【翠緑の密林と甲殻の王】
ジジジジジジ……
耳障りな虫の羽音が重苦しい空気の中に響いている。
リバティー・アライアンス管轄外、第3湿地帯。
通称「緑の地獄」。
太古の植物が巨大化して生い茂り、地面は底なしの沼地。
気温38度、湿度95%。
それはもはや「空気」ではなく、まとわりつく熱いスープの中を泳いでいるような感覚だった。
「最悪っす」
巨大なシダ植物の葉をかき分けながら、ミカ・フォルクス少尉が呻いた。
彼女はクロスレイダー(森林迷彩仕様)に跨っているが、タイヤが泥に足を取られ思うように進まない。
「ベタベタするっす。スーツの中に冷却ジェルパッドを詰めてきたっすけど、もうお湯になってるっす。カビが生えそうっす」
ミカの声には覇気がない。
潔癖症の彼女にとって乾燥した砂漠はまだマシだった。
だが、この湿地帯は生理的に受け付けない。
腐葉土の甘ったるい腐敗臭と肌に張り付く湿気が、彼女の精神をごりごりと削っていく。
『我慢してください、ミカ少尉。これも全て前回の任務で発生した「赤字」を補填するためです』
通信機から、KARMAメイの冷静なツッコミが入る。
そう。前回のホテル潜入任務でミカは派手に暴れすぎた。
特注のドレス代、破壊したシャンデリア、調理器具、そして高級食材の弁償。
それら全てが報酬から差し引かれ、二人の部隊会計は火の車。いや、焼け野原となっていた。
「分かってるっすよ。だからってなんでよりによってこんな場所なんすか」
『高額報酬の条件が「誰も行きたがらない危険地帯」だったからです』
「世知辛いっす」
ミカはゴーグルのワイパーを動かした。
結露で曇った視界を拭うためだ。
その視線の先を銀色の巨体が軽快に跳ねていく。
「おーい、遅いよミカちゃん!早くしないとカニさんが逃げちゃうよー!」
ロード・インパルス・アビスに乗るフレンダ・ディーコン少尉だ。
彼女はインパルスの長い脚を活かし、泥沼をものともせずに進んでいる。
その声はこの蒸し暑さを吹き飛ばすほど元気だった。
「少尉は元気っすね、このサウナみたいな環境でよくそんな大声が出せるっす」
「当たり前だよ!だって今日の晩ご飯は『カニ』だよ!?しかもただのカニじゃないんだから!」
フレンダはインパルスのコクピットで、持参したタブレット端末をニヤニヤしながら眺めていた。
「この湿地帯の主、『キング・クラブ』!戦前のバイオ実験で巨大化した幻のシオマネキの変異種!その殻の中には濃厚でクリーミーな味噌と、プリップリの身がぎっしり詰まってるんだって!」
フレンダの瞳が食欲という名の野望でギラギラと輝いている。
彼女にとってこの過酷なジャングルは「巨大な生け簀」でしかない。
『補足します。キング・クラブは、第3世代ヘキサギアと同等のサイズを持つ、指定危険生物です。過去に遭遇した部隊の生存率は20%未満。食材というよりは動く要塞と考えた方がいいでしょう』
メイがデータを読み上げるが、フレンダの耳には届いていない。
「要塞だろうが何だろうが、殻を剥けばただのご馳走だよ!待っててねカニちゃん!今すぐ熱々の焼きガニにしてあげるから!」
「はぁ、また食中毒になっても知らないっすよ」
ミカはため息をつき、クロスレイダーのアクセルを回した。タイヤが泥を巻き上げ彼女のスーツに茶色い飛沫が飛ぶ。
ミカの眉間に、深い皺が刻まれた。
ジャングルの奥地へ進むこと数時間。
植生が変わり、苔むした石造りの構造物が見え始めた。
目的地の「古代遺跡エリア」。
ここに墜落した無人輸送機のブラックボックスを回収するのが、今回の表向きの任務だ。
「……静かっすね」
ミカがクロスレイダーを止め、周囲を警戒した。
先ほどまでうるさいほど鳴いていた虫や鳥の声がピタリと止んでいる。
風も止んだ。
あるのは、足元の沼から時折上がる不気味な気泡の音だけ。
ボコッ……ボコボコッ……
「何かいるっす」
ミカの「掃除屋」としての勘が告げている。
このエリアは何者かの縄張りだ。
それも、他の生物を寄せ付けないような、圧倒的な捕食者の。
「あ、見てミカちゃん!あれ!」
フレンダが指差した先。
遺跡の壁面に、巨大な爪痕が刻まれていた。
コンクリートをバターのように切り裂いた鋭利な断面。
そして、その周囲にはかつてここに挑んだであろうバルクアームの残骸が飴細工のように捻じ曲げられて転がっていた。
『解析、残骸の切断面は圧力による圧壊と切断が同時に行われています。推定握力、500トン以上』
「冗談じゃないっす、プレス機が歩いてるようなもんっすか」
ミカがライフルを構えようとした、その時だった。
ズズズズズズ……ッ!!
