「俺が!俺が手塩にかけて調整したインパルスを!走る生ゴミにしやがってェェェッ!!」


ガルドの怒号が格納庫を揺らす。

そこへ、病院を追い出されたフレンダが戻ってきた。


「あ、整備班長!インパルスはどう、もう直った?」


その能天気な声を聞いた瞬間、ガルドのこめかみで血管が切れる音がした。


「直ったか、じゃねぇ!!見ろこの惨状を!腹部のカーゴスペース、なんでここが一番臭ぇんだ!お前、ここに何を詰め込んだ!?」


フレンダは視線を逸らし口笛を吹こうとしたが、ガルドの背後の鬼気に怯えて白状した。


「えっと。マグロだったもの、です」


「だったもの、じゃねぇ!精密機器の塊に、腐敗した液体を流し込む馬鹿がどこにいる!?センサーも配線も全部ショート寸前じゃねぇか!」


『補足します、ガルド班長』


インパルスからKARMAメイが冷静な声で告げ口をする。


『フレンダは「もしかしたら食べられる部分が残っているかも」と言って、腐敗したコンテナを無理やりカーゴに押し込みました。その際、液漏れが発生しフレーム内部に浸透した模様です』


「メイーッ!?裏切ったなー!?」


「やっぱりてめェかァァァッ!!」


ガルドがスパナを振りかざして突進してくる。

フレンダは野生の反射神経でそれを回避し、インパルスの影に隠れた。


「待って、悪気はなかったの!食料廃棄は重罪だと思って!」


「整備不良は死罪だッ!いいかフレンダ、罰としてお前も手伝え!この臭いが取れるまで、飯抜きで洗浄作業だ!」


「ええええっ!?ご飯抜きだけは勘弁してぇぇ!」


「問答無用だ!ブラシ持ってこい、フレームの溝の一つ一つまで磨き上げるんだよ!」


こうして、リトルベースの休日は消毒液と洗浄剤、そして男たちの怒号と少女の悲鳴で幕を開けた。

だが、フレンダはまだ知らない。

この後、彼女の上官によるもっと恐ろしい叱責が待っているかもしれないということを。



「……失礼します」


フレンダは恐る恐る、基地司令官室の扉を開けた。

先ほどまでガルド班長に扱かれたせいで全身がオイルと洗剤まみれだ。

だが、それ以上に彼女を萎縮させているのはデスクの奥に座る人物の存在感だった。


ヴァネッサ・ヘルシング少佐。

リトルベースの指揮官であり、フレンダにとっては逆らうことのできない絶対的な上官。


「遅かったな、フレンダ」


少佐は手元のタブレットから視線を外し、フレンダを一瞥した。

その赤い瞳に見据えられ、フレンダは反射的に背筋を伸ばした。


「も、申し訳ありません!インパルスの洗浄と脱臭に手間取りまして!報告書は、その、また後で提出します!」


怒られる。そう思って身構えるフレンダ。

今回の任務は形式上は成功だが、実質的には大赤字だ。

ミカは入院し、機体は汚染され、目的のマグロは産業廃棄物だった。

だが、少佐の口から出たのは叱責ではなかった。


「マグロは腐っていたそうだな」


静かでどこか温度を感じさせる声。


「は、はい。ドロドロでした。一口も食べられませんでした」


フレンダが肩を落とすと、少佐はふっと息を吐き、デスクの引き出しを開けた。


「お前の飢えを満たすには至らなかったか、不憫なことだ」


少佐が取り出したのは、銀色の包み紙に包まれたスティック状の物体だった。

それを無造作にフレンダの方へ放り投げる。


「えっ?」


フレンダが慌ててキャッチする。

それは、高密度タンパク質と糖質を圧縮した特殊部隊用の高カロリー調整食だった。

一般兵が食べれば鼻血を出すほどのエネルギー量だが、フレンダの代謝には最適化された代物だ。


「次の任務までの繋ぎだ、お前を飢えさせたままでは私のデータに狂いが出るからな」


「少佐……!」


フレンダの目が輝いた。

