メリーさん
『メリーさん』
1
園田の胸中に満ちているのは不安だった。
不安というものはヒトの心に根を張り、じわじわと追い詰める。それはいくら数百人の信者を持ち、何十体もの幽霊を使役している園田にとっても同じことだった。ヒトである限り、不安という束縛から脱することはできない。
園田にとっての不安とは、専ら『自分以外の霊能力者』の存在だった。
佐々木刻太を追い詰めた結果得られたのは、霊力の込められた日本人形の情報と、謎のネコミミ魔法使いの存在。前者はともかくとして、後者は彼女の全く予想しないものだった。
明らかに霊能力とは別格の、異質なパワー。その背後にいる悪魔という上位存在については、園田は気づくことすらできていない。
先の出来事でさらに肥大化した園田の不安は、彼女に焦りを与え、同時に慎重さを授けた。
要するに、園田は臆病になり、町全体を見張りはじめたのだ。
これまでも実施していた信者たちの定期報告に加え、刻太を見つけるのにも使った幽霊『スキャニングバード』による巡回。頭部に斑点のように広がっている多数の眼球が監視の目を光らせる。
お世辞にも広いとは言えない田舎町。『彼女たち』が見つかるのは時間の問題だった。
「幽ヶ崎霊禍と墓山亘、そして鎌鼬奏⋯⋯ね。どう思う? 誰が一番脅威になりそう?」
夏の暑さが近づきつつある頃合いだった。がらんとしたホール内で、観客席に寝そべりながら園田が何気なく問いかける。
「それはもちろん、幽ヶ崎霊禍でしょうな」そう答えたのは白髪交じりの中年女性だった。そのセリフは園田が考えただけのものであり、彼女は園田の思考整理のためのスピーカーでしかないのだが。
「ふーん、やっぱりそう思うわよね。見たところ、自分の身体の傷を治せるようだし、それ以外にもいろいろ応用が効くようだからね」隣の席に座る女性に、目線も合わせずそう答える。
「いま、またアイツらが幽霊と戦ってるのよ⋯⋯スキャニングバードが監視してるの。気になる?」
「えぇ。ぜひとも見せてくださいな」
園田が女の脇腹を蹴った。
「バカ言わないで。視覚共有できるのは私だけだから」
そう言っている間に、園田の瞳が灰色になっていった。
「回り込め!」霊禍が叫ぶ。
三人が追っていたのは、巨大なムカデのような幽霊。無数の足が音を立てて動き、自動車のようなスピードで地を這っていた。
戦いの場は、鎌鼬家の近辺。道路沿いの森の中だった。夕焼けが真横から照りつける中で、三人がムカデを追う。
「もうすぐ町に出てしまいますわ! 早く止めないと!」
奏は既に最大出力の斬撃を何度も放っていた。ある程度のダメージは入ったものの、むしろムカデを激昂させる結果となった。外骨格があまりにも硬く、その隙間からでないとまともに切ることは難しかったのだ。
坂を急速に下っていき、ほとんど目と鼻の先に民家が見えていた。このままでは家屋が壊される。
奏は前方の木を能力で切断し、ムカデの進路を狭めた。
これ以上悠長にしている暇はないと判断し、亘はグレイヴと融合した。強靭な脚が地面を蹴り、そのまま真正面からムカデを受け止める。
黒色の巨人と茶褐色のムカデがぶつかり合う。その様相はさながら相撲のようだ。双方の脚部が土にめり込み、木の根がめくれ上がる。小刻みな振動が大地を伝い、霊禍と奏にもその揺れが伝わってきた。
「そのまま止めてろ!」
ムカデの真上へ跳躍する霊禍。その手元には妖刀『綴命』が具現化されていた。
真下に向けて、両手で刀を構える。落下のタイミングに合わせて突き出された刃は、外骨格の隙間に刺さった。
鈍い叫び声を上げ、ムカデは煙のように消滅した。
「危なかったね」融合を解除した亘が霊禍のほうへ歩いてきた。
「⋯⋯どうしてこんなに大きな幽霊が出てきたんですの?」
