楽園 5
「動かないで。少しでも動いたら⋯⋯その男を殺すから」
男は無表情のまま、自らの首に刃を押し当てている。もし彼が今ここで首を搔っ切って死んだとしても、客観的に見てそれは単なる自害だ。だというのに、そうなることを園田は『殺す』と表現した。
⋯⋯つまり、あの男は園田に──。
「本当に⋯⋯清々しい奴だニャ」
「喋るな。次はない」重い声色で園田が警告する。
異様な光景だ。男の表情は弛んでおり、まるで3DCGのように見える。その立ち姿も不自然そのもの。操り人形のように、全身脱力しているのに、なぜか直立できている、そんな不気味な姿。
リリィは園田に向けて弓を構えていた。少し指を動かすだけで、矢を放ち園田に攻撃することができる。不可視の攻撃に弾かれる可能性はあるが、追撃につなげることは可能だ。
「リリィ、撃つんだ」迷うリリィに、プートが語りかける。
「あの女は⋯⋯奇妙なことだが、リリィが善人であることに賭けている。だからその裏をかくんだ。」
「ダメ。あの人が死んでしまう。私には攻撃と救助を両立できない」テレパシーでリリィが応答した。
「相手はどうやら、相当な悪人のようだぞ。人の命を奪うことに躊躇がない。ここで奴を逃せば、結果的に多くの人間が奴の手によって殺される」
そんなことはリリィも理解していた。矢を持つ指に、小波が走る。
「⋯⋯⋯⋯正義を捨てろ。悪になれ、リリィ」
長い、長い時間が過ぎたような感覚だった。
その果てに至るまで、リリィが矢を放つことはなかった。
先ほど園田が召喚していた胸像の幽霊が、音もなくリリィの耳元に近づく。
そして、呪詛の籠った囁きが放たれた。
「──────!」
「リリィ!」
精神を直接蝕む音が、彼女の鼓膜を揺らした。
死に物狂いの絶叫が林にこだまする。
リリィはほとんど無意識で矢を直接幽霊に刺し、息の根を止めた。金色の欠片がパラパラと彼女に降りかかる。しかし、呪詛は彼女の脳に入り込んでいた。
リリィは白目を剥き、その場に倒れた。
「うるっさ⋯⋯死ぬ時くらい黙れないのかしら、このコスプレ女。ツータンも殺されたし、最悪」
ツータンとは精神汚染の幽霊のことだった。
園田はリリィに近づき、翼を大きく振りかぶって、その首を断ち切った。断面から桃色の魔力が蒸気のように勢いよく吹き出て、そのままリリィの肉体は消失した。
「意味わかんない⋯⋯」呟く園田。
後方に立っていた男は、いつの間にかナイフを捨てていた。しかしその目は未だ虚ろなまま。
「戻って」
男はほとんど倒れるような勢いで走り出した。行き先は、彼自身の家か、もしくは楽園だろう。
園田はため息をつき、コウモリの幽霊を消した。そして木の根元に座り込む。木が抉れないということは、不可視の攻撃を繰り出していた幽霊も消えたのだろう。
「なんにもしてないのにいきなり襲われるだなんて。
私も、ビッグになってきたってことかな⋯⋯」
その声は誰にも届かなかった。
翌朝の教室。
「えーっと、梨里島先生はちょっと病気になってしまったようで、入院することになったそうですので、今日から臨時で私がみなさんのクラスの担任になりました」
教壇に立ちそう告げたのは、普段は社会科の教科担任をしている鹿島という四十代の男性教諭だった。
「はいみんな落ち着いて。そもそも入院期間の目途も立ってないんです。今すぐ梨里島先生に何かあるって感じではないから、そこは安心してほしいんだけど、とにかくこちらも分からないことが多いので、あんまり質問されても答えられませんから」
霊禍は頬杖をつきながらそんな説明の様子を眺めていた。
「フーン⋯⋯噓ついてる感じじゃねぇけど。どう見るよ、亘」
「どうもなにも、先生は前から疲れ切ってたし。働きすぎだったんじゃないの」
「まぁ、そうだな。それだけならいいけどな」
「よくはないんじゃないの」
二人はそれきり黙った。
しばらくして、二人のところに佐々木刻太がやってきた。そして昨日のことを語り始めたのだった。




