臨界絶燃(オーバーヒート)
『臨界絶焼』
1
熱を感じた。燃え盛る炎のような熱を。
火葬の時、もしも肉体に感覚があるならばこれくらい熱いのかなと思う。しかし少し頭を巡らせると、この熱が火葬と同質のものではないことに気づいた。
なぜならこの熱は自分の中にあるからだ。
熱。生命活動の活性化。細胞一つ一つが『生きろ』と告げてくる感覚。外敵への反抗としての体温上昇。
だけどこれはきっと自分自身の力ではなく、借り物で、偽物に過ぎないのだ。
初めの行動は逃走だった。必死で逃げた。そうしなければ生きることができないのだから。
次に逆襲した。手元にあった石を軽く放り投げた。ブチッという音がしたので命中したはずだ。
そして休息した。前後左右も何ひとつわからないままで。重力に身を委ねて、眠った。
目覚めた。どのくらいの時間が経ったのかはわからない。
あの時の記憶を確認する。胴を絶った刃。その持ち主の少女霊。そこから伸びていた一本の糸のような細い霊力。その果てにいる誰か。
逆襲しなければ。
貧弱で喧しいだけの鳥や、着飾っただけの不格好な傀儡を壊したところでなんの意味もない。
壊すべきは黒幕ただひとり。
全神経を解放し、あるがままの世界を感じる。冷えた海風、土から這い出る蝉、赤子の寝息、排気ガスの香り、口内に滲む鉄の味、萎れる花、揺れる木々、空を覆う雲、ある老人の死、どこかの家の喧噪、飛び交う微生物、雲の向こうの星空、血潮の流れ。
町が手に取るように解る。
すぐに黒幕が見つかった。起き上がり、歩き始める。
2
亘は鎌鼬家に来ていた。周囲には街灯以外の光源はなく、自宅に寄った際に回収した懐中電灯だけを頼りに、木々の間を縫い、屋敷の中の様子を伺う。
あまりにも静かだった。電気が点いているわけでもなく、人の気配もない。
腕時計の液晶パネルを確認する。23時30分。敵の待ち伏せを警戒するあまり慎重になりすぎたと亘は反省する。自宅、商店街を経由して鎌鼬家に来たが、途中まで霊禍の気配はゼロ。
そろそろ父親が帰宅して、半壊した自宅を目の当たりにする頃だ。どういう言い訳をすべきか亘は悩んだ。そんなことを気にする余裕がないことは亘も自覚していたが、そういうことばかり気にしてしまうのが彼という人間だ。
亘は恐る恐る正門へ回り込む。門の手前のアスファルトがひび割れ、その脇に血痕があるのを確認する。以前来た時にはなかったものだ。やはりここで戦闘があったのだろう、と亘は推測する。
奏と臨、両者の不在。つまり、敗北したと考えるのが妥当。
亘にはなにも見えていない。敵の正体も、能力も、出来事の時系列さえも。霊禍が生きている、という霊禍の姉の直感だけを信じなければならない。
だけど鎌鼬家にすら霊禍がいないのならば、どこへ向かえばいいのか。亘には予想もできなかった。
立ち尽くす亘。ぼんやりと次の行き先を考えていると、頬のあたりにぼんやりとした熱気を感じた。初夏の熱気ともまた違った、突き刺すような熱。
それはただの暖かい風のようにも感じられたが、亘はその中に、幽かな霊禍の匂いを感じ取った。
亘はすぐに走り出した。
3
『楽園』本部には人質となる奏と臨、そしてその他大勢の信者が居た。園田は別室にて封印していた三体の幽霊を解放・支配し、最大限の戦力を以て幽ヶ崎霊禍、そしてその姉を待ち構えていた。
生きている。
幽ヶ崎霊禍は生きている。
もはや迷いはなかった。実際に霊禍が動いているところを見たわけでも、霊禍が生きている確固たる証拠があるわけでもなかった。しかしそんな理屈を超越するほどの本能的な恐怖。
園田は中央ホールの壇上に座り、来る戦いの瞬間に備えていた。視界の隅に、鎌鼬奏が立っている。いざとなれば彼女の姿を見せ、人質として使えばいい。建物内にいる信者たちも同様だ。
玄関ホールからうめき声が上がる。先ほど使役を開始した甲冑の幽霊が、何者かの来訪を告げたのだ。園田は奏を連れ、瀕死の臨も信者に抱きかかえさせて玄関へ向かった。
正面玄関の遠くに、一つの火の玉のようなものが見えた。豆粒のようなサイズだったそれが、近づくにつれて大きくなり、解像度を増していく。中央には人の影。それは紛れもなく、幽ヶ崎霊禍だった。
「とうとう来やがった⋯⋯」震えが波紋のように身体を覆いつくす。手始めに甲冑の幽霊を霊禍の元へ向かわせ、攻撃命令を下す。幽霊は剣を振り上げた次の瞬間に消滅した。その瞬間は園田にも視認できなかった。
ここまでは想定通り。小手調べに過ぎない。園田はコウモリの幽霊を肩に装着する。既に翼はほとんど破けていたが、身体強化が主目的だった。
「そこで止まりなさい。これ以上近づけば⋯⋯アンタのお友達は無事では済まないわよ」
霊禍は無言のまま止まる。暗闇の中で紫炎がぼんやりと明るく、存在感を放っていた。霊禍の肌は赤く膨れて焼け焦げ、そしてそれが元に戻るというサイクルを何度も何度も繰り返している。園田は無意識のうちに自分の右頬の火傷痕をなぞった。
しばらくの沈黙。園田は焚火を眺めているかのような感覚になる。返事を催促しようと思ったところで霊禍が口を開く。
「⋯⋯⋯⋯なに?」寝起きのような柔らかい声。
園田は憤る。超感覚を持つお前に、この声が届いていないわけがない。
「だから⋯⋯これ以上近づいたらこの二人を殺すって言ってんの!」
