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【天空の回廊と雷雲の要塞】

ヒュオオオオオオオッ……!!

耳をつんざくような風の咆哮が世界を支配していた。

ここはリバティー・アライアンス管轄地域の北端に位置する「白嶺山脈」。


その標高は4000メートルを超え、雲海すらも眼下に沈む神々の領域だ。

気温は氷点下15度。

酸素濃度は平地の約60%。

素肌を晒せば数分で凍傷になり、不用意に深呼吸をすれば肺が凍りつくような極寒の世界。


「信じられないっす」


その白い断崖の麓で、ミカ・フォルクス少尉はゴーグルの数値を睨みつけながら呻いた。


「湿度はたったの10%。乾燥してるなんてレベルじゃないっす。これじゃ私の肌がビーフジャーキーになってしまうっすよ」


彼女は極寒冷地仕様のスナイパースーツに身を包んでいたが、その内側には保湿クリームをチューブ一本分塗りたくっていた。

潔癖症にして美容オタクの彼女にとって、この「乾燥」と「寒冷」は、敵の銃弾以上に恐ろしい脅威だった。


「文句ばっかり言わないのミカちゃん、空気が澄んでて気持ちいいじゃん!」


その横で元気な声が響いた。フレンダ・ディーコン少尉だ。

彼女の愛機、ロード・インパルス・アビスもまた極地仕様の防寒コート(関節部シーリング)が施され、白い呼気のような排熱を吐き出している。


「少尉は野生児だからいいでしょうけど私は繊細なんすよ。それに、今回の『座席』。これはいじめっすか?」


ミカが指差したのは、インパルスの背中。本来は武装マウントがある位置に増設された簡易的なタンデムシートだった。


今回の作戦ルートは、垂直に近い断崖絶壁。

タイヤで走るクロスレイダーでは走破不可能であるため、ミカはインパルスに同乗し文字通り「荷物」として運ばれることになったのだ。


「仕方ないでしょ、クロスレイダーじゃ登れないんだから。ほら、しっかり捕まって!『特急インパルス号』発車するよ!」


「安全運転で頼むっすよ?落ちたら死体も残らない高さっすから」


ミカは渋々シートに跨り、インパルスの装甲フレームにしがみついた。


眼下には見渡す限りの雲海。

そして目の前には、天を衝くような灰色の岩壁がそびえ立っている。


「メイ、ルート計算は?」


フレンダがコンソールを叩く。


『完了しました。目的地は、頭上1200メートル地点にある「第9対空レーダー基地」。推奨ルートは北側岩壁の亀裂を利用した直登ルートです。斜度は平均85度、ほぼ垂直です』


「上等!行くよ、メイ!グラビティ・コントローラー起動!」


フレンダが叫ぶと同時に、ロード・インパルスの四肢が低く沈み込んだ。


ブォォォォン……

機体の足裏、四肢の接地パッドから低い重低音が響き始める。


【Gravity Controller : ONLINE】


装備された重力制御装置が周囲の重力場に干渉し、機体重量を擬似的に制御する。

さらに、爪先から打ち込まれた微細なアンカーが岩の表面に食い込む。


「うおっ!?」


ミカは胃が浮き上がるような感覚に襲われた。

世界が歪む。

インパルスが垂直な壁に吸着したのだ。


「しっかり捕まっててね!」


ガッ!ガガッ!

