口裂け 10
これから語られることは、今からおよそ三十年前の出来事。僕の心の中にまだほんの一粒の夢が残っていた時代の、ささやかな悲劇の回顧である。
僕は愚かだ。単に愚かなだけならまだよかったかもしれないが、どうも僕の愚かさは世間一般的に知的障害と呼称されるらしい。
また同時に、僕は醜くもあった。鼻筋は斜めになっており、歯並びも歪んでいる。眉毛は太く、瞳は小さい。そして何より、顔全体が酷くむくんでいるのだ。それはもう、触れただけで爆発してしまいそうなほどに。
だけど幸いなことに、僕には他の人たちと比べて優れている点が一つだけあった。それは自分の愚かさと醜さを、これ以上ないまでに自覚しているという点だ。だから僕は今日も、身の丈に合った団地の一室で、身の丈に合った服を着て、身の丈に合った作業場へと、身の丈に合ったバスで向かう。
山の中にあるその施設は、僕みたいな人間を世の中の一般人サマから隔離するための場所だ。元々はなにかのイベント施設だったらしく、空き部屋のドアの隙間を覗くと、白い壁に囲まれた、がらんとしたホールが見えた。
正面のステージに向かって、段差のついた観客席が半円状に配置されている。もしも僕が僕でなかったら、あのステージで一つ、劇の主役でも演じてみたかった。だけどそんな大役は、僕の身の丈に合っていない。あくまでも妄想するだけだ。あの中心に立って、万雷の拍手を迎える僕の姿を。僕はいつもこうしてささやかな幸せを得た。
作業に用いるのはそのホールではなく、隣の広い部屋だ。机が等間隔に並べられていて、どこに座ってもよいというきまりになっている。僕はいつも窓際の椅子に座って黙々とホチキスの針を箱に詰める作業をしていた。
僕は今年で二十六歳になる。普通の人たちは会社で信頼され始めたりするくらいの年齢のようだ。でも僕には会社勤めどころか、そこらの飲食店なんかで働くことも難しい。少しでも複雑なことを考えると、頭に霧がかかったかのような感覚になり、そのままボンヤリとしたまま立ちつくしてしまう。なんて考えているうちに、その霧がやってくる。
ここで行うような単純作業は、そんな思考の霧のなかでもどうにか続けられた。僕はここに通い始めてもう九年ほどになる。飽きを感じないといえば嘘になるが、続けられないほどじゃない。だからこれでいいんだ。僕の身の丈に合った、ささやかな財産と退屈を得続けるだけの人生。
作業が終わり、外に出ると夕焼けが見えた。
バスに乗る。車内中央部の座席に座り、なんとなく周りを見る。乗客は僕と同じような人たちだ。老若男女問わずいろんな人がいるが、例外なく、弱く、人の世に適さない者たち。
僕らを乗せた鉄塊が山道を下り、住宅街をすすんでいくうちに、乗客は疎らになっていく。
人の顔を覚えられるほど僕は賢くないが、それでも毎日乗るバスで、長い間一緒に座る人たちのことはなんとなく記憶していた。僕と同じ団地で降りる老人、僕より若そうな男、僕をずっと睨んでくる中年、など。
だけど今日は、なぜか誰も乗っていなかった。見覚えのない、ただ一人の女性だけが、僕の真後ろに座っていた。外の景色は、眩しくてよく見えない。僕は降りるバス停を過ぎてしまったのではないかと不安になり、後ろの女性に質問してみることにした。
「あの、幽魔団地は、もう過ぎちゃいましたか」
その女性は僕を無視した。仕方がないか。僕の顔は醜く、単なる質問一つで相手を怖がらせてしまうのだ。でも僕は質問に答えてほしいから、しばらく彼女を見ていた。彼女はマスクをつけていた。他に特徴的だったのは、ぼさぼさの黒い長髪と、丈の長いトレンチコート。
まるで口裂け女のようだった。
彼女は震えていた。端的に言えば挙動不審だった。目が泳いでいて、僕のほうをまっすぐ見てくれることもなかった。
「私、きれいですか」
三分ほど待つと彼女はそんなことをぼそりと口にした。僕はいいえと答えた。