「⋯⋯⋯⋯あぁ、そう」霊禍は再び歩き始めた。
「あぁそうって⋯⋯アンタふざけてるの? 友達が死んでもいいわけ?」
「ハハ。殺せないくせに」
我慢の限界に到達する。園田は奏の首を鷲掴みにし、親指で喉の正面に力を込める。霊禍はゆっくりと歩くばかりで攻撃する素振りはない。
「クソガキが⋯⋯! もっと友達を心配しろよ!」
「なんだかなぁー。今さ、すげー気分が冴えてんだよね。だからダチひとりの生き死になんて気にならないっつーかさ⋯⋯」
園田は乱暴に奏を地面に投げ倒した。奏は糸の切れた操り人形のように脱力して動かない。だが微かな息と鼓動の音だけは霊禍の耳に届いていた。
「ハハ。やっぱり」
「うるさい!」
霊禍はいつの間にか五メートルほどの所まで近づいてきていた。足取りは変わらず、軽やかで確実なまま。
「見るからに度胸ないもんな、お前。まぁ別にそれが普通だよ。人間どころか動物を殺すのだって大抵のやつには耐えらんないんだから」
「黙れ! 黙れよ⋯⋯!」
「⋯⋯⋯⋯なのにお前、なんで私だけ殺したんだ?」
「⋯⋯!」
霊禍が踏み込む。園田の懐に潜り込んだ。慌てて『不可視の攻撃』を放つも、霊禍の左手に軽々しく受け止められる。握られていたのは、白くて細長く、羽の生えた円柱状の幽霊。スカイフィッシュの幽霊だった。霊禍はそのまま片手で肉体をへし折り、地面に投げ捨てた。その一連の動作の間、そこに視線を向けることすらなかった。
園田はその一瞬の隙の間に、建物の中へ逃げていた。今の霊禍相手に隠れることがどれだけ有効かは分からなかったが、それでもできるだけ霊禍から離れたかった。臨と奏は置いてきてしまったが、もう既に意味を成さない駒だと思っていた。
奏を操ろうとする園田。しかしなぜか精密な制御ができず、諦める。まだ残っている手持ちの幽霊を確認する。背中のコウモリと、プラナリア。加えて先ほど爪を食べさせた、カマキリとイノシシ。
これ以上の手札は持ち合わせておらず、園田は逃亡を余儀なくされる。
4
仰向けで気絶している奏の胸元に霊禍の靴底が当たり、僅かに力がこめられる。
奏の口、そして首筋から澱んだ色の液体が飛び散り、辺りに飛び散った。奏の両目が開く。全身が驚いたように痙攣し、そして過呼吸になった。
「おい、なに寝ぼけてんだ」
咳き込みながら起き上がる奏。「あ、あれ、ワタクシなにしてましたっけ?」と困惑した様子。
「おまえ衰弱しきってるし、いいよもう、適当にそのへんで待ってな」
奏の頭が徐々に冴え、過去のことが自然と回想されていく。
園田を相手に推理を重ねた奏。『園田は何を恐れているのか』。導き出された結論は『霊禍と亘のどちらか』だった。あの時の奏は異常なまでに冴えていて、そんな高度な推理もなぜかできるようになっていた。
そして、最後に取った行動は、爪を飲み込み、それをすぐに体外へ排出するというものだった。『飲み込む』の定義がわからなかったが、園田の急ぐ様子からして、即効性の高い能力だろうと判断できた。そして奏は飲み込む直前に喉の下部に霊能力で切り込みを入れ、食道へ指を突っ込み、爪を受け止めたのだ。激痛を伴ったが、当時の奏にはなぜかほとんど平気だった。それよりも自分が園田の完全な支配下に置かれることが不愉快だった。そして薄れゆく意識の中で、傷を再接合。結果として、支配の精度は通常に比べて格段に下がり、霊禍から踏まれただけで目覚めるほどの不安定な状態になっていたのだ。
どうにか難所を切り抜けられたことに安堵する奏。しかし改めて霊禍を見ると、その様子の異常さに気づいた。
「い、いやちょっと!? あっつい! なんでそんなオーラ燃やしてますの?」
「⋯⋯ん? あぁ、ハハ、そんなことよりアレを助けときな」
奏は指差された方向を見た。玄関の柱に傷だらけの臨が横たわっているのを見て、慌てて駆け寄った。「臨! 目を覚まして!」狂ったように泣きわめく奏を霊禍は無視した。
今の霊禍には、そういったものへの興味がない。
あるのは逆襲の衝動だけ。
「そのまま待ってろ」霊禍はガラス張りの玄関口を割り、『楽園』本部へ入っていった。
入ってすぐの通路に、九人の信者がいた。年齢も性別もバラバラ。しかし中年が比較的多いように思えた。操られているくせに霊禍を見てビクビクしているのが目障りだったため霊禍がオーラを放った。彼らは一斉に気絶した。
窓の外を見る。イノシシに乗って逃亡する園田の後ろ姿が見えた。見る前からその輪郭を捉えることは出来ていたが、直接視認によって霊禍はこれからの園田の行動までもが手に取るように分かるようになった。距離にしておよそ三十メートル。こうしている間にもあっという間に距離が離れていく。霊禍はその場でボンヤリと園田の様子を眺めた。霊力が僅かに爪に集中しているのを見て、おおよそそこに能力の核心が秘められていることを確認する。
霊禍のオーラが後背部に集中し、巨大な翼を作り上げる。園田は背中に熱を感じて振り向いた。そこにあったのは見上げるほど大きな紫炎。
「うわああぁぁ⋯⋯ッ!」
園田は本能的な恐怖を感じ、イノシシの幽霊から落ちてしまう。木に激突したのも気にしない様子で、炎を見つめている。霊禍が爪先で地面をつつくと、目にも見えないスピードで肉体が地面と平行に移動した。霊禍は一瞬で園田の目の前に到達し、怯える表情を冷たく見下ろした。
