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【濃霧の海と彷徨える幽霊船】

リバティー・アライアンス管轄外、第7海域。

そこは地図上ではただの「空白」となっている海だった。

常に分厚い濃霧が立ち込め、レーダーもソナーも乱反射して役に立たない「魔の海」。


ザザァ、ザザァ。

波音ひとつない凪いだ海面を一機のヘキサギアを乗せた小型揚陸艇が進んでいく。

視界はわずか数メートル。

乳白色の霧が生き物のようにまとわりついてくる。


「気持ち悪いっす」


ミカ・フォルクス少尉が二重にしたマスクの上からさらに手で口元を覆って呟いた。


「湿度が異常っす。それに、この臭い。塩と、腐った海藻と、魚の死骸を煮詰めたような臭いっす」


「えー、そうかな?」


隣でロード・インパルス・アビスに跨るフレンダ・ディーコン少尉は霧の中で目を輝かせていた。


「私には美味しいお魚の匂いがするけどなー!ねえメイ、まだ見えないの?」


『ソナーに感あり。距離300。対象、極めて巨大です。全長200メートル級の大型船舶と推測されます』


メイの無機質な報告と同時に、霧の中から「それ」が現れた。

巨大な黒い影。

半年前に消息を絶った補給船、「エイハブ号」。

かつては白かったであろう船体は、赤茶色の錆に覆われ尽くされていた。

喫水線にはフジツボがびっしりと張り付き、甲板からは垂れ下がった海藻がまるで幽霊の髪の毛のように揺れている。


人の気配はない。

ただ錆びついた鉄の塊が海の上に墓標のように浮いていた。


「うわぁ、ボロ船だね」


フレンダが呑気に感想を漏らす。


「ボロ船どころじゃないっす、あれは巨大な『破傷風の塊』っすよ」


ミカの声が震えている。

揚陸艇が船体に横付けされ、二人はアンカーを使って甲板へと乗り移った。


ギギギ。

着地しただけで、腐食した床板が悲鳴を上げる。


「うっ!」


ミカは絶句した。

甲板は、ヌルヌルとした緑色のコケと謎の粘液で覆われていたのだ。

靴がネチャリという音を立てて沈み込む。


「帰りたいっす、今すぐ帰りたいっす!こんな不衛生な場所にいたら病気になるっす!」


ミカは腰のホルスターからハンドガンではなく、業務用サイズの「除菌スプレー」を抜いた。

シュッシュッ!と周囲に噴霧するが、広大な甲板の悪臭の前では焼け石に水だ。


「まあまあミカちゃん、中に入れば綺麗かもしれないよ?それにこの船の地下冷凍庫にはね……」


フレンダがゴクリと喉を鳴らす。


「『最高級天然クロマグロ』が眠ってるんだから!半年間、誰にも食べられずに熟成されたマグロ!お化けなんていないよ、いるのはご馳走だけ!」


「そのポジティブさが羨ましいっす」


重い鉄の扉が錆びついて開かないため、二人はインパルスの爪でこじ開けて切断し、船内へと足を踏み入れた。

船内は、外以上の地獄だった。

非常用電源だけが辛うじて生きており、赤い回転灯が不気味に明滅している。

通路の壁はカビと錆でどす黒く変色し、天井の配管からは絶え間なく水滴が落ちていた。


ポチャン、ポチャン。


「静かっすね」


ミカがライトで闇を照らす。

光の先には散乱した書類や、ひっくり返ったコーヒーカップが転がっている。

半年前、ここで「何か」が起きたまま時が止まっているようだ。


『警告、バイタルスキャンに微弱な反応。前方、食堂エリア。複数名の生体反応を検知』


「生存者!?」


フレンダが反応する。


「なんだ、生きてる人がいるんじゃん!おーい、助けに来たよー?」


「待つっす、少尉!何かおかしいっす!」


ミカが鋭く制止する。


『反応パターンが異常です。心拍数、ゼロ。体温、周囲の気温と同調。ですが活動しています』


「は?」


食堂の自動ドアが開いた。

そこには十数人の人影がいた。

リバティー・アライアンスの海軍制服を着た男たち。

彼らはテーブルに突っ伏していたり、床に座り込んでいたりした。


「なぁんだ、寝てるだけか。おーい、起きてくださーい?マグロはどこですかー?」


フレンダがインパルスで近づこうとした、その時。


ズルリ。

一人の男がゆっくりと立ち上がった。

関節がありえない方向に曲がる音と共に。


「ッ!?」


二人は息を飲んだ。

振り返った男の顔。

それは、人間の顔ではなかった。

水死体のように青白く膨れ上がり、皮膚の一部は溶け落ちて骨が露出している。

眼球があった場所には白濁したゼリー状の何かが詰まっており、口からは緑色の粘液が垂れ流されていた。


男だけではない。

食堂にいた全員が糸で引かれたマリオネットのように、ゆらりと立ち上がった。

喉の奥から、湿った空気が漏れるような音が響く。


『ゴポッ、ア、アガ』


「ゾンビっすか……よりによって一番不潔なクリーチャーっすか……」


ミカの声が恐怖と嫌悪で裏返る。