「さぁな。まぁこの辺はよくムカデが出てくるし、それがベースになった自然発生の混合霊だろう」霊禍の予想は妥当だった。
「え?! このへんムカデ多いんですの!?」
「まぁそうじゃね? さっきも何匹か見たし」
「うげぇ~~ッ。早く帰りましょう!」
不思議なことに、あんな巨大な怪物と対峙した後でも、奏は普通のムカデのほうが怖いようだった。
「あ、そうそう。忘れるところでしたわ」奏は先ほど切断した木を再接合し、元に戻した。そして急ぎ足で山中を駆け下りたのだった。
「はぁ。あのムカデ、私の手下にしたかったのに」園田はため息交じりに呟いた。
「しかし⋯⋯亘が融合を使い切り、このまま三人がばらける⋯⋯なかなかいいチャンスね」
園田は起き上がってホールを出て、施設の地下室に向かった。埃っぽい空気に満ちた、薄暗い空間。その最奥に『それ』はいた。
楠間竜一の脱獄時に、彼が見た『もう一セットの呪物』。その産物は既に園田により調伏され、ここに封印されていた。
太い鎖で何重にも拘束された、少女を象ったメタリックな幽霊。円形を連ねたような、無機質で凹凸のない顔だけが、彼女が人外であることを物静かに語っていた。
彼女は、世の人々から『メリーさん』と呼ばれる少女霊だった。
2
メリーさんの調伏には時間がかかった。彼女を無力化し、最初の一枚の爪を食べさせるまでに十体以上の幽霊を失った。また、使役できるようになってからも彼女は何度も暴れ、園田はその度に殺されかけた。爪を何枚も与え続け、徐々に凶暴さは収まっていき、最終的にはこうして拘束すれば、無害でいられるくらいにはなった。
「⋯⋯正直、アンタの前に立つと震えが止まらないわ」物言わぬメリーさんに対して園田は呟いた。
プラナリアの幽霊を呼び出し、鎖を解かせる。一周外れるごとに、負のオーラが地下室を満たしていく。園田の肌が汗ばんできた。
鎖が完全に解けた頃には、地下室はまるで異界のような雰囲気を帯びていた。メリーさんの体内から、自動車の静音エンジンのような音が響いていた。
「018-85308-939」
園田が呟いたのは、墓山亘の家の固定電話の番号。左手には昨年発行された電話帳があった。墓山と記載された欄にピンクの蛍光ペンで線が引かれている。
「受話器を取った者を殺しなさい。行く手を阻む者も殺しなさい。わかった?」
返事をするように、メリーさんが機械音を響かせた。それはダイヤルアップ接続音にも似ていたが、幼少期をネットに触れず過ごした園田には聞き馴染みのない音だった。
しばらく接続音を鳴らし続けた後、なんの前触れもなく彼女は消えた。テレビを消した時のような、一瞬での消滅。自分が操っているにも関わらず、園田はこの刹那の出来事に眩暈を覚えた。
ムカデ幽霊を倒し終えた亘は、霊禍と共に自宅にやってきていた。奏は戦闘後そのまま帰宅したが、二人には話し合わなければならないことがあった。
眩しい夕日を遮るためにカーテンを閉め、それからリビングのソファに霊禍が腰掛けた。亘はソファの下部に寄りかかる形で床に座った。亘の父は仕事で外出中のため、室内はしんとしていた。テーブルの上には亘が用意したロールケーキとジュースがある。
「ロールケーキは私が全部食うからな」
「そのために買ったんだよ」
霊禍は皿を持ち上げ、一口でパクリとケーキを食べきってしまった。長さは15センチくらいあったが、彼女の口の広さには敵わなかったらしい。
「|ここ来ると思い出すよなぁ《ふぉふぉくるとももいだすおなぁ》⋯⋯⋯⋯あの時のこと」スポンジをもがもがと咀嚼しながら霊禍はそう言った。
あの時、というのは言わずもがな亘の母が死んだときのことを指していた。かれこれ二年以上が経過したが、リビングの様子はほとんど変わらない。あの時の死闘などなかったかのような、メフィストに修復されたままの姿だ。
