日本人形前線 1
梅雨も明けた六月中旬。
小学校からすぐの住宅街の一角。蒸し暑い空気に苦しみながら、佐々木刻太は自室のベッドで眠っていた。
刻太の部屋は、一般的な一軒家の二階に位置する。佐々木家は普通を普通で塗り固めたような普通の家庭で⋯⋯唯一特徴があるとすれば、刻太の祖母の家をリノベーションした建物であるということくらいだった。
祖母は三年前に死亡し、その際にこの家がリノベされ、刻太と両親が近場のアパートから引っ越してきたのだった。
以前の家には刻太も稀に訪れていたが、まぁかなりボロく、ハッキリ言って居心地のよいものではなかった。あの空気感そのものは嫌いではなかったが⋯⋯住むとなればこちらのほうが圧倒的によいだろう。
どうして自分は、そんなことを今になって回顧しているのだろうか。佐々木刻太は考える。この湿度による寝苦しさのせいか?
⋯⋯それにしても、本当に寝つけない。十時にはベッドに入って、もう既に十一時になっている。エアコンつけても、怒られないかな。
リモコンを取りに行こうと、上体を起こした。しかしそこで、刻太はこの世のものとは思えないものを目にした。
毛だ。毛の塊が、部屋の中央に佇んでいる。まるで髪の毛のような、黒くて長い線の集合体。
──大きさは、刻太の身長を遥かに凌ぐ。
刻太は急いで布団に潜り込み、うつ伏せになった。
今までとは比べ物にならない量の汗が全身から吹き出る。震えは止まらず、あっという間にシーツがベットリと濡れてしまった。
しばらくして、また横目で部屋の様子を伺う。
──まだ、いる。
その物体は、何をするでもなくずっとそこにいた。まったく動かないのであれば刻太の恐怖も少しは和らいだかもしれないが、それは呼吸をするかのようにゆっくりと蠢いていたのだ。気味の悪いモソモソという音が部屋に響いている。
あんなふざけた物体が、生きているというのだろうか。
とにかく、刻太はそこから動くことができなかった。身体の緊張は収まらない。瞼を力強く閉じたが、眠ることなどできるはずがない。
やっと明るくなってきたのは、その六時間後。その頃には物体はどこかへ消えていた。しかし刻太の心が回復されるはずもなく⋯⋯その日は実質的な徹夜となってしまったのだった。
「⋯⋯ってことが昨日の夜あったんだよ!!! マジで怖かったんだから!!!」
給食の時間。同じ班のクラスメイトたちに、刻太はその出来事を伝えていた。
刻太の目元にはビッシリとクマが染み込んでいる。寝不足のせいで今日の授業はほとんど寝てしまっていたが、それにしてもまだ体力は回復しないし、あの時の光景を夢で見ることもあった。
「先生も言ってたけどさ、そんなにひどかったなら、今日は学校休んだほうがよかったんじゃないの?」
向かいの席の門切封は、呆れたようにそんなことを主張していた。幽魔町随一のアナログゲーム制作者である彼女にとっては、寝不足デバフ状態で学校に来るという決断が不思議で不思議で仕方がないらしい。
「ムリムリムリムリ! だってあの家が一番怖いんだから、むしろ学校から帰りたくないよ! それに、家族にもオバケのこととか信じてもらえないし!」
「ふぅん⋯⋯なるほどね」封はつまらなさそうにパンを頬張った。
「そのバケモノに心当たりとかないの?」
と、つい先日まで苔谷矛良と入れ替わっていた森茂が尋ねる。
「関係ないかもしれないけど、ウチに日本人形があるんだよな⋯⋯。おばあちゃんの遺品だけど、気味悪いんだ。
でも遺言で保管するように言われてるから、処分とかもできなくてさ」
「⋯⋯だってよ、どうする?」
教室の対角線上。霊禍が亘に尋ねた。
給食中の騒々しい教室においても、霊禍の超感覚は健在であり⋯⋯こんな何気ない雑談でさえも彼女にチェックされているのだ。
「見間違いの線もあるけど、一回はチェックしておいたほうがいいかもね」
「だよな⋯⋯。にしても、最近さすがに幽霊多くね? ワケわかんねーよ」
その違和感は、亘も感じていないわけではなかった。幽魔町自体が霊の濃度が濃い地域であるとはいえ⋯⋯最近の出現ペースとその厄介さは異様だった。
「とりあえず、放課後にでも行ってみようか」
その疑問は後回しにして、亘は淡々と答えた。
放課後。
二人は校庭に佐々木刻太を呼び出した。いつもの鉄棒エリア。刻太はオドオドした様子で立っていた。
「あのさ⋯⋯さっき話してるのを聞いちゃったんだけど⋯⋯おうちに日本人形があるんだって?」
「え、まぁ、あるけど⋯⋯」
霊禍は一気に刻太との距離を詰め、肩を掴んだ。
「なぁ、コイツがさ、日本人形に興味あるんだってよ。ちょっと見させてやってくれねぇか?」
刻太は怪訝な顔をした。亘が日本人形に? そんなキャラだっけか。
「亘ってさ、けっこうマニアックな変態だからな。そういうもんなんだよ⋯⋯」
「そんなことないけど」と亘が否定する。
「あるだろ!!!」
「霊禍が言うなら、あるんだろうね」亘はあっさり折れた。
そんなコント未満の意味不明なやり取りに眩暈を覚えつつも、刻太は二人を自宅まで案内することにした。まぁ、案内などしなくても、住所はとっくに把握されているのだけれど。