この人はいつもこうだ。厳しくて、怖くて、何を考えているか分からないけれど、最後には必ず自分のお腹を満たしてくれる。


「ありがとうございます!少佐、大好きです!」


「口の周りの油を拭いてから言え、始末書と報告書を忘れるな。それと食堂へ行ってみろ。『かんすい』が入荷したそうだぞ」


「行ってきます!!」


フレンダは脱兎のごとく部屋を飛び出した。

少佐は閉まった扉を見つめ、小さく呟いた。


「全く、世話のかかる化け物だ」





「おっちゃーーん!!」


食堂の自動ドアが開くと同時に、フレンダの絶叫が響いた。

厨房で仕込みをしていた料理長が驚いて包丁を落としそうになる。


「うおっ!?なんだフレンダ、またゾンビに追われてるのか?」


「違うよ、ラーメン!ラーメンがあるの!?」


フレンダはカウンターに身を乗り出し、鬼気迫る表情で詰め寄った。

かつて、プロトレクスのオーバーホール騒動で「かんすい」が切れ、ラーメンが食べられず涙を飲んだあの日。

そのリベンジを果たす時が来たのだ。

料理長はニヤリと笑い、寸胴鍋の蓋を開けた。

もわり、と立ち上る湯気。

それは醤油と豚骨、そしてニンニクの混じり合った暴力的なまでに食欲をそそる文明の香りだった。


「おうよ、昨日の定期便でたっぷり届いたぜ。特製の太麺も打っておいた。食うか?」


「食う!!特盛チャーシューメン、ニンニクアブラマシマシで!あと、テイクアウトも!」


「テイクアウト?誰の分だ?」


「ミカちゃんの分だよ、臭いのせいで死にかけてるから美味しい匂いで上書きしてあげるの!」





リトルベースの屋上。

夕暮れの風が吹き抜けるこの場所は、フレンダのお気に入りのスポットだ。

彼女は二つのおかもちを抱え、ベンチに座っている人物に声をかけた。


「ミカちゃーん、差し入れだよー!」


ベンチに座っていたのは、病室を抜け出してきたミカだった。

まだマスクをしているが、少し顔色は良くなっている。


「ゲッ!?また来たんすか、今度は何の悪臭兵器を持ってきたんすか?」


「失礼だなー、今度は正真正銘のご馳走だよ!ほら、ジャジャーン!」


フレンダが蓋を開ける。

夕焼けに照らされた黄金色のスープと分厚いチャーシュー。

その湯気がミカの顔にかかる。


「っ!」


ミカは反射的に息を止めたが、すぐにその香りに気づいた。

腐敗臭ではない。

科学調味料と豚脂の、ジャンクだが安心できる匂い。


「ラーメン、っすか」


「そう、前に食べられなかったリベンジ!整備班長に怒られてお腹空いたからさ、一緒に食べよ?」


フレンダは割り箸をパチンと割り、自分のどんぶりに顔を埋めた。

ズルズルズルッ!! と豪快な音が響く。


「ん~~~っ、美味しいぃぃ!やっぱり生きてるって最高だね!」


その無防備な笑顔を見て、ミカは深いため息をついた。

マスクを外し恐る恐るスープを一口飲む。

温かい液体が、冷え切った胃に染み渡る。


「まあ、悪くないっすね」


「でしょー?私の鼻に間違いはないんだから!」


「でもこの脂こってりのカロリーはどうするんすか、また私の肌が荒れるっすよ」


「動けばいいの、次の任務で!」


下の整備格納庫からは「まだ臭ェぞフレンダァァ!」と叫ぶガルド班長の声が聞こえてくる。

執務室の窓からは、少佐がコーヒーを片手に二人を見下ろしているだろう。

赤字で、臭くて、騒がしい。

でも、ここには温かいご飯と背中を預けられる仲間がいる。


「ごちそうさまっす、少尉。次はもっとマシな敵がいいっすね」


「任せてよ!次こそは美味しいお肉と大金星をゲットするから!」


二人は並んで残りのスープを飲み干した。

空には一番星が光りリトルベースの夜が更けていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