「⋯⋯どうでもいいよ」と言いつつも、亘の視線は壁面に飾られた家族写真に向けられていた。今は亡き母、墓山花崗はなんとも豪快で適当な女性だった。生前に交わした数少ない会話は、今でも鮮明に思い出すことができた。
「そんでさぁー、本題だけど、近頃の幽霊の発生頻度はけっこー異常だよな」
「⋯⋯」
「私は、この裏に誰かしらの黒幕がいるんじゃないかと思ってる。幽霊が増えることで利益を得られるやつか、もしくは幽霊自体を使役しているやつだな。ま、後者が妥当かな」
「⋯⋯⋯⋯それは、どういう根拠があって言ってるの? 幽霊の増加といっても、いつもよりやや多い程度だし、ただの偶然でも説明がつくけど」
「さぁな。でも師匠は言ってたぜ。作為は偶然を装うってな」
「そんなこと言ってたっけ?」
「知るか! なんとなくそんな感じがするってだけだ。用心しとけよ」
「うん、まぁわかったよ。それ奏にも言った?」
「それとなくな。ってか今日来たのはこの件をしっかり話し合うためだ。今まで殺してきた幽霊たちから、どういう可能性が考えられるかを⋯⋯」
と、ようやく本題に入れそうなところで、甲高い着信音が鳴り響いた。リビングの壁際の棚に乗せられた固定電話が唸る。ばつが悪そうにする霊禍をよそに、亘が応対した。
受話器のスピーカーからは、何も聞こえてこなかった。
声どころか環境音すらも全くない、完全な無音。「もしもし⋯⋯?」と亘が口にしても、なんの反応もない。
イタズラ電話だ。無言電話なんて、一番ありがちなパターンだ。困ったことに亘の母は陽気な性格ゆえか電話帳に番号を掲載していたから⋯⋯たまにこの手の悪ふざけのターゲットになる。
それだというのに、亘は強烈な胸騒ぎを感じずにはいられなかった。たかがイタズラで済まされない、強烈な悪い予感。その異質さに、霊禍も気づいたようだった。
「バカ、早く切れ!」
霊禍は慌てて固定電話に皿を投げつけた。不死鳥のオーラで強化されたそれは、機器をバラバラに破壊した。通話はプツンと切れた。あまりに強引な解決法ではあったが、亘は霊禍を責めるどころか、この行動が妥当だとしか思えなかった。
⋯⋯それほどまでに、おぞましい雰囲気の無言電話だった。
「これは⋯⋯まさか誰かからの攻撃⋯⋯?」と言いながらも、亘の内心にそこまでの焦りはなかった。通話そのものは終了したうえに、今すぐなにかがあるわけではないと思っていた。仮になんらかの霊能力での攻撃を受けていたとして、ここまで短時間で甚大な被害を被ることはないと、ある種の楽観を抱いていた。
何より、仮に何かが起きるとして、対象になるのは受話器を取った亘自身だ。それが亘の楽観の最も大きな理由だった。
だからこそ、霊禍の表情が亘には信じられなかった。
これまでの二年余りで見たことのない顔だった。それは蛇に睨まれた蛙のような、一縷の反抗心も感じさせない、絶望と悲哀の表情。もはや生きる望みすら失っているような様子だった。
「⋯⋯⋯⋯わたる」
喉の奥から絞り出した声で、霊禍は必死に伝えた。
「逃げて、私の部屋に行って。そこにお姉ちゃんがいるから、助けてもらって」
亘は迷ったが、融合を使い切った自分では足手まといにしかならないことは明白だった。
「⋯⋯わかった」
リビングから出ようとした亘を、霊禍が呼び止めた。
「なぁ、どうせ私は死なないからさ⋯⋯。私のことは気にせず生き延びてくれよ」
「⋯⋯⋯⋯約束するよ」
亘は駆け足で玄関から飛び出した。
どこからともなく風を切る音が聞こえてきた。そして次の瞬間には家の壁が破壊されていた。おそらく、あそこから敵が侵入してきたのだろう。
逃げながら亘は考えた。
