甘く惑わす匂い 参
犯行現場から役所に戻った私たちは、再度武官に話を聞くために牢に来ていた。王は牢越しの彼を見て、低い声で静かに告げる。
「彼女を見てきた」
「そうか……やはり現実か…」
____彼は目が覚めた。甘い幻惑から。
彼は私たちという第三者を通して自分がやったことを現実として捉えているのだろう。それは現実というレンズを通して世界を見るようなもので、彼の淡い希望を完全に打ち砕くものだ。だから、彼は今にも世界から消えてなくなりそうだった。
それに少し引け目を感じる。
だけど、現実から逃げることは決して彼のためにはならない。人は現実といつだって戦っている。戦いをやめれば楽にはなるだろう。しかし、それは人の持っている理性や理論といった知性を捨て去ることに近い。それは人間がただの動物に戻る瞬間。知性無き人間は獣だ。私はそう言う人を多く見てきた。
_____だから私は止まらない。
「なぜ、彼女を殺したのですか?」
「……殺した……ああ、殺したな……」
彼は気迫がなくまさに消える一歩手前のように見えた。それは許せない。私は牢の隙間から彼の胸ぐらをつかみ引き寄せる。檻に激しくぶつかって金属音が部屋に響き渡る。
「ふざけるな!逃げて楽になんてさせない!彼女は最後まで逃げてなんてなかった!」
彼女には抵抗の跡は一切なかった。そんな相手を彼は殺したのだ。
「落ち着け、蓮華!」
王に言われて私は彼から手を離す。私は再度彼に聞こうとするが、王に手で制されて黙る。そして王は私の代わりに告げる。
「……なぜ殺した?答えてくれ……頼む」
「俺は……」
彼は言い淀みながら告げる。
「彼女のすべてが欲しかった……それだけだった……」
声は震えている。しかし、それは進んでいるからこそだ。
「彼女は俺に言ったんだ……「このままがいい」と……だが俺は彼女が欲しかった……俺だけの彼女が……」
辛いことなのは分かるが彼は突き進む。彼女から逃げないために。
「……だから殺したのか?」
「気づかなかったんだ……抱きしめて殺してたなんて………あの時は感情が高ぶっていたから……」
彼の声はどんどん小さくなっていた。現実は彼を雨のように打ち付ける。
しかし、そんな彼に私はある事実を言わなければいけない。それはもう取り返しがつかないことだ。だから、きっと言わなくてもいいのだろう。言っても彼を絶望させるだけだ。分かっているのだ。だけど、きっと言わなければ彼は前に進めない。覚悟を決め私はゆっくりと口を開き言葉を紡ぐ。
「……彼女は生きていました」
「……どういうことだ?……確かに俺は殺して……」
「彼女は圧迫されての窒息死です。即死ではありません。だからもし、その場で心臓マッサージや人工呼吸をしていれば助かったかもしれません……」
「そんな……」
武官は崩れるように地面に座りこむ。
「そんな……今更知っても遅いじゃないか……」
確かに遅いのかもしれない。だが、決して無意味ではない。
「なぜ、彼女は抵抗しなかったのか……考えましたか?」
「い、いや……分からない」
「彼女はお前を愛していたかもしれない……」
「そんなわけない!彼女は俺を拒否した!」
私は彼女のことは知らない。だから断定はできない。だが、骨は嘘をつかない。彼女の肋骨は折れていた。それが異常だった。
「肋骨が折れるほど強く長く抱きしめていたのに、彼女には一切の抵抗の跡がない。初めは混乱などで抵抗できなかったのかと思いました…しかし、おかしいです。肋骨が折れるのには相当な力と多少の時間が必要です」
一点集中で肋骨に力が加えられないと短時間では折れにくい。そして多少時間があったなら抵抗してもいいはずだ。だが痕跡はない。
「つまり彼女は意図的に抵抗していなかった可能性があるのです」
「まさか王が言ったのは本当なのか?……」
「仮定です……残念ながら…」
骨は真実しか語らない。だが、人の感情は分からない。そこにあるのは事実だけだ。
「は……ははは……愛してくれてたのかもしれない……聞けないじゃないか…もうなにも……」
残った事実はただの現実だけで決して夢は見せない。しかし、幻想は見せる。淡くもう戻らない幻想だけを見せてくれるのだ。そう、夢から覚めないように。
「彼女は怖かったのかもしれないな……関係が変わってしまうのを」
王は静かに呟く。
「かもしれませんね……」
願望なのかもしれない…でも、それぐらいは許してほしい。
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