「なぁ、なんでだ? 早く答えろ」
「い、嫌だあああぁぁ!」
「答えろっつってんだろ、クズが! なんで私だけは殺せたんだよ!?」
「熱いのはやめてぇ! おねがいだから!」
霊禍は舌打ちをした。そしてそのまま園田にのしかかり、殴る。近くに召喚されていたカマキリの幽霊が飛び出してくるも、霊禍の火炎放射を浴びて消滅した。
霊禍は園田の太ももの辺りに体重を預け、左手を掴んだ。
「答えらんねぇのか? じゃあ私が代わりに答えてやるよ!」
親指の爪の根元に指を突っ込み、肉ごと抉って爪を剥いだ。
「テメェは、見えないところで誰かが死のうが! どうでもよかったんだろ!?」
園田の絶叫を無視して、人差し指、中指と続けていく。
「そりゃそうだよな! 当たり前だ!」
園田は涙目になっていた。意識が遠のくと同時に激痛が走り、気絶すらもできない。
「遠い国の戦争も! 知らない土地の災害も! 近所で起きた交通事故も!」
ずっと掴まれている手首の皮膚は、高熱でブヨブヨになっていた。
「どうでもいいよな! みんなそうだ! そうでなきゃ生きていけねぇもんな!」
園田はかろうじて右手を動かす。鋭い痛みを堪えながら親指を口元に運び、決死の覚悟で爪を嚙みちぎり、飲み込む。瞬間、霊力が爆発的に増加した。
自分で自分を操る、園田の最終奥義。肉体のリミッターを意図的に外し、脳内に存在する『躊躇』すらも取り除くことで、超人的な肉体を手にすることができる。しかしあまりにも禁忌じみた気配を感じており、園田は今この瞬間に至るまでこの技を使うことはなかった。
効果は園田にとって想定外なほど強力だった。爪が音を立てて伸び、鋭くなる。園田はフルスピードで腕を振り、霊禍の二の腕を切り裂く。しかし霊禍は身じろぎもせず、その指をまとめて掴んで関節の逆方向に折り曲げた。森の中に絶叫が響いた。
「だけどオマエは! 私の死体を見てようやく気づいたんだろ! 自分が何をしたのか!」
園田が眼球を動かすと、二の腕が既に治っているのが見えた。園田はほとんど正気を失っていた。「命だけは⋯⋯」と掠れた声が鳴った。
「ハハハハハハハハハ! そういうとこ! 本当に普通だよテメェは!」
霊禍は園田の上半身にのしかかり、顔面を殴った。
「他人の命を奪っておいて、自分が死ぬ覚悟はない!」
右頬の火傷痕の辺りを執拗に殴った。
「残酷な決断をしたのに、その結果を直視できない!」
一撃で殺せるのにも関わらず、
「別にそんなの普通だよな! みんなそうだろうよ! オマエも同じだ!」
あえて手加減して何度も殴った。
「オマエは最初からその他大勢の一人に過ぎなかったんだ!」
高熱で園田の頬が柔らかくなり、砕けた骨の欠片が肉に食い込む。
「そんなお前がこんな宗教ごっこを始めたのが!」
霊禍は園田の髪を掴んで頭を持ち上げ、
「身の程知らずだったんだよ!」
拳を突き出した。
5
園田が再度殴られることはなかった。
霊禍の拳がバラバラに切り裂かれ、指がボトボトと地面に落ちた。霊禍は真横を見た。そこには木に寄りかかった奏が立っていた。
「霊禍さん⋯⋯もうやめて⋯⋯⋯⋯」
奏は頬を濡らしながら、まるで火葬でも見るかのような目で霊禍を見ている。
「なにもそこまでする必要はないでしょう⋯⋯! やめてくれれば、指は再接合しますから⋯⋯!」
霊禍の目は冷たかった。奏の全身に鳥肌が立つ。それでも、意地を張って目線は外さなかった。
「⋯⋯邪魔すんなよ」
そう宣う霊禍の指が静かに再生した。それを見て奏は再認識する。今の霊禍は、もはや人間の域を超えている。
「⋯⋯ねぇ、数時間前の私は、霊禍さんを信じてあの爪を飲み込んだんですよ? その人が霊禍さんを恐れているんだと推察して、霊禍さんがいるなら絶対に助けてくれるだろうって⋯⋯。
確かに助けてはくれたし、感謝はしてますけれど⋯⋯でも、そんなに惨いことまでしなくたっていいでしょう!? そんな、そんなになるまで、痛めつけなくても⋯⋯!」
園田の顔面は血に染まっており、なにがどうなっているのか奏にはわからなかった。ひしゃげた部分から心臓の鼓動に合わせて出血していた。
「うるっせぇなぁ⋯⋯オマエはあのメイドんとこで泣きわめいてりゃいいだろうが」
「⋯⋯⋯⋯そうですか」
震える右腕を、左手で支えながら霊禍に向ける。こと切れる覚悟で、可能な限り太く強い斬撃をチャージする。
霊禍の口角は上がっていた。先ほどからずっとそうだった。見る者の生気を吸い取るような笑みだった。それが不快で仕方がなかった。奏の心に僅かに残っていた躊躇は消え去った。
斬撃が放たれる。
しかし届かない。
圧倒的なオーラにかき消され、斬撃はまるで水中を通る弾丸のように失速し、威力を失っていった。
奏は絶望の表情を浮かべながら意識を失い、後ろに倒れる。その背中を細く白い腕が掴んだ。奏の身体はゆっくりと降ろされ、土の上に寝かせられた。
「おせーんだよ」霊禍が独り言のように呟く。
木々の奥に一人の少年がいた。その隣には白い守護霊がいた。少年は深く呼吸をしながら、霊禍の目をじっと見据えていた。
6
「霊禍には──」亘はか細い声を紡ぎ始めた。
「──それをする権利があると思う。きっと一度、ひどい目に遭わされたんだろうから。」