霊禍のあの表情。それは強大な敵への畏怖の表れでもあるだろうが、それ以上に『亘が殺される可能性が高いこと』への絶望だったのだろう。なにせ本人は不死身であり、どうせ死なないと自分でも言っていたのだから。
──うれしいな。霊禍が僕の死をあんなに恐れてくれるなんて。
家からは暴力の音色が聞こえてきていた。墓山亘はそれを無視して団地へと走った。
3
壁を突き破り、リビングに降り立ったのは、ゴシック調の衣装を身に纏った少女霊だった。ひと目見ただけでは、普通の人間と大差なく思える外見だ。
霊禍はまず相手をじっと観察した。衣装は奏の服装にも似ていた。異質だったのは、その顔面。のっぺらぼうともまた違う、円形が貼り付けられたような不自然な造形だった。それはまるで、電話という媒体が持つ匿名性を象徴しているかのように感じられた。
さらに、ツインテールのように見える頭部の装飾もまた機械のような物体だった。先端には排気口のようなものが見える。体内からは静音エンジンのような駆動音が響いている。
⋯⋯そして何より、顔が亘の方を向いている。
霊禍が先制攻撃を急がないのには理由があった。それは相手の観察を最優先にしろという師匠の教えが、今になって彼女の脳内に浮かび上がってきたからだった。
師匠との約半年間、そしてそれ以降の一年半の戦いの経験。そのすべてを以てしても、目の前のたった一体の少女霊に勝てないという確信が、霊禍にはあった。
師匠はこうも言っていた。逃げるのも勇気だと。
従う義理はねぇよ──霊禍は内心で呟き、右手に綴命を具現化した。
オーラが筋線維の隙間に入り込み、霊禍の全身を強靭に補強する。観察の時間は終わった。様子見が過ぎると亘の元へ跳んでいってしまうかもしれない。
円形の顔めがけて一気に刀を振るう。上方から襲い来る刃をメリーさんは片腕で軽々しく防いだ。衝撃が下方に伝わり、フローリングがひび割れ、潰れた。霊禍は一度後方へ下がった。
今のが全力のつもりだった。それをあんな、ちょっと汗をぬぐうみたいな動作一つで軽々しく防がれるというのは⋯⋯霊禍のメンタルを大幅に傷つけた。
しかし、いくら軽やかな動作であろうと、防御は防御。逆説的に言えば、奴は今の一撃が頭や胴体に当たることを脅威として捉えたのだ。全力で急所を壊せば勝機はある。そんな希望的観測だけが霊禍の心を繋ぎとめていた。
メリーさんは霊禍に向き直った。そして、両腕から鈍い駆動音が響き始めた。
「⋯⋯⋯⋯!」
彼女の腕が液体金属のように流動し、ブレードを形づくった。霊禍にはそこまでしか認識できなかった。そして胴体が真っ二つに切り裂かれた。
やや暗くなりつつある住宅街を亘が駆ける。その右手にはスマートフォンが握られていた。霊禍に「万が一の時のために」と教えられていた彼女の姉の電話番号を求め、電話帳アプリの最下層まで進んだ。
電話越しに襲ってきた幽霊。それに狙われている亘が他人へ電話をかけることは、呪いを伝播させるおそれのある、非常にリスキーな決断だった。いつもは常識外れの作戦を即決する亘が、十何秒かの躊躇を必要としたほどには。
逡巡の果てに、亘は電話をかけた。
このせいで霊禍の姉が死んだら、きっと霊禍と一緒にいられなくなると彼は思っていた。それは考えうる限り最悪のパターンだったが、自分が死ぬよりはマシだと判断した。
呼び出し音が鳴った。少なくとも今のところ、異常はない。スマホに耳を傾けながらも、亘は歩を緩めずに駆けていた。
駆けながら電話をかける、というくだらない洒落が亘の脳裏をよぎっている間に八回目のコールが鳴った。霊禍が言うには絶対に部屋から出ないうえに、電話には絶対出てくれるらしかったが、それにしては心配になる遅さだ。それでも、コールを続けるしか道はない。彼女の身に何かが起きていたのだとしても、今さらどうすることもできないのだから。
