口裂け 14
僕は必死に走った。
灰色の壁で囲まれた、こぢんまりとしたシンプルな交番。その無機質さから騎士のような頼もしさを感じ取ることができた。雨は徐々に強くなっていた。
やっとの思いで、ほとんど倒れ込むような勢いで扉の取っ手にしがみつき、中に入った。
「あ、あの⋯⋯助け⋯⋯」
ゼェゼェと荒い呼吸を落ち着けながら、僕は警察官に事情を伝えようとした。自覚していたよりも疲労がたまっていたようで、僕はその場に膝をついてしまった。
ピチャ、と何かが跳ねる音がした。それと同時に膝に違和感を感じ、床を見下ろした。
赤が視界を埋めた。
まさか、と思う暇もなかった。鉄の匂いがその液体の正体を告げた。血液だ。しかし誰の? 勇気を振り絞って室内を見渡す。死んでいたのは二人の警官だった。二人とも首筋から血を流して、壁にもたれかかる形でぐったりと脱力していた。
頓狂な声が漏れた。蛍光灯がバチバチと点滅し、激しい明滅に僕は眩暈を覚えた。目の前の非現実的な光景が消えては現れる。足にまとわりつく血液の感触も含め、僕という人間が受容できる不快の限界量を既に大きく超えていた。
立ち上がり、出入口の扉を乱暴に掴んだ。前後左右に何度も力を入れたが、開く気配はなかった。
この頃には、僕はパニックなんて生易しい精神状態ではなくなっていた。自分が生きているかどうかも不確定な感覚。目の前の光景を処理するのに手一杯で、まともな行動なんてできっこない。ほとんど本能だけの世界だ。
そんな僕の背後に、ある一つのおぞましい気配が生まれた。
振り向くとそこには彼女が立っていた。僕の目をまっすぐ睨んでいた。
「なんで⋯⋯」僕は呟く。「なんでこの人たちを⋯⋯」
「あなたが悪いのよ」と樋口。
「それは⋯⋯どうして?」後ずさる靴の裏に血の重みを感じながら僕は問う。
「あなたも既に気づいているんじゃないの? 気づいているのに、分からないふりをしているだけでしょう?」
言っていることがよくわからなかった。
「僕にも分かるように説明してくれないか。僕はそんなに、賢くないんだ」
「そう、そうね。賢くない、ね。でも決して愚かではなくなったね」
「⋯⋯は?」
「あなたは自分の意思でここまで逃げてきた。電車の時間に合わせて家を出て、しっかりこの駅で降りて、曲がり角の先にいた私に気づいて交番に駆けこんだ。あなたにしては随分と高度な行いだと思わない?」
彼女は僕が賢くなったことに憤っているのか?
「いや、それくらいなら前からできたよ⋯⋯」
「ほら、そうやって、『彼女は僕が賢くなったことに憤っているのか?』なんて推測までできているじゃない」
──は? なぜ僕の考えていることが分かるんだ?
