【奈落の底の光る晩餐】
【奈落の底の光る晩餐】
大地が飢えた獣の喉のように大きく口を開けている。
リバティー・アライアンスの勢力圏境界面、地図上ではただの「空白」として記されるエリア。その地表に穿たれた巨大な縦穴は、通称『アビス(深淵)』と呼ばれていた。
かつて結晶炉の暴走事故、あるいはもっと別の、語られざる災厄によって生じたとされるこの大深度地下空洞は、地表の常識が一切通用しない異界である。
深度が1000メートルを超えるあたりから、世界は光を失う。
太陽の恩恵は届かず、代わりに支配するのは永遠の闇と、鼓膜を圧迫する気圧、そして防護服なしでは数秒で肺を焼き爛れさせる有毒なガスだ。
地熱の影響で気温は常に40度を超え、湿度は100%に近い。
それは生物が生きることを拒絶する、灼熱と暗黒の地獄釜だった。
だが、そんな絶望的な環境下を、二つの影が平然と進んでいた。
「……あー、だる。マジ最悪っす」
通信機越しに、気だるげな、しかし不機嫌さを隠そうともしない声が響いた。
ミカ・フォルクス少尉である。
彼女は現在、標準的なポーンA1アーマーの上に、耐圧・耐熱仕様の追加オプション「ディープ・ダイバー」を装着していた。
見た目は着膨れた宇宙服のようだが、その中身は白堊理研ご自慢の強化人間だ。
「湿度98%って何すか、サウナっすかここは?スーツの冷却機能フル稼働のファンがうるさくて敵の足音も聞こえやしない」
彼女は自身の乗機である小型の偵察用バイク「クロスレイダー」を巧みに操りながら、岩肌をライトで照らした。
光が届く範囲はわずか数メートル。その先は、光すら飲み込むような濃密な闇が広がっている。
「文句言わないの、ミカ少尉。これも大事なお仕事なんだからさ」
先行する影、ロード・インパルスを駆るフレンダ・ディーコン少尉が呑気な声で答えた。
フレンダの機体もまた、関節部やセンサー類にシーリングが施された耐環境仕様となっている。
しかし、彼女自身の装備は普段とさほど変わらない軽装のアーマーだけだ。
『フレンダ。現在の外気圧、地表の約3.5倍。硫化水素濃度、致死量を遥かに超えています。アーマーのフィルター残量に注意してください。僅かな亀裂でも、即座に死に直結します』
ロード・インパルスのKARMA、メイが冷静に警告を発する。
通常のガバナーであればこの深度に到達するだけで極度の緊張と肉体的ストレスに晒され、まともな判断力を失う。
呼吸は浅くなり、思考は鈍り、やがてパニックに陥るのが常だ。
だが、フレンダはケロリとしていた。
彼女の野生は、この過酷な環境すらもそういう縄張りとして認識し、適応していたのだ。
「大丈夫だって、メイ。ちょっと空気が重くて臭いだけでしょ?昨日の二日酔いに比べたら、全然マシだよ」
「……貴官の神経、どうなってるんすか。ある意味、私より強化されてるんじゃないっすかね」
ミカが呆れたように呟く。
彼女自身、強化された肉体のおかげで環境ストレスは感じていないが、精神的な不快感は別問題だ。
ジメジメとした空気、ヘドロのようにこびりつく闇、時折聞こえる岩盤の軋む音。
その全てが、彼女の神経を逆撫でする。
「それにしても、本部も人使いが荒いっすね。『アビス深層部にて確認された、未知の高エネルギー反応の調査とサンプルの回収』でしたっけ?こんな場所にまともなエネルギー資源なんてあるわけないでしょうに」
「えー、そうかなぁ?私は何か『美味しいもの』の匂いがする気がするんだけど」
フレンダがインパルスのセンサーを動かし、闇の奥を探る。
彼女の言う匂いとは比喩ではない。
ガバナーとしての直感、あるいは捕食者としての嗅覚が、この奈落の底に潜む何かを捉えていた。
深度2500メートル。
地形が開けた。
そこは、巨大な地底湖が広がる広大な空洞だった。
「うわぁ……、綺麗だねぇ」
フレンダが感嘆の声を上げる。
地底湖の天井、遥か上空の岩盤には、青白く発光する苔や結晶が無数に張り付き、まるで星空のように輝いていた。
その光が湖面に反射し、幻想的な光景を作り出している。
だが、その美しさは致命的な毒を含んでいた。
湖の水は強酸性で、湯気のように立ち上るガスは防護服のフィルターを急速に劣化させる。
「……呑気っすねぇ。綺麗なバラには棘がある、どころの話じゃないっすよ。落ちたら即、溶解っす」
ミカはクロスレイダーを慎重に走らせ、湖岸の安定した岩場を選んで進む。
彼女の強化された視覚は、暗闇の中でも地形を正確に把握していた。
『警告、周辺の環境音に非自然的なパターンを検出。……何かが、います』
メイの声が緊張を帯びる。
「おっ、お出ましかな?」
フレンダがインパルスの姿勢を低くした。
獣型ヘキサギアの本領発揮だ。
四肢をバネのように縮め、いつでも跳躍できる体勢をとる。
「……数は?」
ミカがハンドガンの安全装置を解除する。
彼女の聴覚もまた、岩盤を伝う微かな振動を捉えていた。
カサカサ、チチチ……という、硬質で不快な摩擦音。
『熱源反応、多数。全方位から接近中。個体識別……該当データなし。形状から推測するに、ヘテロドックスが遺棄した作業用ヘキサギアがアビスの環境に適応して野生化したものと思われます』
「つまり、スクラップの幽霊ってことっすね。めんどくさ」
ミカが吐き捨てるのと同時に、闇が動いた。
ギャアアアアアアッ!!!