二十五回目のコールで、ついに繋がった。
「あの⋯⋯もしもし? 霊禍のお姉さんですか?」
スピーカーからは特段なにも聞こえてこない。一瞬だけ亘は、先ほどの二の舞いになることを警戒したが、以前とは違って環境音がうっすらと聞こえていることから、相手があの幽霊ではないと判断した。
「聞こえてますか? 自分は霊禍さんの友達の墓山亘と申します。緊急の連絡があり──」
「ク゚ェッ!」
「⋯⋯⋯⋯はい?」唐突に響いた不可解な音を亘は訝しんだ。
「あ、あの、ごめんなさ、吐いちゃっ、いや、ちがうんです、えっとその、あ、ちゃんと聞いたほうがいいか、は、はい、聞きます。ごめっなさい⋯⋯⋯⋯」直後に咳き込む音が聞こえた。
亘は団地が見える辺りにまで来ていた。ここからの坂道はかなり急だが、そこさえ越えればあとは団地の敷地内だ。しかし頼みの綱がどうやらパニックのようで、亘は先ほどよりも濃い不安に苛まれた。
「⋯⋯じゃあ説明しますけど、今現在、霊禍さんは強力な幽霊と戦っています。しかし本人が言うには勝ち目がないそうで、強力な霊能力者であるお姉さんにお力添えをいただきたく、現在自分はそちらのお住まいに向かっております」
「な、え、その幽霊は今どこに!? 霊禍は無事なんですか?」
「幽霊はここから約一・六キロ離れた僕の自宅にいますが、霊禍さんの足止めがなければ一瞬でここまで追ってきます。それくらい強力な敵です。逆に言えば敵が追ってこない限り霊禍さんは無事だと推察できますが、断言はできません」
ここで「無事だ」と言い切れる亘ではなかった。なにせ霊禍の唯一の保護者である彼女との初めての対話だ。それはまるで恋人の実家に挨拶するようなもので、今が緊急時だという事実はその意識を取り除くには不十分だった。
「あぁ~~どうしよ⋯⋯! れいか⋯⋯れいか⋯⋯れいか⋯⋯!」姿勢を崩す音がスピーカー越しに聞こえてくる。
亘は団地の敷地の手前まで来た。門までの道のりをショートカットするために、グレイヴを目の前に召喚して、チアリーディングのジャンプの要領でフェンスを飛び越えた。
その隙だらけの滞空時間をメリーさんが狙い、そして亘の心臓部に刃を貫き通した。
4
胸部を貫かれた瞬間、周囲に青白い閃光が走った。
亘の左手⋯⋯スマホを握っていたのとは逆の手に握られていたのは、小口挿絵との騒動の後に三川商店で購入した護符だった。
亘の肉体が二つに増殖する。その片方には青い光がまとわりついており、幻のような曖昧さを孕んでいた。もう片方の、本物の亘には、心臓を貫かれた跡がなかった。ただほんの少し服の背中が破け、バスケットボール大の血痕が滲んでいるだけだ。痛ましい傷ではあるが、心臓を貫通されるよりは遥かにマシな傷。
本物の亘は止まらなかった。幻の亘が薄れて消えていく間にも、既に団地の階段を上り始めていた。
亘の手に握られていたのは、『三枚』の護符だった。通常であれば一枚につき一発の攻撃を防げるはずの呪物だが、自動で三枚とも消費しきってしまい、そのうえでも傷がついてしまうほどの攻撃だったということだろう。
いくら亘といえども痛覚がないわけではない。骨の辺りまで肉が抉れているうえに、そもそもここまでの距離を全力疾走してきたのだから、階段を上るのはあまりにも辛く感じられる。それでも、彼は歩みを止めることはなかった。
二階の通路に出た時に、団地の前庭に佇むメリーさんが見えた。幻の亘が倒れた辺りに視線を落とし、唸り声のような音を立てている。亘の脳裏に浮かんだのは、エラーという概念。まるで機械のようなあの幽霊は、亘を殺すようプログラムされたうえで、護符の効果のせいで亘の生死を誤認しているのではないか、とほとんど無意識で予想した。しかし細かい理由はどうでもよく、亘の感情は、彼女が止まってくれているのならありがたいというささやかな意識だけだった。