インパルスが壁を駆け上がり始めた。

それは「登る」という生易しいものではない。

重力を90度変換し、壁を「地面」として疾走しているのだ。


背中に乗るミカにとっては悪夢のような体験だった。

背中側から強烈な重力が引っ張り、目の前には岩肌が猛スピードで流れていく。


「ちょっ、速いっす!速すぎるっす!内臓が出るっすよ!」


「大丈夫!この子の足裏は吸盤みたいにくっついてるから絶対に落ちないよ!」


「そういう問題じゃないっす!Gのかかり方がおかしいんすよ!」


ミカはシートのグリップを死に物狂いで握りしめた。

強風が彼女の体を容赦なく叩く。

もし今グラビティ・コントローラーが停止すれば、二人は重力に従って数千メートル下へ真っ逆さまになる。

雲を抜け、標高3500メートル付近。

視界が開けた。

真っ青な空とどこまでも続く白い岩壁。

だが、その美しい景色を切り裂くように無機質な機械音が響いてきた。


ブブブブブブッ。


「嫌な音っす」


ミカが顔を上げた。

上空から数機の影が降下してくる、昆虫の羽音のようなローター音。

MSGヴァリアントフォースの偵察用ヘキサギア、モーター・パニッシャーだ。


『敵影確認。上空、方位12時。数、4機。こちらの熱源を探知された模様。迎撃行動に移ります』


メイが冷静に告げる。

状況は最悪だ。

こちらは垂直な壁に張り付いた状態。

相手は自由に空を飛ぶ翼持ち。

文字通り、カゴの中の鳥ならぬ壁の上のヤモリだ。


「こんな所を這い回ってるとはな、リバティーのネズミども!」


敵のパイロットからのオープン回線。嘲笑と共に機銃掃射が始まった。


バリバリバリッ!!

岩壁が弾け破片がミカのヘルメットを叩く。


「くっ!ちょこまかと!」


フレンダが操縦桿を倒す。

インパルスはグラビティ・コントローラーの出力を上げ、壁面を横方向にスライド移動した。

摩擦熱で足跡が赤熱する。

物理法則を無視した三次元機動。


「ミカちゃん、撃てる!?」


「無茶言わないで欲しいっす!こんなジェットコースターの上で!」


ミカは文句を言いながらも、背中のライフルを抜いた。

インパルスの激しい揺れ。吹き荒れる風速30メートルの横風。

そして、不規則に飛び回る敵機。

常人なら照準を合わせるどころかしがみついているだけで精一杯の状況だ。


だが、ミカは呼吸を整えた。

世界がスローモーションになる。


(風が見える。インパルスの振動パターン、右足、左足、着地の瞬間、ここっす)


ミカはフレンダの肩にバイポッドを押し付け、銃身を固定した。

スコープの中、レティクルが風に流される。

彼女はそれを計算に入れ、あえて敵のいない空間へ銃口を向けた。


「風の便りを送るっす」


ズドンッ!!

乾いた銃声が強風にかき消される。

放たれた大口径弾は風に乗って大きくカーブを描いた。

そして、回避行動を取ったモーター・パニッシャーのローター基部に吸い込まれるように着弾した。


ドガァァン!!


「なっ、まぐれ当たりか!?」


敵機が黒煙を上げて墜落していく。


「まぐれじゃないっす、実力っす」


ミカが次弾を装填する。


「すごい!さすがミカちゃん!」


フレンダが歓声を上げるが、残りの3機が散開し包囲網を敷く。


「囲まれるよ!」


「少尉、もっと高く飛べるっすか?」


「え?」


「壁から離れるっす。一瞬でいいから奴らと同じ高さまで飛ぶっす!」


無茶な提案だ。

壁から離れればグラビティ・コントローラーの効力は切れ落下する。

だが、フレンダはニヤリと笑った。


「了解!インパルス、最大跳躍!」


フレンダは壁を蹴った。


ドォォォン!!

インパルスが岩壁から弾き出され、空中へと躍り出る。

重力の枷から解き放たれた銀色の狼が空中で敵機と交差する。


「今っす、全方位射撃!」「喰らいつけェェッ!」


ミカのライフルとインパルスのチェーンガン、爪が同時に閃く。

空中で静止した一瞬の時間。

それは、空の支配者が入れ替わる瞬間だった。


ダンッ!!