「なぜ僕の考えていることが分かるのかって? 教えてあげましょうか? それとも、脳ミソひねくり回して自分で考える?」
「⋯⋯⋯⋯教えてくれ」僕にはプライドの欠片もなかった。
はぁ、とため息をつく樋口。「わかってるくせに」と呟いてから、彼女は説明を始めた。
「私は、あなたの弱さそのものよ。あの日⋯⋯私たちが出会った日から、私はただあなたを私から解放しようとしていただけ。
そのつもりだったのに⋯⋯私ってばちょっと嫉妬しちゃって、あなたに執着しちゃった。本当なら、あなたが私から逃げ出したのは喜ぶべきことだったのに⋯⋯こうして追いかけてきてしまった。ごめんなさいね。でもあなたを想っているからこその行動なのよ」
「⋯⋯⋯⋯いや、待ってほしい。ちっともわからない。
君が僕の弱さだと? 何を言っているんだ。きみは僕とは別人だろ。」
僕は訳の分からないまま、彼女の腕を掴んだ。
腕は確かにそこに存在していた。
「ほら⋯⋯こうして触れるじゃないか。やっぱりきみは僕とは別の人間で、僕の影なんかじゃ⋯⋯」
「もうそんなに深いところまで私たちは融合していたのね」
表情一つ変えずに樋口はそう口にした。
「ありがとう、私を受け入れてくれて」
なんの予兆もないままに、僕の視界がテレビの砂嵐のようにグチャグチャになった。
次の瞬間、僕は血みどろの床の上に呆然と立ち尽くしていた。周囲に樋口の姿はなかった。
左手に違和感を覚え、手元を見下ろす。僕が握りしめていたのは、血塗られた一丁のハサミ。まるでそれは最初から僕の手の中にあったかのように、よく手に馴染んでいた。
僕はそのまま、ハサミを握り続けた。この感覚をもう二度と忘れないように、五本の指でしっかりと握りしめ続けたのだった。
しばらくして、駆けつけてきた警察官に僕は拘束された。乱暴に交番の外に引っ張り出され、パトカーに乗せられた。雨はいつの間にか土砂降りになり、力強く車の屋根を叩きつけていた。その雨音がまるで万雷の拍手のように僕を包んだ。
こうして、僕の身の丈に合わない恋の悲劇は幕を閉じた。
そしてここから先の物語は、読むに値しない僕の退屈な人生からひねり出された、蛇足の続編に過ぎない。
ある日、刑務所に見知らぬ面会人が来た。僕に面会を申し出る人間なんて今までほとんどいなかったから、僕は不思議に思いながらも面会室へ向かった。
そこにいたのは、顔に大きな火傷痕のある女性だった。厚いガラス越しに彼女の様子を観察してみる。年齢は二十代後半くらいに見えた。樋口ほどではないが、随分と顔の整った人だなと思った。
「ねぇ、あなたはどうして警察官たちを殺したの?」彼女の声には造り物の純朴さが込められていた。
「わからない」と僕。
「あっそう。まぁいいわ。
あなたのことをいろいろ調べてみたんだけれどね、どうやら犯行直後の取り調べて、口裂け女がどうこうと言っていたみたいね」
そうだったかもしれない。なにせ三十年も前のことだ。何を言っても信じてもらえなかった記憶だけがうっすらと残っていた。
「ねぇ、その口裂け女に、もう一度会いたいとは思わない?」
僕は黙ったままだった。女は鞄から何かを取り出した。それは金属製の箱のようなものだった。五つばかりドンと台に乗せられた。
「これは⋯⋯強く望んだ相手を呼び出せる、特別な道具なのよ。一キロメートルずつ離れたところに、一日一つ、五芒星を描くような形で埋めていけば、口裂け女に会える。わかった?」
「⋯⋯欲しいだなんて一言も言っていない」
彼女はけだるげに足を組んだ。
「あのねぇ⋯⋯アンタに拒否権なんかないんだけど」
次の瞬間、背後から轟音が響いた。慌てて振り向くと、後方の壁が廊下ごとぶち抜かれていた。広々とした青空が見えた。その様子はまるで重機が通過したあとのようだった。
非常ベルが鳴り響く。
「ほら、早く行きなさいよ。出るとこまではサポートしたげるから」パニックになりそうな僕を繋ぎとめたのはその一言だった。
僕たちを阻んでいたガラスも、壁と同時に破壊されていたらしい。僕は五つの箱を抱えて、無我夢中で走った。
不思議なことに、看守たちは僕を追ってこなかった。あの女もいつの間にか消えていた。
そして僕は、懐かしの幽魔町で樋口と再会しようと計画したが、見ず知らずの小学生に妨害され、失敗してしまった。それから僕は警察官に見つかり、刑務所に戻ることになった。拍手はなかった。
ただ一つ気がかりだったのは、彼女のカバンの中に、もう一セットの箱が見えていたことだ。僕のように、誰かを求める者がもう一人いたのだろうか。まぁそんなことはどうでもいい。どちらにせよ僕は一生この塀のなかで暮らすことに変わりはないのだから。




