日本人形前線8+9
襲い来る毛を躱し、刻太は走った。あのまま廊下を直進することもできたが、リビングを経由して複雑に動いたほうが逃げやすいという、彼の直感的な判断の結果だった。
もはや刻太に自我のようなものは存在していなかった。ただひたすらに走る。その姿はさながら伝令兵だった。
⋯⋯しかし、彼の意識はすぐに取り戻されることになった。
開いていた。
日本人形のケースが開いていた。
そして、中身は空洞だった。
ただ透明な直方体だけがどんとそびえ立っていた。
「やっぱり⋯⋯」
カミラの正体は、あの不気味な日本人形。そうとしか考えられなかった。
──あぁ、クソ。俺がこんな思いをしているのは、おばあちゃんのせいだったのか。
そんな思いが刻太の脳裏にまったく浮かばなかったといえば嘘になる。しかし彼は、そんなショックで足を止めるような人間ではなくなっていた。今までとほとんど変わらないペースで走り続けていた。
それでもなお、ほんのコンマ数秒、筋肉が緊張していた。その隙をカミラは見逃さなかった。左の足首に毛が絡みつき、音もなく持ち上げられる。
「うわあぁぁぁ!!」
地面が離れていく。そして、振り下ろされる。まるでムチでも振るうかのような、一瞬の動作だった。
しかし、意外にも刻太の肉体は、柔らかい地面にボンッと着地した。痛みがないわけではないが、そもそも自分がどこにいるのかすら定かではなかった。
周囲の地面を見る。黒い⋯⋯毛の集まり。まさか、カミラの頭上か? いや、それにしては髪質が良すぎる。
「オイ、早くワシを動かせ」
下から声がした。
──まさか、俺は誰かの頭上にいるのか?
身を乗り出し、下を見る。紅色の着物と藍染めの帯が見えた。
「⋯⋯日本人形!?」
「そんな呼び方ねぇだろ。ったく、可愛くねぇガキだ」
あのバケモノの正体はお前じゃなかったのか、と考える暇もなく、日本人形の艶のある髪がひとりでに動き出し、刻太の腕に何重にも絡みつく。
「それが操縦桿だ。わかったら、ワシを動かすんだな」
訳がわからない。狼狽する刻太に、眼前から毛の槍が迫っていた。ほとんど無意識で、刻太は腕を勢いよく左に動かした。
すると、日本人形の身体もまた、左に動いた。
「⋯⋯なるほど」某『おいしいレストラン』的なことか
そのたった一つの動きだけで、刻太は全てを理解した。
「きみのことはなんて呼べばいい?」
「お前のババアはワシのことを『ニーちゃん』なんて呼んできやがったよ」
「よし、じゃあアイツをボコボコにしようか、ニーちゃん」
「任せたぜ、クソガキ」日本人形はため息交じりに答えた。
跳躍。そして天井を蹴り、バウンドするかのように棚の上を通過した。その一瞬で、筆入れからハサミを入手。刃を繋ぐネジを力づくで破壊し、二本のナイフのように逆手で構えた。
飛来する毛を難なく躱し、ついでに切断する。その動きはまるで舞踊のように鮮やかで、同時に圧倒的だった。
刻太の気分は、さながら巨大ロボットのパイロットだ。
みるみるうちに本体に接近し、毛を深く抉る。反撃を受けるも、逆にその毛をぐいと引っ張り、本体を転倒させた。
ニーちゃんがカミラの上に覆いかぶさり、刃をなんども頭部に突き刺す。すると徐々に、赤い宝玉のようなものが露わになってきた。
「アレを壊すんだ!」
刻太の腕が、一気に振り下ろされる。刃がコアに突き刺さり、ヒビが入る。
やった。そう思ったのも束の間、ニーちゃんの身体中に毛が巻きついた。カミラの火事場の馬鹿力だろうか。今までとは比べ物にならない毛量で、そのまま人形が持ち上げられる。