重力の鎖を断ち切ったロード・インパルスが放物線を描いて崖の縁に着地した。

四肢のサスペンションが深く沈み込み、衝撃を殺す。


「と、到着っすか?」


ミカはインパルスの背中から転げ落ちるように降りた。

足元は水平なコンクリート。

どうやらようやく要塞の入り口、標高4000メートルの頂上エリアに辿り着いたようだ。


「うぇっぷ、三半規管が死んだっす。ジェットコースターに乗ったままフルコースを食べさせられた気分っす」


ミカは地面に膝をつき、青ざめた顔で口元を押さえた。

だが、感傷に浸る時間はない。

彼女が顔を上げるとそこには絶望的な光景が広がっていた。

目の前には巨大な裂け目があり、その向こう側に目指す「第9対空レーダー基地」の本部施設が鎮座している。

そして、その裂け目を繋ぐのは一本の頼りないメンテナンス用吊り橋だけだった。


全長およそ200メートル。

吹き荒れる強風でワイヤーが軋み、鉄骨の床板が不気味な音を立てて揺れている。

橋の下は底の見えない雲海。

落ちれば数千メートル下の地上までノンストップだ。


「ここを渡るんすか、正気っすか?」


「行くしかないよ、ミカちゃん。お腹空いたし!」


フレンダはインパルスのセンサーを対岸に向けた。

霧の向こう、橋の出口に巨大な影が佇んでいる。


『警告。橋梁の対岸に高エネルギー反応、門番です』


メイの声と同時に霧が晴れた。

そこにいたのは人型のヘキサギアだった。


だが、通常のそれとは纏う空気が違う。

バルクアーム・グランツ(雷雲仕様)

軽量化された装甲と、背部に増設された巨大なスラスター。

そして、両腕には紫色の電光を放つ連装レールガンが装備されている。

本来は地上を高速滑走するための機体だが、ここでは「風」と「重力」を支配する要塞の守護神として君臨していた。


バチチチチッ……!

グランツのレールガンがチャージ音を上げる。逃げ場のない一本道。遮蔽物はない。


「来るよ、乗って!」


フレンダの叫びに、ミカは慌ててインパルスの背に飛び乗った。

同時にインパルスが駆け出す。


ズガァァァァァン!!!

轟音が雲海に響いた。

レールガンから放たれた超高速弾が二人がいた場所のコンクリートを粉砕した。衝撃波だけで鼓膜が破れそうだ。


「速いっす!それにデカい!」


「強行突破する!」


フレンダはインパルスを加速させ、揺れる吊り橋へと突入した。

だが、グランツもまた橋の上へと踏み込んできた。


ドシンッ、ドシンッ!

数トンの質量が橋を揺らす。

普通ならバランスを崩すはずだが、グランツの足元は微動だにしない。


『解析。敵機、脚部にマグネット・アンカーを展開。橋の鉄骨に磁力吸着し、姿勢を完全固定しています。対してこちらは強風と振動で回避行動が制限されます』


「ズルいっすよ!安定感が違いすぎるっす!」


ミカが叫ぶ間にもグランツの第二射が迫る。

橋の上に避ける場所はない。

左右は奈落。前方は弾幕。


「だったら!」


フレンダが操縦桿を真横に倒した。


「道がないなら作るまで!」


インパルスが橋の欄干を蹴り、虚空へと飛び出した。

自殺行為ではない。

空中で反転したインパルスの足裏が吊り橋の「側面」の鉄骨を捉える。


【Gravity Controller : MAX】


ガィィィィン!!


「うわぁぁぁぁっ!?」


ミカの悲鳴が雲海に吸い込まれる。

インパルスは橋の真横、さらには裏側に張り付き逆さまの状態で疾走を始めたのだ。


「目が回るっす、吐くっす、落ちるっす!」


「我慢してミカちゃん!今敵の死角に入った!」


頭上の橋板越しにグランツの足音が響く。

敵は姿を消したインパルスを探し、センサーを走らせているはずだ。


「ここだァッ!」


フレンダは橋の裏側から、ワイヤーの隙間を縫って再び橋の上へと躍り出た。

敵の背後。ゼロ距離である。


『ナニッ!?』


グランツのパイロットが驚愕する。


「喰らえぇぇッ!」


インパルスの爪がグランツの背部スラスターを引き裂こうとする。

だが、敵も歴戦の猛者。

瞬時に反応し、背面のスラスターを噴射した。


ボォォォォォッ!!


