図書室の魔女 2
小口挿絵は夕暮れ時の川沿いを歩いていた。
小口挿絵にとって本を読んでいない時間は退屈以外の何物でもなかった。そんな無聊を慰めるのは、脳内で生み出される独白。ただそれだけだった。
⋯⋯墓山亘くんには、およそ二年前まで、一人も友達がいなかった。
あの頃の彼は、滅多に喋らない人だった。話しかけられても無視。叫ばれても無視。先生に何かを聞かれて、やっと一言答えるけど、また無言になる。そんな感じだから、先生も次第に諦めて亘くんを呼ばなくなった。
かくいう私も、あまり友達はいない。当時の亘くんほどではないけど、遊びの誘いを全部断って図書室へ行ってしまう私と関わってくれる人がいないのは、当たり前のことだ。
本を読むほうが、友達と遊ぶよりも楽しいから。別にそれで構わない。
二年前までは、図書室に行けば必ず亘くんがいた。
北東の隅。そこが彼の定位置。後からきた私は、南西の隅に座るというのが、いつもの流れだった。
毎日、毎日、毎日、毎日、絶対に欠かすことなく、私たちは正反対の席に座っていた。
私はいつも昼休みが始まってすぐ図書室に来るのに、亘くんはどうして私より先にそこにいるのか、いつも不思議だった。同じ時間割で動いて、同じ教室から移動しているはずなのに。
だけど──そんな疑問を彼にぶつけたことは今までに一度もない。そもそも話しかけたことがない。
誰かに話しかけられるのが嫌だから、図書室に来ているのだろうし⋯⋯私が話しかけてしまえば、亘くんはもう二度と来てくれなくなってしまうかもしれなかったから。
だから私は沈黙を貫き通した。亘くんの望んでいるであろう静寂を尊び、絶対的な守護の対象とした。
席の一つ分でも、近づいたことはなかった。
──それなのに、彼はどこかへ消えてしまった。
否、『どこか』ではない。幽ヶ崎霊禍という転校生の少女のもとに、居場所を見つけたらしかった。
当時の私の心境は案外穏やかなものだった。友達ができて、社交性も明らかに増したのだから、別にそれで構わないのだと思った。
だけどどうして⋯⋯今になって、幽ヶ崎と鎌鼬と一緒に現れた亘くんに、名状しがたい失望を抱いてしまったのだろうか⋯⋯?
──そんなことを考えているうちに、私は川辺の坂道を上り終え、商店街に到着した。
この町に書店はない。最後の一つは最近になって潰れてしまった。
⋯⋯しかし、商店街の路地にひっそりと佇む、古本屋『酒壺』だけは例外だった。
もっとも古本屋である以上、最新の書籍などが売られているわけではないが⋯⋯幽魔町に住む読書好きにとってはライフラインに等しい店だ。少し古めの一般書籍から、絶版になった専門書まで⋯⋯何が飛び出してくるかわからない、まさに本の迷宮。
小口挿絵は、慣れた足取りで埃っぽい店内へ入っていった。
噂通り、小口挿絵は学校図書室の書籍を全て読み切っていた。最近図書室へ行くのは、新着図書を読むのと、ここで買った本を読むのが主目的である。
挿絵の主戦場は、店に入ってすぐの百円ワゴン。薄汚れた文庫本やソフトカバーの数々を掻き分け、奥底に眠る宝を発掘する。
もちろん、頻繁にこの店を訪れているため、大半の本に見覚えがあるが⋯⋯それでも、本に対する並々ならぬ情熱が彼女を突き動かすのだ。
そこで、小口挿絵は発見した。
ワゴンの底、文庫本よりも一回り小さいサイズ。一見するとなんの変哲もない書籍。
──しかし、その本の表紙は、まるで血で染めたように真っ赤だった。
裏表紙にも背表紙も真っ赤。タイトルすら書いていない。中身を見てみると、文字すらも赤い。
⋯⋯⋯⋯ふと、その本の匂いを嗅いでみた。ほんの少し、紙を鼻に近づけて、息を吸ってみただけだった。
脳を貫くような、強烈な鉄の香りがした。
翌日の昼休み。墓山亘は一人で図書室に足を踏み入れた。
「⋯⋯来たんだ」
南西の隅の席に、小口挿絵がいた。亘は昼休みが終わってすぐに図書室に来たつもりだったが、彼女のほうが早かったようだ。
霊禍と奏も一緒だった昨日を除けば、亘が挿絵よりも遅れて図書室に来たのは初めてのことだった。
「昨日来てみたら、懐かしくなってさ」
「二年ぶりくらいでしょ。亘くんがここに来るの」
もはや小口挿絵には、会話を遠慮する心はなかった。なにせ、霊禍や他のクラスメイトと普通に会話している姿を、この二年で何度も見てきたのだから。
「⋯⋯そうだね」
「ねぇ、亘くん。
私、とってもおもしろい本を見つけちゃった」
「そうなの? でも、今はいいや」
亘はそう答え、本棚を眺め続けた。
「⋯⋯なんでそうやって無視するの?」
「無視っていうか⋯⋯今はきみのオススメに興味がないんだ。図書室を見たいだけだから」
挿絵は思わず立ち上がり、亘に近づいた。
「ほんっとに社交性ないんだね⋯⋯! 私はただ、本をオススメしているだけなのに⋯⋯!」
「だから、興味ないんだって⋯⋯」
二人の距離は一メートルもなかったが、それでも亘は、挿絵に目線すら向けようとしない。
「⋯⋯私と幽ヶ崎霊禍の、何が違うの!?」
その言葉を聞いて、やっと亘は振り向いた。
小口挿絵は本を開き、亘の眼前に向けていた。赤い文字で、端から端までビッチリと文字が敷き詰められた書籍⋯⋯というよりは、手記の趣だ。
その文章はおよそ日本語には見えなかった。それなのに内容が頭に入ってくる。
自分から能動的に読んでいるわけではない。むしろ、文字のほうが頭に侵入してきているかのような⋯⋯。
そのあまりの気分の悪さに、墓山亘は意識を失った。