それは霊禍にとって予想外の言葉だった。亘はいつも予想を超えてきて、そしていつも気味の悪い言葉を吐く人間だったなと霊禍は回想した。
「そうか。オマエらしい言葉だな。だったら邪魔すんなよ。今からトドメ刺すから」霊禍は踵を返して横たわる園田に近づいた。
「待って」
「⋯⋯なんだよ」
亘は逡巡してから語り始める。
「霊禍は出会った時からずっと、僕のことを『亘』って呼んでくれてたよね。今みたいに『オマエ』なんて、どんな状況でも言わなかったよね」
霊禍は黙っている。
「いや、それはさ、問題の本質じゃなくて、僕が言いたいのはさ⋯⋯えっと、つまり」
霊禍は眉をひそめた。今まで、亘がここまで何かを言い淀むことなど一度もなかった。
「今のちょっと荒んでる霊禍もまた、紛れもない霊禍自身なのかもしれない。随分と凶暴だけど、それも一つの側面っていうかさ。落ち着いているときの人格だけが真実じゃないっていうか⋯⋯」
「⋯⋯そうかもな」と言いながらも霊禍は違和感を覚えていた。こんな状況とはいえ、亘はあまりにも口下手で、要領を得ない話し方をしている。
「だから僕には、今の霊禍を否定する権利なんてなくって⋯⋯だから⋯⋯」
その瞬間。亘がほんの一瞬だけ、腕時計を確認したのを霊禍は見逃さなかった。霊禍は刹那で亘の意図を理解する。オーラを集め、亘に向けて放出する。
亘の瞳に映っていた時刻は、二十三時五十九分。そしてちょうど今、零時になった。
日付が変わったその瞬間、亘とグレイヴの肉体が一つになる。闇夜に溶け込む黒色の巨体が、紫炎に包まれてその輪郭を輝かせる。
霊禍のオーラでも受け止めきれない質量が、直接霊禍の肉体にぶつかる。霊禍は後方へ吹き飛ばされ、大木に激突した。
「僕がこれから行うことは、ただの理想の押し付けなんだ」と、亘は自分に言い聞かせるように呟き、跳躍した。
7
「ハハハハッ! やっぱりオマエは最高だ!」
オマエ、と言われるのは亘にとって不快だった。
霊禍が誰かを痛めつけているのが不快だった。霊禍が友達の言葉に耳を貸さないのが不快だった。霊禍が冷静さを欠いているのが不快だった。霊禍が度を越えて口汚く誰かを罵るのが不快だった。
霊禍が人を殺すのが不快だった。
そんな霊禍を見たくはなかった。
きっと霊禍は一度死んだのだろうと亘は思った。あの強力な少女霊に殺されて、そして蘇ったのだと考えれば納得がいく。生まれ変われば誰だって別人になるはずだ。
ならば、今の霊禍は、自分の知っている霊禍とは別人なのではないか。そう考えかけて、すぐに思考を止めた。それは今考えるべきことじゃない。
眼前で霊禍が翼を広げ、亘にアッパーを打ち込んでくる。空中まで殴り飛ばされ、木々が遥か下に見えた。空中戦は不利だな、と亘は判断した。霊禍の追撃を避け、上向きに霊禍を蹴って地上へ急ぐ。長い腕で木を掴み、立体的に森の中を移動する。
まるで鳥と猿のように、両者は止まることなく森を進んでいった。その途中で何度か攻撃を繰り出しあい、亘は今の霊禍の力量を探った。
驚くべきことに、霊禍は亘のフェイント攻撃も難なく躱すことができていた。超人的なスピードを持つ融合体を相手に、高速で飛行しながらの三次元戦闘を難なくこなす霊禍。既存の超感覚よりもさらに鋭い感覚が備わっているのかもしれなかった。
一分が経過した。
そろそろ本格的に霊禍を無力化する算段を立てなければ、と亘は考える。そのためには場所を変えなければならない。亘は再び脚に全力を込め、木を蹴って跳躍した。
遥か上空。先ほどよりもさらに高く、広大な山はただの苔のように見えた。下方から霊禍も追ってきている。
亘は角度をつけて跳んでいた。向かう先は遥か東方。森を越えて町が見えてきた。深夜。町の灯りは疎らだ。亘はこの夜景に一瞬目を奪われた。またいつか、もしも霊禍も自分も無事でいたならば、再びこの景色を見に来たいと思った。だけどその霊禍が、今の凶暴な霊禍のままだったらと思うと、亘の欲求はしぼんでいった。
僕はなんで我儘なんだ、と亘は思う。
背後から迫りくる霊禍の殴打を、手のひらで受け止める。ここで身動きを封じられ、町内に落下したら最悪だ。亘は慎重に霊禍の攻撃の数々を無力化していった。
「なぁ! オマエのやりたいことは大体わかってるんだよ! 海に沈める気だろ!」
バレてたか。
「いいぜ! 海水浴でもなんでも付き合ってやるよ!」
やはり霊禍はまともじゃなくなっているな、と亘は思う。霊禍は勝負で不利になることを敢えてするような性格ではなかった。今の霊禍は、快楽のままに暴れまわっているだけだ。あの女への復讐はほとんど終わっている。言いたいこともおおむね言い切った。だから、それ以降のすべては、彼女の欲求のままに進む領域なのだろう。
海がすぐそこまで迫っている。
亘は霊禍の胴体を腕で掴み、自分もろとも海へ突っ込もうとした。しかし海面スレスレのところで霊禍に蹴りを喰らい、その勢いで埠頭に着地してしまう。霊禍も遅れて勢いよく着地する。地面にヒビが入った。
霊禍は海を見て笑った。
「じゃあさ! 海にドボンしたほうが負けな! わかった!?」
「⋯⋯遊びじゃないんだよ」
「ハハハハハ! うるせぇ~っ!」笑いながら霊禍は突撃する。
灯り一つない無人の埠頭で、二人の遊戯が始まった。
残り一分三十秒。
8