その時、先頭の男の口が大きく裂けた。

中から人間の舌ではなく、触手のような寄生虫が飛び出した。


『シャァァァァッ!!』


「来るっす、構え!」


腐敗した乗組員たちが人間離れした速度でダッシュしてきた。

痛みを感じない死者の突撃。


「うわぁっ、近寄らないでよ!」


フレンダがインパルスの前脚を振るう。

ストライク・クローが先頭のゾンビを弾き飛ばす。

グシャッという嫌な感触。

だが、胴体を裂かれても彼らは止まらない。

這いずりながらインパルスの脚にしがみつこうとする。


「汚い汚い汚いッ!!」


ミカが悲鳴を上げながら後退した。

ライフルは使えない。跳弾で船体に穴が開けば浸水して全員溺れ死ぬ。


「消毒っす!この世の全ての病原菌を焼き払うっす!!」


ミカは腰のハンドガンを抜き、躊躇なくゾンビの頭部を撃ち抜いた。


パンッ!

頭が弾け緑色の体液が飛び散る。


「最悪っす、ミッション中止っす。帰りましょう、少尉!」


「嫌だ、マグロがあるもん!」


フレンダがインパルスの尾でゾンビを薙ぎ払う。


「ここを通らないと冷凍庫に行けないんだ!邪魔する奴はお化けでもゾンビでもぶっ飛ばす!」


食欲という名の勇気で、フレンダはアクセルを踏み込んだ。

腐臭と粘液が飛び交う悪夢の船内探索が幕を開ける。


バシュッ!パンッ!

薄暗い船内通路に乾いた銃声と湿った破砕音が響き渡る。

通路を埋め尽くすのは、かつて船員だったモノたちの群れだ。


「どいてよ!そこを通らないとマグロに行けないんだってば!」


フレンダはロード・インパルス・アビスを駆り、狭い廊下を強行突破していた。

インパルス特有のスリムなボディが、ゾンビの隙間を縫うように疾走する。

だが、床はヘドロのような粘液で覆われており、インパルスの足元を容赦なく滑らせる。


「うわっと、滑る!」


インパルスが体勢を崩し壁に激突しそうになる。

その壁にも、びっしりとカビが生えていた。


「ぎゃぁぁぁッ!!壁に触るなっす!私のコートにカビの胞子がつくっすよ!!」


背中のタンデムシートで、ミカが悲鳴を上げた。

彼女は二丁のハンドガンを乱射し迫りくるゾンビの手を正確に弾き飛ばしているが、その顔面は蒼白だ。


「少尉、運転が荒いっす!泥が跳ねてるっす!ああもう、帰ったらこのスーツごと焼却炉行きっすよ!」


「ごめんごめん!でもこの粘液、オイルみたいに滑るんだよ!」


『警告。床面の摩擦係数、氷上と同等まで低下。また、大気中の病原菌濃度が危険域を突破しました。ミカ少尉の精神安定値が限界に近づいています』


メイが淡々と告げる。


「うるさいっす!ホテルで暴れた請求書がまだ残ってるんすよ!」


ミカの借金の原因は、ミカ自身の潔癖症が極限に達した際に行う「過剰な消毒(物理破壊)」による賠償金がウエイトを占めていた。


「ここも消毒が必要っすね、船ごと沈めるのが一番清潔っす」


ミカの目が危ない光を帯び始めている。

インパルスはトリック・ブレードを第5の脚として使い、壁や天井にアンカーを突き立てながらなんとか最下層へと辿り着いた。


「ここだ、この奥が冷凍倉庫エリア!」


分厚い隔壁扉の前。

フレンダはインパルスの尾をマニピュレーターとして器用に操り、錆びついたハンドルを回そうとした。

だが、扉の隙間から大量の「緑色の海水」が染み出している。


「嫌な予感がするっす」


ミカが消毒スプレーを構え直す。


「大丈夫だよ、マグロは冷凍されてるんだから!」


フレンダは強引に扉をこじ開けた。


ギギギ、バァァン!!

冷気と共に、腐った魚市場を100倍濃縮したような悪臭が吹き出した。

そこは、フレンダにとっての聖域のはずだった。

体育館ほどの広さがある巨大冷凍倉庫。

天井からは無数のフックが下がり、巨大なクロマグロが吊るされているはずだった。


「なに、これ?」


フレンダの言葉が凍りついた。

確かにマグロは吊るされていた。


だが、それはすべて「苗床」にされていた。

無数の触手がマグロの肉を突き破り蠢いている。

床には脈動する肉塊のような卵が産み付けられ、冷凍庫全体が巨大な生物の巣と化していた。


「私の、マグロが……」


『熱源感知。前方、大型個体。本艦を乗っ取った「船長」のお出ましです』


倉庫の奥、霜に覆われた暗闇から巨大な怪物が姿を現した。


『ジュルルルルルッ……!!』


それは、深海の怪物・クラーケンと機械を融合させたようなおぞましい姿の化け物だった。

長い触手が天井のレールに絡みつき、その先端には鋭利な骨のフックが生えている。

そしてその身体は、食い散らかしたマグロの残骸で装甲のように覆われていた。


「許さない」


フレンダの低い声が響く。恐怖ではない。純粋な怒りだ。


「私の最高級クロマグロを、よくも粗末にしてくれたねェッ!!」


ギャオオオオオオオッ!!!