金属が擦れ合うような絶叫と共に、岩壁から無数の影が躍り出た。
それは、悪夢を煮詰めたような姿をしていた。
ベースは確かにヘキサギアのフレームだが、装甲の代わりに発光する菌糸が絡みつき、関節部からは酸の涎を垂らしている。
形状は多脚型、あるいは巨大な昆虫型。
アビスという極限環境が産み落とした、機械と生物の醜悪なキメラだ。
「うわっ、キモッ!前の街の連中より趣味悪いよ!」
「同感っす。生理的に無理っすね、あれは」
ミカは眉をひそめながらも、冷静に迎撃体勢に入った。
敵の数は目測で30機以上。包囲されている。
戦闘は、混沌から始まった。
アビスの原生種たちは、壁や天井を自在に這い回り、酸の弾丸や、鋭利な爪で襲いかかってくる。
視界は悪い。ライトの光は乱反射し、敵の正確な位置を掴むのを妨げる。
頼りになるのは、音と、熱源センサー、そして――。
「メイ、目を閉じるよ!音響センサーの情報を私の脳に直接流して!」
フレンダは目を閉じて視覚情報を遮断した。
代わりにメイが処理した膨大な環境音が、神経接続を通じて彼女の脳内に流れ込んでくる。
敵の足音、関節の駆動音、酸が岩を溶かす音。
それらが、フレンダの脳内で立体的な「音の地図」として再構築される。
(右、3体。上、2体。左後方、大型が1体……!)
「そこだッ!!」
フレンダは目を開けることなく、インパルスを跳躍させた。
見えないはずの敵の懐に、正確に飛び込む。
ガギィンッ!!
インパルスの前脚の爪が、キメラの頭部を粉砕した。
装甲が薄いインパルスにとって、この乱戦は本来不利だ。
一撃でも酸を浴びれば、フレームが腐食し、行動不能になる。
だが、フレンダの野生の勘は、敵の攻撃予測線を匂いとして感じ取っていた。
紙一重で酸を避け、壁を蹴り、天井を走り、重力を無視した三次元機動で敵を翻弄する。
それは、理性を捨てた獣の舞踏だった。
一方、ミカの戦いは対照的だった。
彼女はクロスレイダーから降り、岩陰に身を隠していた。
動かない。呼吸すら止めているかのように静かだ。
だが、敵が彼女の存在に気づき、襲いかかろうとした瞬間。
ドンッ!ドンッ!ドンッ!
正確無比な銃撃が、キメラの関節部やセンサーアイを撃ち抜く。
ミカの強化された神経は、暗闇の中でも敵の弱点をピンポイントで捉えていた。
「……チッ。硬いっすね、こいつら」
通常の弾丸では菌糸に覆われた装甲を貫通しきれない。
ミカは舌打ちし、ハンドガンをホルスターに戻した。
そして、背中に背負っていた大型の振動ナイフを引き抜いた。
「フレンダ少尉。そっちのデカいの、ちょっと抑えててくれるっすか?」
「え、いいけど……何する気?」
フレンダが群れの中でも一際巨大なムカデ型のキメラを引きつけていた。
インパルスのトリック・ブレードを鞭のように振るい、敵の多脚を絡め取る。
「こうするんすよ」
ミカが岩場から飛び出した。
その速度はインパルスの瞬間加速にも匹敵する。
人間離れした跳躍力で、ムカデ型キメラの背中に飛び乗る。
「ギャッ、ギギギ……!?」
キメラが暴れるがミカは磁力ブーツで装甲に張り付き、微動だにしない。
そして、振動ナイフを逆手に持ち、装甲の継ぎ目の菌糸が密集して発光している部位へと突き立てた。
ブォォォォン!!