亘は、埠頭の貨物エリアまで後退した。コンテナが等間隔で積まれ、端には巨大なクレーンが設置されている。
地上戦を主とする亘にとって、その地形は一見すると不利なように思えた。地上にいると見通しが悪く、上から場を俯瞰できる霊禍が視覚情報を制する。しかし亘は、既に感覚の研ぎ澄まされている霊禍相手に索敵で勝とうとは思っていなかった。オーラの熱の強弱で大体の居場所はわかる。本当に必要なのは、攻撃の手数だった。
亘はコンテナのフチを巨大な手で乱暴に掴んだ。
空を飛ぶ霊禍めがけて、コンテナを投げつける。霊禍はそれに激突する前に、オーラを集めてコンテナを溶かした。文字通りの灼熱。亘はその力に驚嘆しながらも、二つ三つとコンテナを投擲する。
さすがの霊禍と言えど、巨大な鋼鉄の箱を連続で溶かすことはできない。複数の方向から迫られれば尚更、オーラを集中させづらくなる。よって霊禍が次にとる行動は、打ち返すか、避けるか。
亘はいくつものコンテナと同時に跳躍し、霊禍に迫る。ここで打ち返されても特段問題はない。融合体のフィジカルなら、さらに打ち返すのは容易だ。亘が目指すのは、霊禍が回避したその先の軌道。
予想は的中した。
亘の拳が霊禍にクリーンヒットする。霊禍は海面スレスレまで飛んで行ったが、翼を広げてどうにか留まった。
「やるなぁ!」威勢のいい霊禍の褒め言葉に亘は反応しなかった。
霊禍が反撃に移る。亘が放ったコンテナにあえて正面から突っ込み、打ち返す。亘はそれをさらに殴って打ち返すが、その軌道上から既に霊禍は消えていた。
側面。亘は本能的にその動きを察知し、ヒット寸前で右脚を動かし、拳を躱す。だが霊禍はさらなる追撃を加え、融合体の脚部にダメージを与えた。
そして霊禍は亘の脚を掴み、ハンマー投げの要領で巨体を海へぶっ飛ばした。
投げられる直前に亘がもう片方の足で霊禍を蹴っていたため、狙いはぶれてやや斜めに飛んだ。その軌道上にクレーンの骨組みがあり、亘は慌ててその柱を掴む。気がつくと霊禍は既に眼前に迫ってきており、慌ててクレーンを登って回避した。
霊禍はそのままの勢いで支柱に激突し、彼女の体温でポールが一本一本溶けていく。クレーンが海の方へ傾き始めた。
残り四十五秒。
落ちていく鉄柱を巨体が蹴り、転がりながら地上に着地する。右手にはクレーンのワイヤーが握られていた。
亘は近くにあったコンテナを投擲し、霊禍はそれを拳で弾いて海に落とす。その一瞬のうちに亘は霊禍の視界から消えていた。
とはいえ、亘の動きそのものは足音その他でほとんど筒抜けだった。ワイヤーロープで二つのコンテナを縛り、繋ぎ合わせている。霊禍はその様子を斜め上から眺めている。
「まぁーたなんか考えたな?」霊禍は未だに薄ら笑いをやめていなかった。
亘は力強くワイヤーを握りしめ、最大限の力量で霊禍めがけて投げつける。片方のコンテナに引っ張られるようにして、もう片方のコンテナも飛んでいく。亘は跳躍して前方の鉄塊に追いつき、それを横へと蹴る。
二つの箱は衛星のように回り始めた。
亘は二つの足場を行ったり来たりし、速度を増していく。暗闇に黒色の残像が馴染み、霊禍の目でなければ観測不可能な領域に到達する。コンテナが霊禍に衝突する寸前になり、亘は何の前触れもなく停止した。その場に留まったままの霊禍の眼前で、ワイヤーの中間地点を掴む。
そして、引く。
霊禍の両隣から鉄の壁が迫り、そして衝突する。甲高い轟音と共に潰れた箱から、中身の段ボールが溢れだした。
やった、と思った亘の顔に影が落ちる。見上げた先には霊禍がいた。真上に回避していたのだ。まるで、潰したと思った虫が何食わぬ顔で脇から出てきたような、そんな感覚だった。
落ちていくコンテナを力強く踏み、亘は跳ぶ。
残り八秒。
霊禍の瞳には巨人が映っていた。下に垂れる黒髪たちがまるで集中線のようにその姿を際立たせる。
牙が迫る。
霊禍にはもはや高揚感の一かけらも残っていなかった。何が何でも追撃してくる姿勢には感心したが、もはやここは足場一つない空中。もう亘には方向転換などできないのだから、この巨体の頭を蹴り飛ばして、海に落としてしまえばいいだけだった。亘の決死の突進すらも、今の霊禍にしてみればスロー再生にさえ思えた。タイミングを間違うはずもなかった。
巨人の顔面が足元に近づいていた。まさに、霊禍に喰らいつかんとする形相だった。彼女はつまらなさそうに足を引き、タイミングを見計らい、そして顎を目掛けて蹴りを入れた。路上の石を蹴るような、簡素な動作だった。
しかしそれが命中することはなかった。繰り出した右足は空を切り、勢い余って靴が脱げた。霊禍の背に鳥肌が立つ。真下に少年の顔が見えた。
亘。
融合の解除。融合中に亘本人の肉体が格納されているのは、巨体の胸部から腰にかけてのエリア。つまり先ほどの蹴りは、融合体と本体のサイズ差にあたる部分を掠めていったのだ。
それは理解できた。いくら意表を突かれたとはいえ、その程度の理屈は霊禍にも解る。しかし理解できないのはそこからだった。
亘は跳躍の推進力を持ったまま上昇し、そして霊禍に抱きついた。胴体の両側から手を回し、全身で霊禍を圧迫した。無論、霊禍のオーラが亘の肌に触れる。特に背中に生えた翼にあたる部分の熱は、霊禍自身の皮膚すら焦がすほどだった。