フレンダの怒りに呼応し、ロード・インパルス・アビスが咆哮した。

食い物の恨みという生物として最も原始的かつ強力なモチベーションが、機体のリミッターを解除する。


「行くよ、ミカちゃん!振り落とされないで!」


「ひいぃっ!揺らすなっす!」


インパルスが凍った床を蹴る。

グラビティ・コントローラーが作動し、滑る床ではなく壁面を走行ルートに選ぶ。


シュバッ!

クラーケンの触手が鞭のように襲いかかる。

だが、フレンダの野生の勘はそれを紙一重で読み切る。


「そこだッ!」


インパルスは触手を足場にして跳躍し、敵の懐に飛び込む。


「喰らえェェッ!」


ストライク・クローが、マグロの装甲を引き裂く。

中からブヨブヨとした本体が露出した。


『ギシャァァァァッ!』


怪物が悲鳴を上げ口からどす黒い墨のような、強力な酸性液を吐き出した。


「汚いッ!吐くなっす!」


ミカが即座に反応した。

彼女はインパルスの影から身を乗り出し、スナイパーライフルを構える。

狙うのは敵ではない。

天井に走る太いパイプラインだ。


「お前なんかカチンコチンに消毒してやるっす!」


ズドンッ!!

銃弾が液体窒素の冷却パイプを撃ち抜いた。


プシュゥゥゥゥゥゥ!!!

超低温の白煙が噴出し、酸を吐こうとした怪物の口元を直撃する。


『ガ、ガガ……ッ!?』


一瞬で酸も触手も凍りついた。

敵の動きが止まった。


「トドメだよ、トリック・ブレード!」


フレンダが叫ぶ。

インパルスの長い尾が閃き、凍りついた怪物の眉間を深々と貫いた。


怪物は崩れ落ち、粉々に砕け散った。


戦闘終了。

静寂が戻った冷凍庫に二人の荒い息遣いだけが響く。


「終わったっすね」


ミカがぐったりとシートにもたれかかる。


「まだだよミカちゃん!」


フレンダはインパルスから飛び降りた。彼女の目はまだ死んでいない。


「普通のマグロは食べられちゃったけど、奥の『特選コンテナ』は無事なはず!」


倉庫の最奥部。

厳重にロックされた独立電源式の冷凍コンテナがあった。

伝票には【極上・クロマグロ】とある。


「これだよ、これのためにここまで来たんだ!」


フレンダの手が震える。期待と、空腹で。


「少尉、電源ランプが消えてるっすけど」


ミカが不吉な指摘をするが、フレンダの耳には届かない。


「オープン!」


プシュッ。

気密ロックが解除された。

その瞬間。


ドロォォォォォ。

コンテナの中から茶色いドロドロの液体が流れ出した。

そして遅れてやってきたのは、半年間密閉され、熟成ではなく腐敗を極めた致死レベルの悪臭だった。


時が止まった。

フレンダは目の前の茶色い液体を呆然と見つめた。


「あ、あ、お魚、さん?」


そして、ミカ。

彼女は人一倍、いや、人類最強レベルに鼻が利く潔癖症だ。

その臭気をダイレクトに吸い込んだ彼女の反応は劇的だった。


「ンゴッ!!?」


白目を剥き、痙攣し、そして糸が切れたようにインパルスの背中から崩れ落ちた。


気絶と精神崩壊が、ミカを襲った。


「ミカちゃん!?」


フレンダは涙目で叫んだ。

マグロは腐り、相棒は倒れ、残ったのは泥だらけの機体と凄まじい悪臭だけ。


「うわぁぁぁぁぁん!!私のマグロを返してよォォォッ!!」


誰もいない幽霊船に、空腹の野獣の慟哭がこだました。


数日後。

白堊理研、第8基地リトルベース。

隔離ドックで全身を完全防護服に包んだ特殊清掃員たちが、インパルス・アビスの洗浄を行っていた。


「臭いが取れないっす」


隔離病室のベッドの上でミカがつぶやいた。

まだ顔色が青い。


「どんまいミカちゃん、次こそは美味しいもの食べに行こうよ」


隣のベッドで、フレンダがサバの味噌煮を食べながら笑う。

その笑顔は無敵だ。


「次はないっす。それより、今回の洗浄費用と私がパニックで撃ち抜いた船の設備弁償代。また借金が増えたっす」


ミカは天井を仰いだ。彼女達の戦いは、まだまだ終わらない。

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