第三章|崩壊の砂時計
婚約発表を翌日に控えた夜、
理沙は自室でウェディングドレスのカタログを眺めていた。指先でページをめくる音だけが、静かな部屋に響いていた。
ふと、あの日の顔合わせで母親が漏らした一言が、頭の片隅をよぎった。
——どこかでお会いしたことがあるような。
理沙はそれを軽く振り払い、カタログのページに視線を戻した。
スマートフォンが震えたのは、日付が変わる直前だった。
差出人不明のメッセージ。理沙は特に警戒もせず、それを開いた。
指先が凍りついたのは、その一瞬後だった。
一枚の画像。
序章で、理沙が屑籠に投げ捨てたはずの、あの半券。
それが今、新品のベルベットの小箱に大切に収められ、舞浜近郊のレストランの、あの日理沙が拒絶したはずのメインテーブルの上に置かれている。
テーブルには、真っ白なクロスと、燭台の灯りまで用意されていた。まるで、十年前に叶わなかった夜を、
今この瞬間に再現するかのように。
添えられた一行の文字。
「君が塗り替えた経歴の、真実を。関係各所へ送った」
理沙は震える指で、代理人の番号を呼び出した。
呼び出し音すら鳴らない。
無機質なアナウンスだけが、回線の向こうから返ってきた。
——おかけになった番号は、現在使われておりません。
その夜のうちに、婚約者の母親から電話が入った。声は硬く、事務的だった。
「理沙さん、あなたの経歴について、少しお話を伺いたいことがあります」
理沙は必死に言葉を取り繕おうとした。
だが電話の向こうの声は、理沙が何を言う前から、すでに答えを知っているかのように落ち着き払っていた。
「学歴も、職歴も、ご実家のことも……もう、調べはついているんです」
その口調に、理沙はかすかな違和感を覚えた。
まるで台本を読み上げるような、迷いのない声。
そして、あの顔合わせの日に感じた既視感が、再び胸の奥をざらつかせた。
——この人は、なぜこんなにも確信を持っているのだろう。
まるで、最初からすべてを知っていたかのように。
理沙には、その違和感の正体を突き止める余裕はもう残っていなかった。
翌朝、所轄の警察から照会の連絡が届いた。
数日後には税務署からの通知が重なった。
社交界で親しくしていたはずの友人たちからのメッセージは、既読すらつかなくなっていた。
数週間前まで理沙を取り囲んでいた羨望の眼差しは、まるで最初から存在しなかったかのように、潮が引くように消えていった。
理沙が積み上げてきた「完璧な経歴」は、彼女自身が塗り重ねた嘘によって、音を立てて崩れ去っていった。
婚約は白紙に戻され、理沙が誇っていたタワーマンションの部屋も、契約解除の通知とともに手放すことになった。
すべてを失いながらも、理沙の中にはただひとつの疑問だけが、棘のように残り続けていた。
——一体、誰が。何のために。