当然、亘の両腕が焼ける。それに限らず、霊禍に触れている部分はどこも熱された鉄板に押し付けられているかのような痛みに襲われた。
亘の腹の奥から、地獄の亡者を思わせるような激しい絶叫が発せられた。
皮膚が溶ける。腕が燃える。肉体が赤黒く染まっていく。絶叫は尚も続き、次第に喉が掠れていく。しかしその腕がほどけることはなかった。両の手と手首ががっちりと固定され、緩む気配すらもなかった。
霊禍は真横を見た。亘の顔があった。今までに見たこともないほど、死に物狂いで、狂気的で、残酷な形相をしていた。少し力を込めただけで、この少年はなすすべもなく落ちていく。そう考えると哀れだった。蜘蛛の糸にしがみつく罪人を見下ろす釈迦の心持ちだった。霊禍は何もしなかった。高度もそのまま。オーラの量も一切変えない。自分を抱きしめる少年になんの抵抗も加えない。
それでも彼の肉は朽ちていく。
もう一度彼の顔を見る。おおよそ表情と呼べるものはほとんど消えている。肌が赤く染まっている。
墓山亘の悲鳴を聞き流すのが。
墓山亘が燃えていくのをただ眺めているのが。
どうしようもなくつまらなくて、調子が狂うほど興醒めで、苛立つこともできないほどに居心地が悪くて、とにかく不快だった。
9
焼けるような感触が一気に消えていき、心地よい冷たさに包まれたのも束の間。文字通り傷に塩が染み込み始め、筆舌に尽くし難い痛みが亘の全身を突き刺した。朦朧とする意識の中で、彼の脳波が昂ぶり始めていた。
「オイ、起きろ」
呼びかけられて亘が目を覚ますと、そこは見たことのない宮殿のような建物の中だった。広々とした空間の両サイドに巨大な階段があり、壁から天井に至るまで華々しい洋風の装飾が施されている。
目の前にはグレイヴがいた。
「なぁ、ここどこだ?」と、何気なく聞いてくるグレイヴ。その声を聴くのは、亘にとっては二年ぶりとなる。
「わからない。というかグレイヴ、まだ喋れたんだ」
「俺は一度だって喋ったことはねぇよ」亘には意味が解らなかった。
二人は階段を上っていった。後ろのほうも確認したが、本来玄関ドアがありそうなところには、ただまっさらな壁があるだけだった。訝しみながらも、進む以外の選択肢はなかった。
少しばかりの警戒と共に階段を上り、辿り着いた先は果てが見えないほどの長い廊下。壁に等間隔で並ぶドアのうち、一つだけが半開きになっている。恐る恐る中に入ると、そこは空き部屋のようだった。使われていないであろう机や椅子が端のほうにいくつも置かれている。
「こんにちは」
軽やかな挨拶を投げかけてきたのは、その空き部屋の中心に座っている見知らぬ少女だった。年齢は亘と同じか、一つ下くらいに見える。鮮やかな金髪と豪華なドレスが特徴的だった。亘は奏のビジュアルを思い出した。
「⋯⋯ここはどこです?」警戒しながら亘は尋ねる。
「あらやだ、挨拶ひとつ返してはもらえませんのね。私ってそんなに嫌われているのかしら」
「⋯⋯⋯⋯」
「冗談ですよ。ほら、座ってください」
下を見るといつの間にか椅子がそこに出現していた。亘と少女は向かい合う形で座った。グレイヴは亘の真横で浮遊している。
「さて、最初の質問に答えましょうか。
ここはいわゆる精神世界。強い霊力を有する者だけが招かれる特別な空間です」
「へぇ。そーなんだ」グレイヴの生返事。「つっても意味わかんねーけど」
「世界や空間などというのは比喩に過ぎません。人間が持つ想像力・空想力・妄想力のようなものが異常なまでに高まり、自分がこういう世界にいると思い込むことがあるのです」
「じゃあ、あなたは僕の妄想?」
「いえ、私は勝手に上がり込んでいるだけの、ただの迷惑客に過ぎません。ついでにこの宮殿も、私が作り上げたものです。あなたの本来の精神世界は、もっと違う形をしているのですが⋯⋯その形を顕現させるだけの技術をあなたは持っていないのです」
「⋯⋯記憶が、曖昧なんですけど。なぜ僕はここにいて、あなたはここに侵入してきたのですか?」
「うふふ、質問が多いですね。ですが私も教えたがりな性格をしていますから⋯⋯この体験に免じて答えて差し上げますよ」
亘はふと窓の外に目線を向けた。ただ白いだけで何もない空間が見えた。
「まずあなたがここにいる理由。それは単に、あなたが死にかけているからです。このような空間を発生させるには強力な霊力が必要になるのは言うまでもないでしょうが⋯⋯あなたの生命の危機が脳波を増幅させ、それに足りうる力を発生させました。そして、あなたを蝕む強烈な苦痛から逃れるために、無意識のうちにこの空間を生み出し、そこに意識を隔離したというわけです」
生命の危機。そう言われて亘は思い出す。霊禍を抱きしめる感触。肌を焦がす熱。
「そして私がここにいる理由、ですけれどね。なんといいましょうか? 予行演習、とでも表現すればよいのですかね? 私にはある目的があり、霊力の扱いを可能な限り精密に行えるようにしておきたかったのです。精神世界への干渉はあらゆる霊能技術の中でもトップクラスの技巧が求められますから、必要不必要に関わらず体験しておくに越したことはないでしょう? あなたの脳内にこの空間が生まれたのをよい機会だと思いまして、勝手に練習台にさせていただきました。波長を合わせて目を閉じれば、あっという間に侵入完了ですよ」
