最終章|冷たい雨の降る街
第四章
すべてを失った理沙は、荷物をまとめた段ボール箱の前で、ふと、あの食事の席で古い友人が漏らした一言を思い出した。
「進藤くんと付き合ってた頃の理沙の方が、素直だったっていうか」
——あの時は聞き流した言葉が、今になって重く胸に響いた。
そして、婚約者の母親の、あの妙に確信めいた口調。理沙の中でばらばらだった違和感の欠片が、
ひとつに繋がっていく。
自分を地獄へと誘い込んだのは、他でもない——十年前、自分が屑籠に投げ捨てたあの男、進藤健一の復讐だったのだと。理沙はようやく理解した。
理沙のタワーマンションから数キロ離れたオフィスビルの一室。進藤健一は、窓辺でカクテルグラスをゆっくりと揺らしていた。
氷が溶ける音だけが、静かな部屋に響いている。
デスクの上のスマートフォンが短く震えた。
婚約者の母親からのメッセージだった。
「すべて、予定通りに終わりました」
進藤は画面を一瞥しただけで、返信はしなかった。
彼女こそが、十年前、進藤が財閥系の顧客を任される中で知り合った、古い恩人だった。
進藤が長年温めてきた計画の中で、彼女は「理沙にふさわしい相手」を演出するための、最後のピースだった。役員の縁談も、婚約発表の日取りも、すべては進藤が彼女を通して静かに仕組んだ舞台装置に過ぎなかった。理沙の社会的な死を報じるニュースの一報は、彼にとって、静かな水面に一滴の雫が落ちるほどの出来事に過ぎなかった。
彼はデスクの引き出しを開け、あの日理沙が屑籠に捨てた半券を取り出した。
十年間、肌身離さず持ち続けたそれを、机の上にそっと置く。
色褪せた紙片は、あの日と変わらず、そこにあった。
進藤は油性のサインペンを手に取ると、半券の表面に、かつて理沙に浴びせられた屈辱を刻み込むように、無造作な筆致でこう書き殴った。
「完」
そして、それをシュレッダーへと放り込んだ。
甲高い駆動音とともに、紙片は瞬く間に細かく裁断されていく。
夢の世界の記憶は、今、彼の心の中から完全に消却された。
進藤は薄く笑った。
グラスの中の氷が、最後の一片を残して溶け切った。
窓の外では、何事もなかったかのように、冷たい雨が東京の街を静かに濡らし続けていた。
— 完 —