「あの、そろそろ着きます⋯⋯」まだ話せるうちに、霊禍の姉へそう告げておく。もはや手に力を込めるのも限界だった。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい⋯⋯!」
「⋯⋯⋯⋯?」
「ほんとはわたしがいますぐわたるくんのことたすけにいかなきゃだめなのに、わたしは、また⋯⋯⋯⋯!!」
亘は三階に到達していた。霊禍の姉はきっと頼りにならないな、と内心ではほとんど諦めの境地に達していた。それでも、ここで足を止めるよりは助かる確率が一パーセントでも高い方に賭けたかった。
生き延びると、霊禍と約束したのだから。
階段の最後の五段に差し掛かっていた。通路の柵越しに前庭が見えた。メリーさんはまだその場から動いてはいなかったが、全身に泡のような球形の腫瘍が発生した。ボコボコと音を立てて蠢いたそれは、次第に沈静化していき、そして最後にはあのエンジン音が再び鳴り始めた。この期に及んで改めて恐怖する必要はなかった。亘は四階の通路に足を踏み入れた。
びゅん、と跳躍する音が聞こえた。目の前で扉が開いた。刃が首元に迫る。扉の手前に倒れる。首元に刃が当たり、ひんやりとした感触を覚えた。亘は絶命の覚悟を終えた。
次に亘の視界を満たしたのは桜吹雪だった。
あまりにも一瞬の出来事だったがために、亘はこの光景を冥界のそれだと錯覚した。四月に見た桜のトンネルを彷彿とさせる桃色の散華は、彼にとって生と死の境界を象徴するものだった。非現実的な浮遊感に苛まれながらも、上背部の痛みが命綱となって、意識が現実に繋ぎ止められていた。
通路に横たわる亘の腕を、何者かが持ち上げた。部屋の中へと引きずられる彼の肉体には、一切の力が入っていなかった。
5
亘は畳の匂いと共に目を覚ました。いつの間にかうつ伏せの体勢で、柔らかい布団と毛布に身を預けていた。
背中はまだズキズキと痛む。しかし先ほどよりは格段にマシになっている感覚があった。亘は起き上がり、辺りを見渡した。本や座布団、その他意図のわからない道具の数々が散らばった、畳張りの和室。隅にはモニターとゲーム機が置かれ、ケーブルが床の上で絡まっていた。やや黄色がかった電球が、生活感あふれる部屋を照らしていた。
木の梁には家族写真らしきものが画鋲で留められていた。その中央には霊禍の姿があった。十中八九そうだろうと亘は予測していたが、ここが霊禍の家であることに確証が持てた。
しかしひとつ不可解なことがあった。その家族写真の霊禍以外⋯⋯両親と姉、と思われる三人の顔が、黒い付箋で隠されていたのだ。本来微笑ましいはずの写真が、亘にはどうにも不気味に思えた。
ふと目を落とすと、ちゃぶ台の上に置かれた書籍が目に入った。表紙の人の顔が黒く塗りつぶされていた。念願かなって霊禍の家に来られたわけだが、こんな様子ではいくら亘の感性といえども気味悪く感じられてしまう。
「あの⋯⋯誰かいますか?」
霊禍の姉の姿が見えず、亘は困惑しながら尋ねたが、部屋はしんと静まり返るばかりだった。
そもそも、どれくらい時間が経ったのかすらわからなかった。誰もいないのならもうここに要はないと思い、亘は玄関へ歩き出した。その時、ガタンと部屋が揺れた。
揺れの発生源は、亘の右方向。押入れの中のようだった。訝しみつつ襖を開こうとしたが、中から力強く抵抗された。
「あっあの、開けないで! お願いします!」
「その声⋯⋯お姉さんですか」
「わたし、あの、霊禍以外のヒトの顔を見ると、吐いちゃうから、だから、その⋯⋯」