「勝手な奴だなテメーは。自分で精神世界を作ればいいじゃねーかよ」
少女の口から笑いがこぼれた。「⋯⋯そうしたいところですけれどね。基礎的な霊力が足りないのです。他の人の精神世界に入り込むことと、自分で作ることの間には大きな力量の差がありますから。とはいえこういった立派な宮殿を作ることはできましたし⋯⋯霊力の量に関しては現在死にかけのあなたが勝っており、技術面では私の圧勝、といったところでしょうかね」
随分と誇らしげな顔をしていた。この表情も奏に似ているな、と亘は思った。
「まぁ別に僕の世界を練習台にするのは構いませんけど、さっき言ってた『ある目的』ってなんなんです?」
「うーん⋯⋯それを教えてもいいんですが⋯⋯代わりにこちらの質問に答えていただけませんか?」
亘は頷く。
「先ほどの戦い、勝手に見させていただいたのですけれど、最後のあの瞬間、どうしてあの女の子を抱いたのですか? 別に融合を解除する必要もなかったですよね。解除しなければ蹴りを喰らいはしたでしょうけれど、あの身体能力ならその勢いをカウンターにつなげることも、落下中のコンテナに再着地することも、陸地に逆戻りすることも、足に喰らいつくことも、爪で切り裂くことも、首を絞めることもできたはずです。それなのに、どうして?」
「さぁ、どうしてでしょう⋯⋯⋯⋯」
この少女の口ぶりから考えるに、おそらく融合に時間制限があることを知らないのだろう。知っているならば、コンテナへの再着地や地面に戻ることを例に挙げたりしない。そんなことをすれば時間切れになるからだ。もちろん、ブラフの可能性はあるが。
「⋯⋯⋯⋯別に、理由なんてありませんよ。首を絞めるより抱きしめたいと思っただけです」
少女の目つきが急激に冷たくなった。一瞬だけだが、確実に。冷淡な怒りがそこに見えていた。
「ハハハ⋯⋯くだらない。実にくだらないですね。暴力よりも慈愛ですか。殺意よりも友愛ですか。憎悪よりも敬愛ですか。迫害よりも博愛ですか。
最後に勝つのは愛だと、そう言いたいのですか」
「⋯⋯それは、あまりにも酷い邪推ですよ。僕が勝ったのか負けたのか、これで本当によかったのかなんて、僕自身知らないんですから。僕はそういう選択をした。それだけのことです」
「随分とスカした態度をとるのですね、あなたは」
「⋯⋯?」
少女は息を吸った。
「墓山亘。
お前には幽ヶ崎霊禍を殺す勇気がなかっただけだ。
暴走し、人を殺そうとし、あまつさえ仲間まで傷つけた。そんな手に負えない怪物を、ほんの少しの愛着に阻害されて、殺すのを諦めた。
幽ヶ崎霊禍が元に戻る保障などどこにもないのに。幽ヶ崎霊禍が海に落ちてくれる確信などなかったのに。幽ヶ崎霊禍が自分を殺さない理由などどこにも存在しないのに。
最後まで殺害という確実な手段を取ることができず、甘ったれた自己犠牲にすべてを委ねた。
お前はただの臆病者だ」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
亘は沈黙した。
「⋯⋯っるっせぇぞ! どうやったら臆病者が全身火達磨人間に抱きつけるんだよ! 考えて喋れや小娘が!」
グレイヴの反論に少女は耳を貸さなかった。亘は思う。彼女はそういうことを言っているんじゃないと。
「まぁ、少々取り乱してしまいましたけれど、最後の質問に答えて差し上げますよ」
亘は何も言わなかった。
「私の目的は、私の姉──鎌鼬奏を殺すこと。たったそれだけです」
そこで亘は目覚めた。
10
「⋯⋯いたい」
目を覚ました亘が最初に呟いたのはそんな一言だった。視界一面は白く、ここが病室であると認識するまでにそう時間はかからなかった。
「あー! 起きた! 起きましたわ!」
全身包帯グルグル巻きの亘に奏が飛びついた。ただでさえ噓みたいに痛いのに奏の体重までもがのしかかり、亘は思わず「ぐおぉー」と情けない声を出した。
「あっごっごめんなさい!」奏は慌てて身を起こした。「っていうかホント、無事でよかったですわ。あぁーもう、ホント、ホントに⋯⋯」目元に涙を浮かべる奏。
「ずっとここにいてくれたの?」
「いや、ついさっき臨が目を覚ますまではそっちにいましたわ。一応無事みたいでしたけれど、目覚めていろいろ説明するなり早々『亘くんのほうに行ってあげてください』とか言い始めて⋯⋯それに従ったというわけですわ。
あと、さっきまで亘くんのお父さんもいたのですけれど、今ちょうどトイレに行っていますわ」
なんかずっとあの父親はタイミングが悪いなと亘は思った。というか家、壊れてるし、どうしよう。
「⋯⋯まぁいいか」亘は呟いた。
「それより、霊禍は?」
「わかりませんわ。亘くんが病院に運ばれたときに、ワタクシに『悪かった』とだけ言って、それっきり病院の外へ行ってしまいましたから」
「それはいつ? 今から何時間前?」
「⋯⋯もう丸一日くらい経っていますわ」
それを聞くなり亘は黒い巨人に変身した。繋がれていた点滴の管が自然に外れていく。
「僕の身体はもうこれで治るから大丈夫。これから霊禍を探しに行くよ。お父さんは適当にごまかしておいてほし⋯」
とまで言って、亘は奏に何かを伝えなければならないのではないかと直感した。なにか、重大な記憶が欠落しているような、そんな感覚があった。わからない。わからないことに時間をかけても仕方がない。亘はかぶりを振って、窓枠に足をかけた。
