口裂け 13
僕たちは帰った。
僕は愚かだった。何度も何度も繰り返しているが、それでも言い足りないくらいには愚かだった。こんなバケモノと一緒に食べて、一緒に働いて、一緒に寝ていたのだ。そのおかげで僕の頭が冴えたのは事実だ。しかしそのせいで僕は彼女がバケモノだとハッキリ認識してしまったのだ。
思えば彼女は、初対面の僕の左手の薬指を食べてきたのだ。
その異常性を、僕は無視していた。頭の霧なんて関係ない。そこで行われていたのは明確な無視だ。彼女と一緒にいるための、問題の先送りに過ぎなかったんだ。
部屋を見渡す。見違えるほど綺麗になった部屋。丁寧にたたまれた衣服。すべて僕一人では得られなかったものだ。
清潔な食器を見ると、先ほどの樋口の顔がフラッシュバックした。ヒトの範疇から大きく逸脱した、奇怪でおぞましい牙の数々。僕はあれに惹かれていたのか?
今、彼女は出かけている。
近所のスーパーに買い物に行ったばかり。
僕はある種の強迫観念に駆られて、携帯電話と貯めていた現金をポケットに入れ、そのまま部屋を飛び出した。
旅を計画していた。
電車で東京へ行く⋯⋯それだけだ。細かい予定なんて僕には立てられなかった。ただ噂に聞くビル群や東京タワーを彼女と見てみたかった。それから劇場へ行き、演劇の一つでも観られればこれ以上ない幸せだろうと思っていた。
二人で乗るはずだった電車の中に、いま僕は一人で座っていた。車窓に細かい雨粒が当たり始めた。もう後戻りはできない。きっと僕の逃亡は彼女の逆鱗に触れただろうし、仮に許されたとしても以前までの関係に戻れないことは、こんな僕にも理解できていた。
暗い山中の車窓風景を眺めているうちに、沸々と後悔の念が浮かんできた。だけどダメだ。あれは人喰いのバケモノなんだ。戻れば僕の命の保証はない。
人のいない車内で何もせず待ち続け、たどり着いたのは近隣地域の大きな駅。ここで乗り換えて、JRの路線で東京まで行けるのだ。
僕は一度改札を出て、駅構内を歩いていた。既に遅い時間だったが、ある程度人はいたし、終電もまだ残っていた。白く無機質な通路を小走りで進み、可及的速やかにホームに着くようにした。口裂け女がここまで来ているはずはないのに、そうしないと耐えられなかった。
通路の突き当りを左に曲がった。その先に彼女が立っていた。
見慣れたトレンチコート。長い黒髪。僕はほとんど反射的に身をひるがえした。
見られてはいなかったはずだ。だけど⋯⋯確かに彼女だった。
僕はパニックになった。この通路を通らなければ改札も通過できず、当然電車にも乗れない。彼女を見たのはほんの一瞬だったが、彼女はただ立ち尽くしているだけで、どこかへ移動する素振りも見せていなかった。きっと僕を待ち伏せしているんだ。
あの光景そのものが僕の不安が生み出した幻想である可能性も大いにあった。だけどそれをもう一度確かめるためにこの曲がり角から顔を出す勇気はなかった。
⋯⋯なんて、僕らしくない一瞬の長考を経た上で、僕は逃げた。恥も外聞もなく、踵を返して逃走した。来た時よりもさらに早足だった。
とにかく駅を出た。あの恐ろしい存在から逃げたかった。このとき僕は大粒の涙を流していた。巨大な顔を真っ赤にしながら必死で早歩きしている男の登場を、周りの人たちはさぞ滑稽に感じたことだろう。いくらでも嗤うといい。僕にとっては命がけの逃走だとしても、あなた方からしたら単なる見世物に過ぎないのだろう。皆様の、高尚で幸多き人生のうちの、ほんのささやかな笑いの一助になれたのであれば僕としても嬉しい限りだ。
そして僕は駅を出た。すぐ近くに、交番を見つけた。