亘は家族写真の付箋の理由に納得しつつも、どんな悲惨な境遇でそうなったのか疑問に思った。しかしそんなことを気にしている場合ではなかった。
「⋯⋯おそらく、僕を助けてくれたんですよね。ありがとうございます。
あれからどれくらいの時間が経ちましたか? 霊禍の所在などもわかれば教えて頂きたいのですが」
「ちょ、ちょっとまってくださ、質問が多いぃ⋯⋯」
ずいぶんと弱気な声色だった。きっと霊禍以外の人と会話すること自体が久しぶりかつ、負荷が大きいのだろう。
「えっと、まず、今は七月三日の午後十一時で⋯⋯亘くんは四時間くらい寝てたことになるね⋯⋯」
その時間は亘の想像よりは短かった。
「霊禍さんは無事なんですか?」
「わからない⋯⋯だけど、たぶん生きてるはず。
変なこと言っちゃうけど、なんとなく感じるの。霊禍が生きている質量というか、鼓動みたいなものを⋯⋯」
安堵しながらも、矢継ぎ早に質問をぶつける。
「それは、お姉さんの霊能力ですか?」
「いや、ちょっと違くて、ただの勘みたいな感じなの⋯⋯。普段なら大体の方向もわかるんだけど、今はかなり存在感が薄くて、ごめんなさい、そこまではわかんない、です」
なぜ敬語とタメ口を往復するのか亘には分からなかった。
「⋯⋯⋯⋯なるほど。よければお姉さんの霊能力を教えていただけませんか? あの敵を倒したのもお姉さんですよね」
「⋯⋯『物質変換』。この力であの幽霊を桜の花びらに変えたんだよ。亘くんの背中も、簡単にだけど応急処置したの。
誰にも言わないでね。霊禍のお友達だから、特別に教えただけだから」
亘は言葉を失った。それが本当だとしたら、亘や霊禍たちが今までに戦ったどんな幽霊も、彼女の手にかかれば一瞬で殺せたのだ。
「言いたいことはわかるよ。こんなに強いならお前が戦えよって話だよね⋯⋯でもごめん、もう私、さっき亘くんを助けたので、もう限界で⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯」
「私はもう戦ったりできない⋯⋯これ以上無理したら、また暴発しちゃうかもしれなくて⋯⋯
ごめんなさい、本当にごめんなさい⋯⋯!
妹が危険な目に遭っているのに、自分の都合で見知らぬ子どもに全部任せきりにするなんて⋯⋯私って本当にクズだ⋯⋯!」
襖がガタガタと震えていた。
「そういうことなら、僕はもう行きますよ」
押入れから返事はなかった。
亘はそのまま立ち去るつもりだったが、なんとなく居心地の悪さを感じ、付け加えた。
「霊禍さんは僕が助けてきますから⋯⋯お姉さんはそれまでに機嫌直しておいてくださいよ。せっかく帰ってきたのに、迎える側がそれじゃあ報われませんから」
「でも⋯⋯私に姉の資格なんてない⋯⋯!」
ため息をつく亘。彼はこういう相手と接することをあまり得意としていなかった。
「⋯⋯⋯⋯資格とかじゃあないでしょう。そこの家族写真、顔を隠すために付箋を貼ってますけど、下から見たら顔が見えるだろうし、何かの拍子に剝がれることだってあるでしょう。利便性を考えるなら塗り潰したり切り取ったりすればいいはずです。現に本の表紙は塗りつぶされている。家族写真に限ってあなたがそうしていないのは、自分がいつかまた家族の顔を見られる時が来ると、無意識にでも信じているからではないですか。その前向きさだけで、あなたは充分立派なんじゃないですか。
だからあなたは、霊禍を迎え入れる準備でもしていればいいんですよ」
亘にとっては、それらしい理屈をでっちあげただけだった。しかし襖の中の音は収まりつつあった。
「じゃ⋯⋯いってきます」
とうとう最後まで、霊禍の姉からの返事はなかった。亘はドアノブに手をかけた。




