一矢報いる
獣は牙を剥き出しにして唸った後、再び雄叫びを上げた。それはこの闘いが始まる時のそれとは違い、獣の怒りが篭っていた。
「……ははっ……奴さんも本気だってか、いよいよ生きて逃げられるかわからなくなってきたじゃねえかよ……へへへっ……」
「ライル……」
ふと横を見ると少し向こうでユリアがこちらを見つめていた。まだ逃げていなかったのか、と思いながらも、小さく笑みを浮かべ、早く行けと促す。
「早く行け! 後で追いかけに行くから! 早く!」
「でも……」
「いいから早く行け! 自分守るので手一杯なんだよ! 俺じゃお前ら守りながらなんて闘えねえんだ! そのアホ連れて早く行け!」
彼女も気圧されたか、俺の意思を汲み取ったか、ジュリアンを引きずって逃げ始めた。
すると獣はユリア達の方を向き、そちらへ行こうと体の向きを変えていた。
「お前の相手は俺だろう? 他所向いてんじゃねえよ」
足元に転がっていた石ころを拾い、獣の頭目掛けて投げつけ、獣の注意を引きつける。俺の狙い通り獣はこちらの方へ首を向け、飛び掛かってきた。
あんな巨体に踏み潰されればひとたまりもないだろう。もしも踏み潰された時の、自分の悲惨な死に様を脳裏に浮かべながら、真横に飛び込み、受身を取ってすぐに起き上がる。
「……めちゃくちゃ痛え……」
小言をぼやきながら駆け出し、獣の脇腹目掛けて突きを繰り出す。二度は外さない。サーベルの先端は硬質な体毛を掻い潜り、獣の脇腹に突き刺さった。
手に伝わる感覚は生々しく、鳥肌が立ち、今までにない悪寒が襲いかかってくる。それを無理矢理ねじ伏せ、叫びながら更に押し込み、下向きに斬り払おうと力を込める。
「断ち切れぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ‼︎」
しかしその硬い肉質を断ち切る事はできず、止むを得ず刀身を獣の脇腹から引き抜いた。
獣の脇腹からは鮮血が溢れ出し、獣は叫び声を上げ、のたうち回った。
「……へへっ……少しは効いたかよ……」
体はもう限界を迎えているらしく、視界は霞み、のたうち回る獣の姿をぼんやりとしか捉えられなかった。
逃げなければ……今だったら、きっと獣も退くだろう。しかし、もしも退かなかったら、あれが屋敷に、村に向かい暴れ回ったとしたら、どれ程の犠牲が出るだろうか。どれだけの人が死ぬだろうか。
逃げ出したい。そんな感情を押さえ込み、のたうち回る獣を睨みつけ、サーベルを両手で構え、駆け出そうとした瞬間、体中から力が抜け落ち、膝から崩れ落ち、そのままうつ伏せに倒れる。
「……は?……動けよ……嘘だろ……」
体を起こそうとするも、腕に力が入らず、上体を起こす事すらできない。とても逃げ出せるような状態ではなかった。体はとうに限界を迎え、動くこともできない。その事実が俺を戦慄させる。
心臓は早鐘を打つようにその心拍を増し、体中から冷や汗が噴き出し、息苦しさが襲い掛かり、まともに呼吸をする事が出来なかった。
倒れ伏し、動けないままの俺を嘲笑うように獣は起き上がり、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
「……あー……マジか……俺こんな死に方するんだ……ははっ……笑えねえ……」
死が一歩ずつ迫って来る。逃れる事はできない、数刻もすれば俺の亡骸が出来上がるだろう。
そして獣は前足で俺を転がし、仰向けにし、ゆっくりと口を開き、屍肉の悪臭が混じる息を吐き出した。
「……うっ……おぇぇっ‼︎……」
屍肉の咽せ返るような悪臭に吐き気が込み上げる。
「……ちくしょう何が化け物退治だよ……俺が退治されてどうすんだよ……」
悔しさと恐怖、二つの感情が混ざり合い、視界は涙と疲れで更に霞んでいた。
獣は大きく口を開き、今にも俺の頭を噛み砕こうとしている。
「死」という概念に対して、今までは漠然としたイメージしか持っていなかった。しかし、今は違う。今まさに俺は死の直前というものを味わっている。死の恐怖というものが、これほどのものだなんて、誰が想像できただろうか。
今過ぎている時間は結果として見ればさほど長い時間の事ではないだろう。しかし、死に直面したこの状況では、一秒すらとても長い時間のように思えた。
そして、この俺ライル・ベルンハルトなる一人のしがない使用人の死という事象が淡々と執り行われようとしていたその時、その事象は覆された。