「熱っ!?」


高熱のジェット噴射がインパルスを焼き払う。

フレンダはけぞり、バランスを崩す。

そこへグランツが旋回し、レールガンの銃口を突きつけた。


『終わりだ、ネズミ!』


至近距離からの射撃体勢。回避不能な距離だ。


「終わらせないっす」


インパルスの背中、フレンダの影からミカが身を乗り出した。

彼女の手には対物ライフルではなく、抜き打ち用の大型ハンドガンが握られている。

強風で髪が乱れ、肌は乾燥でピリピリと痛む。

だが、その碧眼だけは標的を完全に捉えていた。


「そのカメラアイ、割れろっす!」


ズドンッ!!

ミカの放った大口径弾がグランツの頭部メインセンサーを直撃した。

強化ガラスが砕け散り、敵の視界がブラックアウトする。


『ぐあぁぁッ!?モニターが!?』


視界を奪われたグランツはパニックに陥り、足を滑らせた。

マグネットアンカーの制御が乱れる。強烈な横風がバランスを失った巨体を襲った。


ギギギ、バキンッ!!


手すりが折れ、グランツが橋から転落した。


『うわぁぁぁぁぁ!!』


断末魔と共に、雷雲の守護神は雲海へと消えていった。


「……はぁ、はぁ……」


戦闘終了。

フレンダ達はレーダー基地の中枢を爆破し、任務は完了した。

静寂が戻った山頂。

東の空から神々しい朝日が昇り始めていた。

雲海が黄金色に輝き、凍てつく空気を暖めていく。


「絶景っすね、二度と来たくないっすけど」


ミカはインパルスから降りへたり込んだ。

手足の感覚がない。顔は凍傷寸前で真っ赤だ。


「ミカちゃん、起きて!ご褒美の時間だよ!」


対してフレンダは元気だった。

彼女は崩壊した基地の奥、将校用居住区へと走っていった。

数分後。

彼女はヘルメットの中に何かを大事そうに抱えて戻ってきた。


「見て見てあったよ、『天空鶏』の卵!」


それはダチョウの卵ほどもある巨大で青白い卵だった。

高地順応した特殊な鶏の卵。

市場に出れば金貨数十枚は下らない代物だ。


「調理器具なんてないっすよ?」


「あるよ!」


フレンダはグランツが落としていった装甲板を拾い上げ、インパルスのエンジンの排熱ダクトの上に置いた。

即席の鉄板だ。


「割るよー!」


パカッ。

殻を割ると鮮やかなオレンジ色の黄身がジュウゥゥと音を立てて広がった。

濃厚な香りが希薄な空気に漂う。


「悔しいけど、いい匂いっす」


ミカのお腹が素直に鳴った。

二人は朝日を眺めながら熱々の目玉焼きを分け合っていた。

フォークなどない。

サバイバルナイフで切り分け、直接口に運ぶ。


「ん~っ!!」


フレンダが目を細めて絶叫する。


「濃厚、クリーミー!白身がプリプリで黄身がチーズみたいに濃いよ!空の味がする~!」


ミカも一口食べた。

熱い塊が冷え切った食道を通り、胃袋に落ちる。

身体の芯から熱が広がる感覚。


「美味いっす、生き返るっす」


ミカは思わず涙ぐんだ。

恐怖と、寒さと、乾燥と、疲労。

それら全てが、この一口のタンパク質で浄化されていくようだ。


「ね、来てよかったでしょ?」


フレンダが口の周りを黄色くしながら笑う。


「よくはないっす。肌はガサガサ、借金はまだ残ってる、帰りの下山も地獄っす」


ミカはため息をつきつつ、もう一口卵を頬張った。


「でもまあ、この卵に免じて今回だけは許してやるっす」


雲上の要塞で、二人の笑い声が風に乗って空へと消えていった。

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