「ねぇ、ちょっと、もうすこしゆっくりしてもいいんじゃありませんの?」奏が亘を呼び止めた
「⋯⋯?」
「あなたはなんていうか⋯⋯せっかく生き延びて、やっと目覚めたっていうのに、なんの余韻もなく、すぐに次のタスクに移るから⋯⋯たしかに身体は能力で回復するんでしょうけど、あなたの心は⋯⋯」
「そうかもしれない。だけどそれは後からでもできる」
亘は病室の窓から、月明りが照らす幽魔町へ飛び出した。
着地。
探すまでもなく、霊禍の行き先を亘は確信していた。下を見る。細長い足場には、まだ桜の花びらがすこし残っていた。赤く爛れていたのが噓のようにきれいになった腕をなんとなく見ながら、亘はチャイムを押した。
ドアが開く。「⋯⋯よっ」か細い声と共に会釈しながら霊禍が出てきた。短パンとタンクトップのラフな格好だった。対する亘は、病院の患者衣。
「お姉ちゃん寝てるし、外で⋯⋯」そう言って霊禍はドアを閉めた。その口調がいつもの霊禍のそれであることの亘は安堵した。
二人は無言のまま団地前の広場まで移動した。
幽魔団地のA棟とB棟の間にはテニスコートほどの広さの公園がある。二人はなんとなくブランコに並んで座った。
長い沈黙があった。
亘にとってここから見る景色は、街灯と団地の疎らな照明以外には何も見えない殺風景なものだった。霊禍には何が見えているのだろうか、と亘は考えていた。
「あのさ──」沈黙を破ったのは霊禍だった。「──私、あの時どうなってた?」
「正直に言って、普通じゃあなかったよ。野性的というか、本能だけで動いてるっていうか⋯⋯そんな感じ。記憶はあるの?」
「まぁ、ないわけじゃないんだけど⋯⋯頭真っ白になってたからなぁ。いやー恥ずかしい恥ずかしい」
霊禍は誤魔化すかのように笑った。亘は何も言わなかった。再び沈黙が訪れた。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯バカだよな、私は。本当に意気地なしでバカでクソなガキだ」
亘は肯定も否定もしなかった。
「命を賭けてまで自分を助けてくれた亘を看病することもなく、最初に出る言葉が感謝でもなく、なんなら今でも心の中じゃあ、この会話もちょっと面倒くさいとさえ思っていて⋯⋯」
かなり最低なことを言われているが、自分のことを『亘』と呼んでくれることへの安堵が勝った。
「⋯⋯要するにさ、私って本当に人間なのかなって、あれ以来ずっと考えてるんだ」
霊禍は組んでいた足をほどき、両足を地面に着けた。
「私に品性とか、倫理とか、そういうものが少ないのを、今までは私自身の個性くらいのものだと思ってたんだ。だけどあの時、あの幽霊に致命傷を喰らって⋯⋯たぶん、いや確実に、私は一回死んだ。死んだのに、生き返った。
あり得ない。自分でも信じられない。だけど確かに起きた出来事だ。亘がいなかったら、私はあのまま⋯⋯」
喉の奥から絞めつけるような吐息が漏れた。ブランコの鎖を握る霊禍の手が、小刻みに震えている。
「⋯⋯だから、怖いんだ。あの時私は死んでいて、いま見て感じている全てはただの幻なんじゃないかとか、死ぬ前と死んだ後の私は別人なんじゃないかとか、そういう疑問がずっと浮かんだり消えたりして⋯⋯」
霊禍は語るのを止め、しがみつくような深呼吸をした。
「あぁ、クソ⋯⋯ヤバい⋯⋯ヤバいわ、止まらなくなってる。ごめん、ホントヤバい⋯⋯。
ねぇ亘、私って本当に生きてる? 私って本当に人間?」
二人の目が合った。
「人間だよ」と間髪入れずに亘は答えた。「理屈とかじゃない。誰がなんと言おうと、霊禍は生きてここに存在している人間だ」
一切目を逸らさずに、亘はそう答えた。
霊禍は驚いたような表情を浮かべ、そしてすぐに声を出して笑い始めた。戸惑う亘を見て、霊禍はさらに一段と声を大きくする。のけぞった勢いで後ろに倒れて、その後も何秒か笑っていた。
「⋯⋯なんで?」亘は眉をひそめながら尋ねた。
「いや⋯⋯亘って普段はバカみたいに色々考えまくるくせにさぁ、今に限ってキメ顔で即答するから!」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」せっかく気を遣ったのに。
「アハハハハ! ごめんごめん、あーあ。もーこれだから私はさぁ⋯⋯謝罪も感謝もできない上に、こんな⋯⋯ハハハハ」
「それも含めて人間らしいって感じがするよ」適当に流しておく。
霊禍が跳ね起きた。
「まーでも安心したってのもあるのかもな。
そんじゃ、いろいろありがとよ」
彼女はもう帰ろうとしているようだった。軽やかな足取りで、西のA棟へと歩みを進めていた。先程までとは打って変わって、生気に満ちあふれているような印象だった。
「こちらこそ、ありがとう」遅れて亘は返答した。霊禍が立ち止まり振り向く。
「⋯⋯なにが?」
「生きててくれて」
「ハッ、何言ってんだ。亘が生かしといてくれたんだろーが。
じゃ、また明日」
軽々しく笑って霊禍は去った。彼女は道の先の角で曲がり、その姿は亘から見えなくなった。亘は少女の影が消えたその景色を、ただ漠然と、立ち尽くしたまま眺めていた。
ずっと。
夜が明けるまで。