二人の足元の地面。いや、泥沼全体が大きく隆起した。
地震ではない。
沼の底から、巨大な質量が浮上してきているのだ。
バッシャァァァァァン!!!
泥水を噴き上げ、その怪物は姿を現した。
太陽を遮るほどの巨体。
苔と泥に覆われた、岩盤のように分厚い甲羅。
無数に蠢く脚。
そして、体の右側にはインパルスの全長ほどもある異様に発達した巨大なハサミ。
『ギチチチチチチ……ッ!!!』
空気が震えるような摩擦音。
キング・クラブ。
密林の王が侵入者たちを見下ろしていた。
突き出した二つの眼柄がギョロリと動き、ミカとフレンダを捕捉する。
「で、デカいっす!ヘキサギアより大きいじゃないっすか!」
ミカが圧倒される中、フレンダだけは歓声を上げた。
「うひょー大物だァ!!見てよミカちゃん、あのハサミ!あの中に何キロ分のカニ肉が詰まってると思う!?」
『フレンダ、警戒を。対象の高エネルギー反応、口元に集中しています』
メイの警告。
キング・クラブの複雑な触角が蠢く顎が開き、泥水を吸い込み始めた。
シュゴオオオオオッ……
「来るっす!回避!」
ミカが叫ぶと同時にカニの口から高圧の水流が発射された。
ズドォォォォン!!!
それは「水鉄砲」などという生易しいものではない。
ウォーターカッターだ。
超高圧の泥水がミカのいた場所の巨木を一瞬でへし折り、地面を抉り取った。
「うわっ!?」
ミカはクロスレイダーを横転させ、間一髪で直撃を避けた。
だが、衝撃で巻き上げられた大量の泥が空から降り注ぐ。
バシャッ、ベチャッ。
ミカの動きが止まった。
彼女の愛用するスナイパースーツ。
そして、防護マスクのバイザー。
それらがドブのような臭いのする黒い泥でべっとりとコーティングされていた。
静寂。
フレンダが恐る恐る声をかける。
「ミ、ミカちゃん?大丈夫?」
ミカはゆっくりと泥を拭った。
バイザーの下の瞳は、ジャングルの闇よりも深く冷たく澱んでいた。
「臭い」
彼女は低く呟いた。
「腐った藻と、虫の死骸と、メタンガスの臭い。私のスーツが産業廃棄物みたいになってるっす」
カシャッ。
ミカはライフルのボルトを引いた。
その動作には一切の迷いも慈悲もない。
「許さないっす」
彼女はクロスレイダーのエンジンを吹かした。
泥まみれのアクセルを全開にする。
「そのふざけた甲羅を剥がして、中の味噌ごと消毒してやるっすゥゥゥッ!!!」
「ミカちゃんがキレた、こうなったら止まらないよ!行くよメイ、 私たちも続く!」
『了解、戦闘モード移行。本日の献立:キング・クラブのボイル、高火力添え』
逆上した潔癖症と腹を空かせた野獣。
二人の悪食コンビが密林の王へと襲いかかる。
ガギィィィン!!
金属音と火花が散った。
フレンダのロード・インパルスがキング・クラブの背後を襲った音だ。
だが、インパルスの顎はカニの甲羅を貫くどころか表面を滑って弾かれた。
「硬っ、何これ!?缶切りがないと開かないよ!」
フレンダが悲鳴を上げる。
キング・クラブの装甲は苔とぬめりに覆われた多層構造になっており、物理攻撃を無効化してしまうのだ。
『警告。対象の甲殻硬度、推定モース硬度9以上。加えて表面の粘液が衝撃を拡散させています。生半可な火力では「殻剥き」は不可能です』
メイが冷徹に分析する。
「だったら、一点集中でこじ開けるまでっす!」
泥だらけのクロスレイダーを駆るミカが側面に回り込んで対物ライフルを放つ。
ズドンッ!ズドンッ!
大口径の徹甲弾が命中する。
だが、それすらも甲羅に浅いクレーターを作る程度で致命傷には至らない。
逆に、刺激されたキング・クラブが巨大な右手のハサミを振り上げた。
『ギチチチチッ!』
ブォォォン!!