「まずい⋯⋯!」
ニーちゃんは既に身動き一つできなくなっていた。
そしてそのまま地面に叩きつけられ、石膏製の顔が勢いよく割れた。そして、グッタリとしたまま動かなくなってしまった。
カミラに意識や知性が存在するかは定かではない。しかしこの瞬間、怪物の身体から勝ち鬨のような甲高い音が響いていた。
だが刻太はまだ死んではいなかった。
ギリギリのタイミングで頭頂部から飛び降りた刻太は、そのまま落下を続けていた。
ただ落下していたのではない。ハサミの持ち手部分を目掛けて、決死の跳躍を実行していたのだ。
右肘を真下へ向け、そのまま着地する。電撃のような痛みが骨に響く。だがそれは、向こうも同じだったようだ。
刃が押し込まれ、コアが完全に割れた。刻太の視界を埋め尽くしていた黒い黒い毛髪たちは、まるで最初からなかったかのように消失した。
「おい⋯⋯何があったんだよ」
うずくまる刻太を見て、霊禍はそう呟いた。
既に刻太の大きさは元に戻っていた。周りには破損した日本人形やミニチュアが散らばっている。
「日本人形⋯⋯やっぱりこれが⋯⋯」と亘が呟く隣で、奏はわたわたと慌てるばかりだった。
「⋯⋯とにかく、刻太は気絶してやがる。ひとまず救急車呼ぶか。それと両親の安否も確認して──」
唐突に、乾いた笑い声が響いた。
その出処は、床に横たわる人形だった。
「ガキどもが⋯⋯遅れてきた割には随分と手際いいじゃねえか⋯⋯。」
三人は硬直した。
「そいつぁ強いやつだ。立派に戦ったもんだよ。ワシはもう動けねぇが、あとは頼んだぜ」
それだけ言い残して、人形は沈黙した。
9
三日後にもなると、佐々木家は元通りになった。刻太の怪我も大したものではなく、両親も昏睡状態だったものの、カミラが消滅してからは健康を取り戻した。
久しぶりに学校に来た日の放課後、玄関の外で「お前は他人に恨まれるようなことでもしたのか?」と聞いてきたのは霊禍だった。
「恨まれる⋯⋯ようなことはなにもしてないと思うけど」
「そうか」
霊禍はしばらく考え込んだ。
「⋯⋯どんな幽霊だったかはだいたい聞いたけど、少し違和感があるんだ。何の理由もなく来た個体にしては、あまりにも強すぎる」
刻太には幽霊の強さの相場などわからなかった。しかしあれだけの異常な現象に巻き込まれたのだから、相応に強力な存在なのだろうとは察しが付いていた。
「誰かの呪いでもないんなら、いったいソイツは何だったんだろうな。
人形が動くってのも聞いたことがねぇ。人格を仮託された偶像⋯⋯。案外、元はお前のばあちゃんのパワーだったのかもな。」
「そうなのかもね⋯⋯。
それじゃあ僕はやることがあるから、これで」
刻太は早足で帰宅した。退院したばかりだからまだ少し骨が痛むが、それでも速度は緩まない。
玄関ドアを開け、廊下を歩く。途中で足に違和感を覚え、確認してみると爪を踏んでいた。なぜ廊下に爪が落ちていたのかわからないが、無視して進む。2階に上がり、あの地獄の一本道を突き抜ければ、そこはいつもの自分の部屋だった。
机の上に、バラバラになったミニチュアたちが並んでいる。刻太は引き出しから接着剤を取り出し、適量を綿棒に乗せた。
「まずは、オマエからだな⋯⋯」
紫色の兵士を手に取る。胴体に空いた太い穴に接着剤を塗り、回収しておいた破片を埋め込む。そして棚に置き、乾燥するのを待つ。後で塗装もし直さなければならない。
なんて面倒な作業だろうか。しかしその晩は、刻太の人生で二回目の徹夜になった。修理されたのは、あの日本人形も例外ではなかった。