超高速振動する刃が、菌糸を焼き切り、装甲をバターのように切り裂いていく。
「ここが中枢っすね。……ご苦労さん」
ミカはナイフを捻り、内部の動力炉を破壊した。
巨大なムカデが痙攣し、崩れ落ちる。
「うわぁ、エグいねぇミカちゃん。生身で怪物を殺すとか、やっぱりバケモノだよ」
「貴官にだけは言われたくないっすね。さっさと残りを片付けるっすよ。帰りたい」
二人の人外の連携により、アビスの捕食者たちは駆逐されていった。
戦闘が終わり、再び静寂が戻った地底湖のほとり。
キメラたちの残骸が散乱し、それらが放つ青白い光が、辺りを不気味に照らしている。
「ふぅーっ、疲れたぁ。お腹空いたなぁ……」
フレンダがインパルスから降り、アーマーのヘルメットを脱いだ。
このエリアは比較的ガス濃度が低いため、一時的ならバイザー開放が可能なのだ。
汗で張り付いた髪をかき上げ、彼女は周囲を見渡した。
「ねえ、ミカちゃん。なんか食べるもの持ってない?」
「は?持ってるわけないでしょ。非常食ならバイクに積んでるっすけど、こんな汚染された場所で食べる気にならないっすよ」
ミカは岩に腰掛け、げんなりした様子で答えた。
スーツもアーマーも、キメラの体液でドロドロだ。
早く基地に帰ってシャワーを浴びたい。それしか頭にない。
「えー、ケチだなぁ。仕方ない。現地調達するか」
「は、現地調達?」
ミカが怪訝な顔をする。
フレンダは先ほどミカが倒したムカデ型キメラの残骸へと歩み寄った。
そして、ナイフを取り出し装甲の隙間から溢れ出ている発光するゲル状の物質を切り取り始めた。
「ちょ、何してるんすかフレンダ少尉?」
「これさぁ、戦ってる時から気になってたんだよね。すっごくエネルギー価が高そうな匂いがするの」
フレンダは切り取ったゲルを、携行していた簡易分析キットにかける。
『……分析完了。主成分は、変異した菌類由来のタンパク質と、高純度のヘキサグラム粒子です。毒性は確認されませんが……人体での消化吸収は未知数です。推奨はしません』
メイが冷静にそして少し嫌そうに報告する。
「毒じゃないなら、食べ物でしょ!」
フレンダの論理は飛躍していた。
彼女は携帯コンロを取り出し、そのゲルを火にかけた。
ジュウジュウと音を立て、青白い光が消え、代わりに香ばしいような、それでいて薬品のような、奇妙な匂いが立ち込める。
「うわ、マジっすか……。正気じゃないっすね」
ミカがドン引きして後ずさる。
だが、フレンダの目は輝いていた。
「焼けた!アビス特製、光る謎肉ステーキ!いっただきまーす!」
彼女は熱々のゲルを、フォークで口に運んだ。
ムギュッ、クニュッ。
奇妙な食感。
味は……例えるなら、ゴムと生魚と栄養ドリンクを混ぜて発酵させたような、混沌とした味だった。
「……んんッ!?」
フレンダの動きが止まる。
ミカが少しだけ心配そうに見守る中、フレンダは目を見開き叫んだ。
「……マズいッ!!!何これ!全然美味しくない!ただのゴム!!」
「そりゃそうでしょうね。バカなんすか」
「でも……!」
フレンダは涙目になりながらも、食べるのを止めなかった。
「でも……力が湧いてくる気がする……!これ、すごいカロリーだよミカちゃん!食べてみる?肌にいいかもよ?」
フレンダが、半分かじった謎肉を差し出す。
「全力でお断りするっす、少尉。そのうち絶対、変な病気にかかるっすよ」
「平気平気、私の胃袋は鋼鉄製だから!」
そう言いながらフレンダは不味そうに、しかし幸せそうに、アビスのゲテモノ料理を完食した。
その姿を見てミカは深い深いため息をついた。
(……こいつ、本当に人間っすか?報告書に『新種の野生動物発見』って書いておこうかな?)
ミカはこの理解不能なパートナーとの今後の任務を思い、憂鬱になりながらもどこかで「退屈はしないな」と再確認していた。
地底湖の光が、満腹になった獣と呆れる処刑人の影を、静かに照らし続けていた。