「危ないっす!」
ミカは慌ててクロスレイダーをバックさせた。
ハサミが地面を叩く。
衝撃波で泥が津波のように押し寄せ、大木がマッチ棒のように粉砕される。
「あんなの食らったらペシャンコっすよ!?」
攻めあぐねる二人。
キング・クラブはその巨体でジリジリと二人を追い詰め、再び口元に泥水を溜め込み始めた。
「くそっ、どうすれば……」
フレンダが悔しそうに唸る。
「中身は絶対美味しいのに、このままじゃ食べられない!」
その言葉を聞いた瞬間、ミカの脳裏に閃くものがあった。
彼女はバイザー越しに周囲を見渡した。
地面から立ち上る湯気。
ボコボコと沸騰する泥沼。
このエリアは地下深くのマグマ溜まりに近い「地熱地帯」だ。
「少尉、カニを食べる時一番いい調理法は何だと思うっすか?」
「え?焼きガニもいいけど、やっぱ茹でるのが一番かな?」
「正解っす。硬くて開かないなら、茹でて柔らかくすればいいんすよ」
ミカはニヤリと笑った。
彼女は通信で指示を飛ばす。
「メイ、地熱の圧力が一番高いポイントを検索!少尉は奴をそこへ誘導するっす!」
『了解。前方50メートル、間欠泉の噴出孔を確認』「オッケー!任せて!」
フレンダはインパルスをキング・クラブの正面に躍り出させた。
そして、わざと挑発するように爪を鳴らす。
「おーい、ここだよカニさん!美味しそうなインパルスだよ、カルシウムたっぷりだよー!」
『ギシャァァッ!』
キング・クラブが反応した。
目の前のチョコマカとした銀色の狼に怒り、巨体を揺らして突進してくる。
地響きと共に巨大なハサミが迫る。
「こっちこっち!」
フレンダはギリギリで攻撃をかわし、指定されたポイント、岩盤が露出したエリアへと誘導する。
カニがその中心に踏み込んだ、その瞬間。
「今っす、徹甲弾装填!」
ミカはクロスレイダーを急停止させ、ライフルを構えた。
狙うのはカニではない。
カニの足元にあるひび割れた岩盤だ。
「圧力鍋のスイッチ、オンっす!」
ズドォォォォン!!!
徹甲弾が岩盤を貫いた。
地中の圧力バランスが崩壊する。
ブシュゥゥゥゥゥゥッ!!!!!
大地が裂け、そこから摂氏100度を超える高温の蒸気と熱湯が柱となって噴き上がった。
天然の高圧洗浄機が、キング・クラブの腹部を直撃する。
『ギィィィィィィッ!?』
カニが悲鳴を上げひっくり返る。
高熱の蒸気が鉄壁の甲羅を加熱し、内部の組織を変性させていく。
黒っぽかった甲羅の色が、見る見るうちに鮮やかな「赤」へと変わっていく。
「あはは、真っ赤になった!」
フレンダが手を叩いて喜ぶ。
「今っす、関節が緩んだはずっす!」
「いただきまァァァす!!」
フレンダのインパルスが跳躍した。
赤く茹で上がったカニの腹部めがけて全力の顎を突き立てる。
今度は弾かれない。
熱で脆くなった装甲を貫き、中枢神経を断ち切る。
キング・クラブは数回痙攣した後、ドサリと動かなくなった。
戦闘終了から10分後。
そこは戦場ではなく、巨大な野外キッチンと化していた。
インパルスのエンジンの余熱と持参した小型バーナーを使い、フレンダは巨大なハサミの解体作業に入っていた。
「見てミカちゃん、この身の詰まり具合!」
ナイフを突き立てバキッ、と音を立てて殻を剥くと、中から湯気を立てる真っ白なカニ肉が現れた。大人の太ももほどもある大きさだ。
「ん~っ、熱っ!うまっ!!」
フレンダはハフハフと言いながら、豪快にかぶりついた。
口いっぱいに広がる甘みと濃厚な旨味。
至福の表情。
「少尉、データ回収は終わったっすか」
ミカは持参したペットボトルの水で泥を洗い流しながら呆れたように聞いた。
「終わってる終わってる!ほら、ミカちゃんも食べなよ!これ食べないと損だよ!」
フレンダが大きなカニ肉の塊を差し出す。
ミカは渋い顔をしたが、フレンダの純粋な圧には勝てなかった。
恐る恐る一口食べる。
ミカの目が丸くなった。
「悔しいっすけど、美味いっす。泥臭さがないっすね」
「でしょ!?やっぱり苦労して狩った獲物は最高だね!」
泥だらけの服も借金のことも一瞬だけ忘れ、二人は密林の味覚を堪能した。
だが、その平和な時間は長くは続かなかった。
ゴボッ、ゴボボボ。
沼の方から、不穏な泡の音が聞こえてきた。
一箇所ではない。
四方八方からだ。
「ん?」
フレンダがカニ肉を咥えたまま振り向く。
ミカがライフルを構える。
泥沼から次々と姿を現したのは、先ほど倒したキング・クラブと瓜二つのカニたちだった。
サイズこそ一回り小さいが、数は20匹以上。どうやらここは彼らの繁殖地だったらしい。
倒された「主」の臭いを嗅ぎつけ、一族郎党が集まってきたのだ。
『ギチチチチチ……』
無数のハサミが打ち鳴らされる音。
明らかに怒っている。
「少尉」
「な、なにかなミカちゃん?」
「おかわり、欲しいっすか?」
「ううん。もうお腹いっぱい!」
「なら、逃げるっすよ!!」
二人は食べかけのカニを抱え、ヘキサギアに飛び乗った。
背後からは、怒り狂ったカニの大群が凄まじい速度で追いかけてくる。
「うわぁぁぁん!しつこいよ君たち!」
「ついてくるなっす!私はカニよりエビ派なんすよー!」
密林に悲鳴が響き渡る。泥と湿気とカニの群れ。
借金は返せるかもしれないが、ミカの精神的疲労とクリーニング代はまたしても限界を突破するのだった。




